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真祈りの秘奥義を伝授する為の印可書


真祈りの全体像(全体図)とは

絶対の中心 (無限大の外遙か彼方、無限の無限の彼方)から、全方向から、すべてのすべてへ、

左旋回の渦巻きとなって一瞬に舞い降り、舞い昇る。

無色透明の輝き(光源と光の流れ)が、表を通って無限大が無限小となり、

裏を通って無限小が無限大となり、絶対の中心へ戻ってゆく。

一点に向かって無限通りの光の渦巻きが、一瞬一瞬新たに降り注ぐ。

無限のすべての一点に向かっても、同じように降り注ぐ。

無限の無限の渦巻きは、無色透明の輝きとなって、お互いが干渉し合うことも、
 
邪魔し合うことも全くなく、お互いに支え合って、その輝きを増すだけ。

新たなる全徳の無限の無限の輝きが無限に無限に一杯!という、

一大循環の相象(すがた)の完璧極まりない一つの流動体となっている。


俯瞰図↓

←大変重要な映像です(河上・大桃注)



新たなる真(まこと)の神さまだけ!
新たなる真(まこと)のプラスだけ!

新たなる真(まこと)の本心の耀きだけ!
新たなる一大循環の相象だけ!
新たなる真(まこと)の調和だけ!
新たなる真(まこと)の支え合いだけ!

新たなる真(まこと)の自由自在な心だけ!
新たなる完璧な一つだけ!
新たなる無条件の幸せだけ!
(新たなる無限の無限の幸せだけ!)
新たなる真(まこと)の十界だけ!
新たなる真(まこと)のプラスの言葉だけ!
新たなる真(まこと)の真(まこと)の十界だけ!
新たなる無条件の喜びだけ!
(新たなる無限の無限の喜びだけ!)
新たなる無色透明の輝きだけ!
新たなる真(まこと)の清らかな流れだけ!

新たなる真(まこと)の本心の自覚だけ!
新たなる真(まこと)の盤石の支えだけ!
(新たなる盤石の支えに立つ真(まこと)の本心の自分だけ!)
新たなる下座に立つ真(まこと)の本心の自分だけ!
新たなる絶対奉仕に立つ真(まこと)の本心の自分だけ!
新たなる絶対感謝に立つ真(まこと)の本心の自分だけ!
新たなる真(まこと)の神さまの座に立つ真(まこと)の本心の自分だけ!
(新たなる真(まこと)の神さまに立つ真(まこと)の本心の自分だけ!)
(新たなる恩返しに立つ真(まこと)の本心の自分だけ!)
新たなる真(まこと)の神さまは、新たなる真(まこと)の本心の自分という自覚だけ!
新たなる秘奥義のありがとうございますだけ!




”我”真(まこと)の神さまなり!
宇宙絶対統一神なり(宇宙神なり)
彼我(ひが→無限の無限の輝きが無限に無限に一杯!という意味です)一体なり!
不離一体なり!神我一体なり!
宇宙絶対統一神なり!
絶対の中心無限大の外遙か彼方、無限の無限の彼方から全方向からすべてのすべてなり!
共に行き巡り合い合い働くなり!

(まこと)の神さまは一大循環の相象(すがた)で厳然と今此処に(ここに)在します(まします)
新たなる全徳の無限の無限の輝きが無限に無限に一杯!
宇宙神ありがとうございます
宇宙神ありがとうございます
宇宙神ありがとうございます
宇宙神ありがとうございます
宇宙神ありがとうございます
宇宙神ありがとうございます
宇宙神ありがとうございます
宇宙神ありがとうございます

(注、8回前後繰り返します。特に回数はこだわりません。
自由自在です。
また、ありがとうございますでも、もちろんいいです。
自由自在に使いやすい祈り言葉を使って下さい。)

ありがとうございます ありがとうございます ありがとうございます

ありがとうございます ありがとうございます



これは

真祈りの秘奥義(ひおうぎ)を伝授する為の印可書です。

本心の自分をしっかりと生きることによって、

その理解も深くなり、
無限の価値を見いだすことができるのです。


より深く理解することによって、
   
より大きな価値を見いだすことができ、

自分の見いだした価値だけのものを

受け取ることができるのです。

真(まこと)の神さまに大きく降りたってもらう為には、

自分の生命よりも何よりも

大事に大切にすることです。



真祈りの全体像(全体図)とは

 絶対の中心 (無限大の外側 遙か 彼方、無限の無限の彼方→かなた)から、
全方向から、すべてのすべてへ、

左旋回の渦巻きとなって一瞬に舞い降り、舞い昇る。

無色透明の輝き(光源と光の流れ)が、表を通って無限大が無限小となり、

裏を通って無限小が無限大となり、絶対の中心へ戻ってゆく。

一点に向かって無限通りの光の渦巻きが、一瞬一瞬新たに降り注ぐ。

無限ののすべての一点に向かっても、同じように降り注ぐ。

無限の無限の渦巻きは、無色透明の輝きとなって、お互いが干渉し合うことも、
 
邪魔し合うことも全くなく、お互いに支え合ってその輝きを増すだけ。

新たなる全徳の無限の無限の輝きが無限に無限に一杯!という、

一大循環の相象の完璧極(きわ)まりない一つの流動体となっている。

俯瞰図↓





新たなる真(まこと)の神さまだけ!新たなる真(まこと)のプラスだけ!
新たなる一大循環の相象だけ!新たなる真(まこと)の調和だけ!
新たなる真(まこと)の支え合いだけ!新たなる完璧な一つだけ!
新たなる無色透明の輝きだけ!新たなる真(まこと)の清らかな流れだけ!



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真(まこと)の神さまを大きく与え続けるのを忘れた時に、

無限小の末端(まったん)に近いところで、過去をつかむという執着が起こる。

過去の残像という思いの霧が発生する。

思いの霧が立ち込めると、周りが正しく見えなくなってくる。

思いの濃霧となり、更には、思いの黒雲となって、たなびくようになる。

思いの雲霧(うんむ)の中に閉じ込められると、思いの色めがねを通して見る世界、

即ち、”虚”の世界があるかのように、錯覚するようになる。

縮小執着再現図↓





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思いの色めがねを通して見る世界、”虚”の世界を大別すると十界(じゅっかい)となる。
十界(じゅっかい)には、降り立つ姿と昇ってゆく姿の二通りがある。
 
思いを消し去るために降り立つ姿の十界(じゅっかい)と、

思いを消し去って昇ってゆく姿の十界(じゅっかい)がある。



真祈りを祈り続けて、真祈りの無色透明の光となって、
   
十界(じゅっかい)のそれぞれに波を合わせて、同じ姿をとりながら、

思いを消し去るのが前者の十界(じゅっかい)です。


真(まこと)の神さまの真祈りが降り注いでいるのが、

真(まこと)の真(まこと)の十界(じゅっかい)の姿です。

  
十界(じゅっかい)拡大図↓



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思いを消し続けてもらって、順番に昇ってゆくのが、後者の十界(じゅっかい)です。

 
順番に救い上げられてゆく姿の真(まこと)の十界(じゅっかい)です。

十界(じゅっかい)地図↓



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我の心・思いの心・求める心を生きていては、
  
視野が狭くなって、ミニ十界(ニセの・模型の十界(じゅっかい))に
  
落ち込んでしまうのです。

偽物を本物と取り違えて、本心の自分に戻ることは、不可能です。

ミニ十界(じゅっかい)図↓


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恩返しに生き、絶対奉仕に生き、全託に生きる時に、
  
思いを消し続けてもらうチャンスが殖(ふ)えるのです。

思い・我が少なくなると、本心の自分を生き易くなるのです。

本心の自分は、新たなる自分・与え続ける自分です。

過去をつかむと、思いの霧が発生するのです。

マイナスの言葉は、黒い煙を吐(は)き出しているのです。

また例(たと)え、それがプラスであっても、思いの白い霧が発生するのです。

過去を言葉にすることは、思いの煙を出し続けているのです。


  
過去をつかんで、循環の流れを邪魔すれば、マイナスになってゆくのです。

循環の流れを加速すれば、プラスが大きくなってゆくのです。

自分を、自分のすべてを与え続け、更には絶対の中心から、すべてのすべてに、

真(まこと)の神さまを与え続ける、
真祈りの実行こそが、真(まこと)の幸せへの一番の最短コースです。


  
真(まこと)の十界(じゅっかい)の菩薩・仏として、昇化(しょうか)してゆく為には、

新たな自分、無限大の自分、全体を支える自分、謙虚に下座につく自分、

本心の自分をしっかりと生きることです。

真(まこと)のプラス一元の教えを受けて喜んでいるだけでは、

声聞(しょうもん)・縁覚(えんがく)・を卒業出来ないのです。

真祈りの実行だけに絞り込んでこそ、真(まこと)の菩薩・仏になってゆくのです。


真(まこと)の菩薩界、真(まこと)の仏界にあっても、
真(まこと)の神さまに降りたってもらってこそ、


すべての我、思いを消し去ってもらえて、真(まこと)自分・本心の自分に戻れるのです。

  真祈りの実行だけに絞り込んで、
すべての我、思いを消し去るお手伝いに生きるのが、真(まこと)の菩薩・仏の生き方です。




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真(まこと)の神さまに降りたってもらうのが、真祈りの実行です。

その為にありとあらゆる方法を活用してゆくのです。


@真祈り ありがとうございますを一日24時間+アルファ 祈り続けるのです。

A真(まこと)のありがとうございます護摩の総責任者の自覚を深めるのです。

B大奇跡の本をポステイングする総責任者の自覚を深めるのです。

C日常生活のすべてにおいて、

真(まこと)の神さまに降りたってもらうことだけを心掛けるのです。

すべての我、すべての思いを消し去ることが、唯一無二の目的です。

そうすれば、”虚”の世界が、一切の問題が、消え去るのです。

思いが消えたら、解決不可能と見える、すべての問題も消え去るのです。



真(まこと)のありがとうございます護摩も、大奇跡のポステイングも、

真(まこと)の神さまに大きく降りたってもらい、

全ての思いを消し去ってもらう為なのです。


自分の自由意志で、どんな生き方でも選べるのです。

すべて自分の選んだ通りに成るのです。

言葉が心となり、行いと成るのです。

言葉を支配すれば、心も支配できるのです。

真(まこと)のプラスの言葉を駆使し続ければ、

本心が輝き、真(まこと)の神さまのお手伝いが出来るのです。



一瞬一瞬、何を選ぶのか?

無限の無限通りの中から、最高のものを一つ選ぶことです。

真(まこと)の神さまからのプレゼントは、言葉通りに受け取れるのです。

更に、大きく大きく与える側に立てば、

真(まこと)の神さまの無限の無限通りの働きが実感・実観出来るようになるのです。

印可書Q&A

 
<印可書についてのQ&A>


Q この印可書の持つ意味について教えてください。?

真(まこと)の神さまの一番の願いは、真祈り(まいのり)を伝授して全ての思い・我(が)を消すことなんですね。そうしたらね、”虚”の世界が消えて、全ての問題が消えるの。
それだけが神さまの願い、目的なのね。
 真祈り(まいのり)とは何か?真(まこと)の神さまの祈り。真(まこと)の神さまの働きそのもの。
真祈り(まいのり)の伝授は、真(まこと)の神さまが降り立たないと伝授にならないのね。真(まこと)の神さまの働きはどれだけ大きいか。それは、はかりしれないのね。
言葉だけでいくら説いていても、みんなまだ実感がないの。感覚の実感も、観ずる方の心の目で見つめる実観も、まだまだ浅いの。
今回、真祈り(まいのり)の本当の秘奥義(ひおうぎ)を伝授するための印可書(いんかしょ)が、神さまからプレゼントされるのね。
 でもね、本当に真祈り(まいのり)の秘奥義(ひおうぎ)を体得している人には、この印可書は必要がないの。

 では、印可書の意味とは何か。修了書・卒業証書、秘伝を伝えるための秘伝書、奥義書(おうぎしょ)という意味もあるよね。
 しかし、本当の印可書は本当の悟りを開いているかを、神さまが認めてくれるかどうか?。その段階を評価して、本物かどうかをしっかりと認定してもらうのね。
 でもね、それだけだったら何の役にも立たないのね。悟りへの道を歩む過程において、色んな難関、関所が一杯あるの。
この関所を通り抜ける時に、神さまの的確な導きと、無限の大きい護りが要るのね。だから、その関所を通り抜ける通行手形にこの真祈りの秘奥義を伝授するための印可書はなるのね。
 これを持っているから、護り続け、導き続けてもらえるの。本当の悟りへの最短コースを歩ませてもらえるの。何もなければ受け取れないし、導きも護りも何もないのね。

 これはお金では買えない、無限の価値のある貴重なもの。粗末にしたら、悟りへの道は歩めないのね。自分の命よりも、もっともっと大事なものなのね。
 ”虚”の世界の、肉体の生命、魂の生命は取るに足らない。本当の真(まこと)の神さまが真(まこと)の自分という大きい自分から見たら、生命なんてゼロと同じなの。
 小さい肉体意識の自分と同じレベルに見ていたら、本当のものは受け取れないのよ。だから、生命よりも、何よりも大事なもの、大切なものという受け取り方が、絶対に必要になるの。
 そして初めて本当の悟りを与えてもらうための、本当の悟りを開くまでの大事なお護りに真祈りの秘奥義を伝授するための印可書はなるのね。?

一つの言葉でも、本心の自分が答えを出すのと、思いの自分が答えを出すのとでは、正反対になるのよ。
 常に本心側に立って、答えを出そうとしても、答えが無限通りあるのね。思いを全部消してもらって、我を全部消してもらってからが悟りへの第一歩なのね。
 本心の自分の側に立って、真祈り(まいのり)の秘奥義(ひおうぎ)に行くまで無限の段階があるのよ。思いが全部消えたから、本当の悟りが開けるか?、そんな思いが消えたくらいでは悟りとは違うのね。そんなもの悟りとほど遠いものなの。
 思いが消えて、そして自他を分け隔てる我(が)が全部消えて、初めてそこが出発点なの。そこからこの奥義書(おうぎしょ)が必要になるのよ。本当の導きと護(まも)りが必要になるのね。




○真祈り(まいのり)の全体図について

Q なぜ螺旋は左旋回だけなのでしょうか?

虚の世界は、プラスとマイナスと二つに分けている。左旋回がプラスの方、右旋回がマイナスの方。
霊と体に分けたら、左旋回が霊の方で、右旋回が体。そういう意味で、分かりやすく説明した時に、左旋回と右旋回と言うけれど、
 神さまの世界では、左旋回だけ。プラスだけという意味で、左旋回にしているのね。だから右旋回のマイナスは無い、という意味なの。

 ただ、神さまの螺旋の左旋回と言うけれども、神さまは本当の自由自在なの。形も無いんよね。だから左旋回に光が流れる時に、何かパイプのようなものがあって、
 その中を通り抜けるような感覚は無いの。自由自在でも、本当の法則通りにスーッと流れるの。それは、枠にはめられて流れるのではない。枠は要らないないのね。
 枠がないから、無茶苦茶に流れるのではない。枠が無くても、本当に必要な法則通りの動きしかしないの。それは、無限の無限の波の交流によって、成り立っているとも言えるし、それでもまだまだ浅い見方なんだけど、ここが違うの。
 虚の世界は、枠の中を、パイプの中を流れようとする。そうしないと、枠やパイプが無かったら、他へ漏れてしまう。何故か?それはね、中心に帰一していないからなの。その違いがみんなが想像する以上に大きい。
 自由自在でありながら、神さまは一つの最高の生き方を選べるの。それはね、絶対の中心無限大の外に帰一しているからなの。


Q なぜ真(まこと)の神さまから降り注ぐ光は物質ではないのに、なぜ表と裏があるのでしょうか?この表と裏には、どういう意味があるのでしょうか??

 パイプの裏表と表現するけれども、本当はパイプがないから、裏表がないから表裏一体。
それでいて、パイプがあるように、表裏があるように、動いている。これも本心の心で見るのと、我(が)の思いの心で見るのと正反対に解釈するのね。
 本心で見るのは、神さまの心を真意を神意を汲み取ろうとする。本当の深い深い意味を汲み取って、理解しようとする。表面の言葉に縛られないのね。
 言葉に縛られないから自由に奥を深く深く理解しようとするが出来るの。思いの心の方は、言葉にとらわれる形にとらわれる。いろんな形の縛りの中でどうしても見てしまう、考えてしまうから、ちょっと矛盾するな、とか思ってしまうの。
 神さまの側に立とうとしたら、本心側に立ってみたら、一切の矛盾が消える。すべては完璧なる一つなのね、だから単なる表面の言葉ではないの。表面の言葉の解釈だけではなくて、すべて正反対なの。それはねどんな言葉もそうなのね。
 本心と思いの心とは正反対に解釈してしまうのね。

 例えば、精神統一とか、精神集中。これは本心と思いの心では正反対の行動をとるの。思いの心は、精神統一と言うと、一点に集中しようとする。精神集中も同じなのね。
 周りがわからなくなるくらい、一点に集中しようとするの。この小さく閉じこもろうとする心がねこれは思いの心なの、我の心の小さい一点への集中なのね。でも本心の集中は正反対。無限大へ心を広げるの。
 神さまの本当の大きい御心の中へ心を広げていく。一点じゃなく、無限大に広げる。同じ精神統一、精神集中と言っても、解釈が違う。正反対になるのね。

 一つの言葉を解釈するときに、必ず本心側に立って、神さまの辞書に合わさないとダメ。神さまの辞書は、一つの言葉でも、幾通りにも入れ子構造重層構造的に解釈があるの。
 10通りくらいではないのよ。プラスの大きい解釈が、本当は無限通りあるの。常に常に一瞬一瞬新たに新たに本心側に立たないと、とらわれてしまうの。

 本当の左旋回がどういうものかも、言葉だけの理解だとわからない。奥へ奥へ入ったら、形を越えているから。単なる形を見ての左旋回ではないのね。表面から奥へ奥へ外へ外へきりがないのね。



Q なぜ螺旋なのでしょうか?どういう意味があるのですか?

 たとえば、旋回の螺旋が、直線ではないところも、違いが大きい。螺旋だと相似形の姿をとって順番に移り変わることが出来るよね。
 円だったら、小さい円から大きい円に順番に広がることができるの。だから、入れ子構造の最初の一番簡単な姿を表わしているよね。
本当の入れ子構造の姿は、単なる模型的な小さい相似形の姿の比較ではないのよ。それはそれは奥が深い。表面の解釈と奥深い解釈とは全く違うの。
 同じ左旋回、螺旋と言っても、言葉の解釈が、奥へ入るほど、複雑になる。単純なものではない。ここも順番に体得していくしかないのね。音楽のひびき、色彩のひびき等々をはるかに超えたものなの。
 言葉だけではね誤解を招くのね。特に思いの心では誤解のしっぱなしになるの。本心側に立っても、まだまだ浅い解釈で終わる。
 だんだんと奥深い複雑なものになって行かないとダメ。それが形を越えているだけに、どこまでも奥深いの。はてがないの。


Q 絶対の中心とは場所のことではないと聞いているのですが…

 絶対の中心というのでも、どこか一定の場所があるのではない。一番大きく与える立場。
 どこにあるか。神さまの御心は、どこまでも奥深いのね。
 入れ子構造でも無限に奥深い。一番奥深い、入れ子構造の一番奥の奥の奥。そこもまだ、絶対の中心かどうかわからない。まだもう一つ奥があるかもしれない。
 大きく与える立場はそう。これも空間的に見て、場所を指定するようなものではないんよ。入れ子構造、重層構造、異次元構造、全部が合わさった、全部のおおもと。
 場所じゃないから、どこでも、全部が絶対の中心にもなるし、ならないかもしれない。これはやっぱり自分の自覚。本当に大きく与え続ける本心の立場の自覚。つまり総責任者の自覚。
 本当の愛の深さの自覚。大きくなるほど、絶対の中心に近いのね。