00.01.02.03.04.05.06.07.08.09.10.11.12.13.14.15.16
.17.18.1920.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31.32.
33.34.35.36.37.38.39.40.41.42.434445 46 474849 50 51

ふることふみにようこそ! カウンター人目の訪問者です。参考文献、引用等は、水谷清 先生 著 古事記大講 です。

 

ふることふみ(古事記)

あめつち はじめ おこるのとき たかあまはら に なりませる かみの みなは あめのみなかぬしのかみ

とこよのながなきとりをつどへて なかしめて

集常世長鳴鳥 令鳴而

 常世: 永遠不滅・永久不変・常住不滅・常住不変・常住不断の絶対世界。常楽我浄の極楽世界。

 長鳴鳥: 長とは、長く・永く・永遠に、時間的・空間的の一切に行き渡り・満ち渡り、最高の権威・威力を保持し続けるもの。鳴とは、尊厳無比・調和無限・歓喜無量の言霊の鳴り響く、永遠の真祈りであり、神聖神楽であり、宇宙の一大交響楽である。鳥とは、天空を自由自在に飛翔するもの、高所から全体を見渡せるものという意味から、宇宙を自由自在に翔け巡って働くことの出来る高級神霊のことであり、一瞬一瞬新たに絶対より現れては絶対に戻る(天地間を昇り降りする)・全相を把握して自由自在に必要な働きをする本心の心のことである。鳥は必要な所へ群がるように多く集まることから、真実の祈りのある所には、高級神霊が大挙して集まり、救世の大光明となって働くという意味もある。

 集: 神格の内流に導かれて、自然に必要な所に集まることである。

 令鳴而: 真実の祈りを祈らせることである。真実の祈りとは、神さまの全徳が無限の無限の大光明燦然と輝いている姿を言葉に換えて、24時間プラスアルファー、一心に祈り続けることである。

 マイナスの言葉を積み重ね過ぎた為に、必然に暗黒の世界が地獄が到来したのである。そのマイナスの言葉を消し去って、プラスの言葉で一杯にしなければ、光明の世界は極楽はやって来ないのである。その為には最高の権威・威力のある祈り言葉を駆使しなければならないのである。マイナスの言葉を使えば使うほど、ますます闇は深くなり、プラスの書葉を使えば使うほど、夜明けが近くなってくるのである。マイナスの言葉を・暗黒の世界を消し去るだけでは無く、更にプラス無限大の大光明楽土を招来するために、最高最大のプラスの言葉を駆使し続けてゆかなければならないのである。

86-1

















あめのこやねのみこと ふとたまのみことをよび あめ の かぐやま の まをしか の かたを うつぬき に ぬきて あめのかぐやま の あめのははかをとりて うらへ まかなはしめて

召天兒屋命 布刀玉命而 内拔天香山之眞男鹿之肩拔而 取天香山之天波波迦而 令占合麻迦那波而

 天兒屋命: 天津日子根命(天之常立神の表現神・奇魂神)の一変身のすがた。布刀詔戸言(ふとのりとごと)祷白(ねぎもうす)役目の神。コヤネは言綾根(コトアヤネ)であって、言葉(言霊)の使い方・組み合わせ方が、根(絶対神の御心)より生まれた、最高に素晴らしい・麗しいものであるという意味。

 布刀玉命: 天津日子根命(天之常立神の表現神・奇魂神)の一変身のすがた。布刀御幣(ふとみてぐら)と取持(とりもたす)役目の神。布刀玉とは、太玉串(ふとたまぐし)の意。

 天香山: 絶対の世界。地球上の行事と見る時は、月の世界。

 眞男鹿: 眞とは、素晴らしい。男鹿とは、へら鹿のような雄々しい角を持った鹿。
 
 肩を内抜きに抜く: 内(うつ)とは、全部。抜くとは、除き去る、消す。例えば鹿の肩から下を全部消し去ると、棒グラフ状に並んだ角だけが残るように。

 天波波迦(原文は異体字): 葉の葉脈が整然として、理想的な方眼紙状になっている、ある香木の葉。天とは、理想的な。波とは、水面の高低運動によって生じる筋状の罫線のようなものの意。迦とは、歩いて行って出会う意。波波迦とは、罫線が縦と横に組み合わさって、方眼紙状になったものの意。

 占合: 「うらへ」は「うらあへ」で、「うら」は心であり、「あへ」は合致である。心と心、霊と霊を合致させる作法・行法のことであります。

麻迦那波: 真適は(まかなは)しめであって、真実に大神の御心とピッタリ適合させることであります。 「うらへ」が充分であれば、「真適う」のであります。

 絶対神の御心に合致して、大神の御心のままに、棒グラフ的に数量(量)を定め、方眼紙上に図形(相)を定めて、鏡・玉の性質(質)と合わせて、量・相・質の三即一の完備した、地上生物の根本形態となる図式構成を行っているのであります。

89-1

あめのかぐやまの いほつ ま さかあ きを ねこじに こじて ほつえに いやさかあの まあかたあまの いほつの みすまるのたまをとりつけ なかつえに いやあたかがみをとりかけ しづえに しらにぎて あおにぎてを とりしでて

天香山之五百津眞賢木矣 根許士爾許士而 於上枝 取著八尺勾瑰之五百津之御須麻流之玉 於中枝 取繋八尺鏡 於下枝 取垂白丹寸手青丹寸手而

 眞賢木: 永遠不滅の宇宙大生命を樹に譬えているのである。それを象徴する為の、芳香のある常緑樹。月桂樹、楠木、榊。眞(ま)とは真実の、自然のままの、正しい、永遠不滅の義。賢木(さかあき)のサカアとは、無限伸展・無限の栄え(イヤサカア)の義。

 五百津: 枝が天地四方八方に伸びて、普遍的に無限伸展している義。

 根許士爾許士而: 樹木などを根の付いたまま、挟ちようにして掘り取ること。根が付いていると言うことは、永遠不滅・生々撥刺・新生成長を保証。上枝・中枝・下枝とは、神像・人像・生物の体の根本構成は、三つ(頭・胸・腹)に大きく区分されるところから、生命の木も三段に区分しているのであります。

 丹寸手: ニキタヘの約。神に供える麻の布の称。ニキ(和)(ニコと同根)とは、穏やか・柔らか・細かの義。 タヘとは布。カアマハラ神力の表示(後の草薙剣)で、神経系統を意味する。白丹寸手とは梶の木(若い枝の皮は和紙の原料)の皮の繊維で織った白布。自律神経(交感神経・副交感神経)を表示。青丹寸手とは麻(木綿に比べて青みがある)で作った布。知覚神経・運動神経を表示。

 八尺鏡: タカアハラの表示。 頭(顔)・知・清明の明徳

 御須麻流之珠: タアマハラの表示。  胸・情・仁慈の至徳

 青丹寸手白丹寸手: カアマハラの表示。  腹・意志・剛勇の武徳珠は上枝に懸かっているのでありますが、その大部分は胸部に垂れ下がっているのであります。鏡(頭)は中枝に取りかけると、全体から眺めると上部に属しているのであります。珠は頭部の左右の御美豆羅にも纏うことになって、最もバランスのとれた理想的な姿となるのであります。これが天照大御神の尊厳無比の御神像・御尊影の表徴としての天津神簾(あまつひもろぎ)(御霊代・御樋代)なのであります。

90-1

このくさぐさのものは ふとたまのみこと ふとみてぐら と とりもたして あめのこやねのみこと ふとのりとごと ねぎまをして

此種々物者 布刀玉命 布刀御幣登取持而 天兒屋命 布刀詔戸言祷白而

 此種々物: 根(絶対)付きの天香山之五百津眞賢木に、八尺勾瑰(原文は異体字)之五百津之御須麻流之玉が取り付けられ、八尺鏡が取り懸けられ、白丹寸手青丹寸手が取り垂でられて、天照大御神の移写(うつしすがた⇒象徴)としての御神像・御尊影が構成されたのでありますが、その構成物のすべてを指しているのであります。

 布刀御幣: 御幣とは、神を祭る(真釣る・真に釣り合う・同じ状態となり一体化する)時に、神に捧げる物の総称である。天照大御神の聖像の模型(御霊代・御樋代)でもあり、万生の基準体型の模型でもある。布刀とは、太(ふと)である。もと、?(大が上下に並んだ字)と書いた。大きい上に更に大きい意。太極(陰陽二気に分かれる前の唯一の存在)の太であり、唯一無二の・絶対の・最も正しい・一大包容の・全備具足の・公式の・公の・すべてに通用する・すべてを尽くした・無限に無限に大きい、等の意。布刀玉命は此種々物を総括して、布刀御幣そのものに成りきっているのであります。

 布刀詔戸言: 詔戸言とは、ノリ コトゴトであります。ノリとは、法(真理・道理・至道・規範・標準・基準・模範・公正・法則・法律・宇宙の有形無形の一切の事象)であり、則(原則・法則・標準・手本・道理・天理・条理・組み立て・筋道・常住不変・物差し)であり、祝(祈る・幸せを祝う・めでたいことを喜ぶ・感謝する)であり、糊(密着させる・一体化する)であります。コトゴトとは、言言であり、言霊の宿る種々様々な言葉であります。

 フトノリコトゴトとは、すべての感謝の言葉であります。 「ありがとうございます」という感謝の言葉には、天照大御神(全徳の無限の無限の輝き)今・此処に在します、という根本義が秘められているのであります。神我一体化させる・どんな幸せをも感受させる・誰もが自由に使える・自然発生的に生まれた・不可思議な・奇跡を呼ぶ・神秘の言葉である。天兒屋命は奇魂神として神通自在力を発揮して、根源より深い感謝の祈りを捧げているのであります。

91-1

あめのたぢからをのかみ みとのわきにかくりたたして

天手力男神 隱立戸掖而

 天手力男神: 天照大御神の本化神。高御産巣日神の御子。手とは、千手観音の手(救いの働き)の如く、ありとあらゆる一切の働き。多であり、無限を意味する。力とは、腕力・脚力・体力・知力・智力・気力・精神力・学力・心力・胆力・念力・努力・忍耐力・迫力・能力・魅力・神秘力・神通力・威力・・・・等々の一切の働き・作用・能力を意味する。男とは、その力が非常に雄々しく・逞しく・強く・勢いのある・不撓不屈の・剛勇無比の・素晴らしい・偉大なものであるという意義。

 隱立戸掖而: 戸とは天石屋戸であり、顕界の天照大御神が幽界に現れる時の通路に当たるものである。天照大御神(本心・完成)が主役であり、天照大御神を引き出すことが究極の目標である。従って天手力男神がどのような力を発揮しようとも、あくまでも脇役なのであり、どのような成果を挙げようとも途中の過程の小さな目標達成でしか有り得ないのである。謙虚に謙虚に脇役に徹し切って、己が頭角を現さないようにしながらも、全力(すべての最高の力を発揮する)を尽くして、一歩一歩着実に天照大御神の全貌を引き出す為の準備を積み重ねているのであります。

 天照大御神(本心・完成)を引き出す為には、我の心を捨てて、謙虚に謙虚にならなければならないのである。自分が自分がと、自分を前面に出すということは、業想念を積み重ねる生き方であって、本心を引き出し・輝かす生き方では無いのである。現在の自分にどんな素晴らしい能力が備わっているにしても、天照大御神(本心)の無限の無限の能力と比較すれば、無(0)に等しいものなのである。しかも現在の自分の備えている能力のすべてが、天照大御神から流れ入り・与えられたものであって、天照大御神から離れた独立した別個の能力では無いのである。どんな能力も一瞬一瞬新たに新たに、天照大御神から受け直すことによって、より高度な素晴らしい能力となって現れてくるのである。謙虚に謙虚に、すべては天照大御神の御力である!と、マイナス無限大の立場から、プラス無限大の天照大御神の御力を受けることが、隱立(カクリ夕夕スル〉ということであります。

92-1

あめのうずめのみこと あめのかぐやまのあめのひかげをたすきにかけて あめのまさきをかづらとして あめのかぐやまのささぱをたぐさにゆひて あめのいはやどに うけふせて ふみと ど ろ こ し かむがかりして むなぢをかきいで  もひもを ほどにおしたれたり

天宇受賣命 手次繋天香山之天之日影而 爲鬘天之眞拆而 手草結天香山之小竹葉而 於天之石屋戸伏汗氣而 蹈登杼呂許志 爲神懸而 掛出胸乳 裳緒忍垂於番登也 

 天宇受賣命:天照大御神の本化神。高御産巣日神の御子。宇(空間・全ての現れ)をそのままに受ける意義から、虚心坦懐・無我・無心・謙虚・素直・従順・無邪気・無畏怖・無為・神任せ・・・等の神性を保持する最高に素晴らしい女神。

 髻華(うず):古代、木の枝・葉・花等を冠や髪にさして飾りとしたもの。神楽に髻華(うず)をかざして舞った〔自然のものを身に付けて、天真爛漫に神楽舞いを舞った)ところから、この名が在る。

 渦(うず):流体の中で、こまのように自転している部分。速度の違う二つの流れが合わさるとき、流れが鋭い角を曲がるときなとに生ずる。煙草の煙の環や竜巻・台風の類も渦の一種。大きく渦に巻き込む働きを示す。

 日影:3メートル位の蔓茎に細茎を分枝し線状の細かい葉を付ける。乾しても色青く枯れない。青々(生き生き)とした、ふさふさとして柔軟な帯状の蔓草。たすき掛けに適す。

 眞拆:鬘(かずら)(頭髪の飾りにするもの)にするのに相応しい芳香ある花木。
 
 小竹葉:其を打ち振れば、サアサアと鳴る竹の葉。竹は中空にして、無我無心の象徴,

 手草結:数枝を合わせて、本を結び東ねて、手に持ちごろにすること。
 
 伏:物をさかさまにする。裏返しに置く。

 汗氣:槽(うけ)、中が空っぽの大きな入れ物。 桶(おけ)。

 登杼呂許志:とどろこし、とどろかし、轟かす(鳴り響かせる)。
 爲神懸而:かむがかり、かみがかり、神憑り、神霊が人身にのりうつること。神の方から、心をかけて、神の御心のままに、操り人形の如くに自在に操る。天宇受賣命は天照大御神の本化神であるから、絶対帰一・絶対随順・絶対奉仕の心の天宇受責命に、天照大御神の働きがそのまま自然に正しく現れること。
 掛出胸乳:胸乳(乳房)を手で掻き出して、露にすること。

 裳緒:裳(上代、女子が腰から下にまとった衣)を結える紐(ひも)。
 忍垂於番登也:番登(女の陰部)の見えるところにまで、抑え下すこと。

93-1

 普通の常識から見れば、女性の乳房や陰部というものは、人に見られるのを恥じて、隠すのが当然であるのであります。それを大衆の前に露にするということは、正気を失った気違い沙汰なのであります。現今の妙齢の美女が裸体で踊っているのは、暗黒時代(肉欲至上主義)の終極の姿を現しているのであって、天宇受賣命の神懸による神楽舞いの姿とは、全く正反対の意義を有しているのである。旧約聖書の創世記に、アダムとイブがエデンの園で裸体のままで生活していたが、本心の心のままでいるときは、少しも恥じることが無かったのであります。ところが蛇(物質波動)に騙されて、善悪を知る樹の実を食べた為に、自分たちが裸体であることに気付き、無花果の葉で裳を作った、と記されているのであります。本心の心か業想念の心かの違いによって、浄・不浄が決定されるのであります。

 正しい・真実の神懸の状態は、純真な本心の心そのものに成り切ったところに現れるものであるのであります。もし心のどこかに少しでも我の心が残っていたら、それは正しい神懸の状態では無いのであります。宇宙絶対神の御心が100%正しく現れてこそ、正しい神懸なのであります。業想念の心を残していては、小さな本心の自分を掴んでいては、正しい神懸では無いのであります。天宇受賣命(あめのうづめのみこと⇒業想念を全く持たない)でさえ、純粋に・至真に無我・無心に成り切ろうとしておられるのであります。その為にその装いも、人工物の臭気や気配を一切排して、自然物のみを使用しているのであります。真の自然物とは、一瞬一瞬新たに新たに、神さまから受け直したものであって、想念感情の一切付着していないものであるのであります。

 槽(うけ)を伏せて、素足でドンドンと踏み鳴らすのは、純真な無我の状態になったところに、天照大御神の御心・働きが入って来て、その働きを増幅して宇宙全体に伝えていることを意味しているのであります(現在太鼓を祭りのときにたたくのはこの故事による)。それは換言すれば、天照大御神の御光がドンドン大きくなって、天宇受賣命の中へ流れ入っているということなのであります。天照大御神の御光が大きく入って来ることによって、正しい・真実の神懸の状態になったわけであります。正しい・真実の神懸の状態になったときに、八百万の神々を魅了する、最高の魅力ある姿を現すことになるのであります。赤ん坊の裸体が清らかで美しいのは、無邪気な心の表現であるからなのであります。天宇受賣命が神懸して、神ながらに・神任せに、どのような姿をとっても、恥じる心が一切無い状態になっているということは、本心の心が最高に輝いていて、虚栄心の業想念の心など一切無いということなのであります。そして天宇受賣命の恥部をまともに注視出来る、八百万神々の心の状態も、本心の最高に輝いた状態にまで、高め上げられているということであります。純真な無我の心になるということが、天照大御神を引き出すための大事な要素の一つであるということであります。

93-2
00.01.02.03.04.05.06.07.08.09.10.11.12.13.14.15.16
.17.18.1920.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31.32.
33.34.35.36.37.38.39.40.41.42.












 あまてらすおほみかみ いみはたやにましまして かむみそおらしめたまふときに そのはたやのむねをうがちて あめのふちこまをさかはぎにはぎて おとしいるるときに あめのはたおりめ みおどろきて  ひに ほとをつきて みうせぬ かれここに あまてらすおほみかみ みかしこみて
あめのいはやどをあけて さしこもりましましき

 天照大御神 坐忌服屋而  令織神御衣時 穿其服屋之頂  逆剥天斑馬剥而 所堕入時 天服織女見驚而 於梭衝陰上而死 故於是 天照大御神見畏 開天石屋戸而 刺許母理坐也

 忌服屋: 天地経綸の機織りの神業を意味する。天地(宇宙・世界)を縦糸と横糸の相対のすべてを織りなして、完壁な大調和の相象に治め整える神業そのものを意味し、天照大御神が忌服屋そのものに成りきっているのである。忌とは、畏敬の心で、差し控えて口にしないこと、また斎であり、最高荘厳の機織りのすがたは、真清浄・真無垢であることを意味している。

 神御衣: 天地(宇宙・世界)は天照大御神の御衣であり、装いである。一瞬一瞬新たな御衣を織りなし、最高の装いを凝らしているのである。

 天斑馬:種々の色彩で斑入りになっている、飛び跳ねる力の強い天馬に例えて、地球の内部の火熱が猛烈な勢いで噴き上がり、多量の土塊を含んだ大爆発・大噴火の状態を意味している。

 逆剥剥(原文は旧字体):尾の方より逆に生剥に皮を剥ぐことであり、火熱の物凄い状態を表現しているのである。

 梭: 機織りの際、横糸を通す操作に用いるもの。驚天動地の大噴火・大爆発に、天地経綸の機織りの働きが妨げられて、中断したことを、梭に陰(新たなるものを生み出す場所)を衝いて、死んだ、という表現をとっている。太陽と地球の間には、無数の糸(霊線)による天地経綸の機織りが成されていたのである
が、そこへ大噴火・大爆発〔この時に地球は23.5度傾いた〕が加わって、太陽からの霊線は断絶され、地上には全く太陽からの光線も熱線も到達しない状態に陥ったわけである。しかしこの惑乱の時に既に、生命の種子は地上に降ろされているのであって、大爆発によって地軸の傾斜したことも深遠な意義を持ち、地球の進化が神の御心のままに計画通りに運ばれてゆくことになるのである。天石屋とは、絶対の境界を意味する。深い深い絶対の祈りの境地に立つことが、開天石屋戸而 刺許母理坐也 ということである。

82-1


あめのみなかぬしのかみ が たかあまはら と なり(成り鳴り生り)あめつち(天地)がはじめおこる(初発する)

                   たかあまはら という 容相(成り)音声(鳴り)生命(生り)になる。

あめのみなかぬしのかみ(隠身絶対実在)の現象表現をたかあまはら と云う。
あめのみなかぬしのかみ(実在)即ちたかあまはら(現象)たかあまはら即ちあめのみなかぬしのかみ
あめのみなかぬしのかみがすべてのすべて。あめのみなかぬしのかみの他には何ものも存在しないのである。
あめのみなかぬしのかみが唯一無二の実在であり、唯一無二の現象である。
一神 即 万生 万有。  万神 万生 万有 即 一神。 
  たかあまはら(順流無形の神力)

1、たかあ     中心より外に向かって発射し進展する働き(発射神力)

2、た あま    外から中心に向かって凝集する       (凝集神力) 

3、 かあま    円融無碍に交流する             (交流神力) 

4、     はら  螺旋状に転回する              (螺転神力)

  らはまあかた(逆流有形の形状)

1、らは      螺旋状の波の形状

2、  まあか   全 大 多 勝 の形状

3、  まあ た  股 支 分 部 枝 等の形状

4、     かた  片 半 等の形状 

かみ とは、かくりみ(絶対神)かごりみ(仮凝身)かがりみ(耀身)かけりみ(駆身)かぎりみ(限身)の5つのことばをつづめたものであって、その1つ又は全体」を指して云う。



つぎに たかあみうむすびのかみ  つぎに  まあかみうむすびのかみ


たかあまはらには タカアマハラ(順流)とラハマアカタ(逆流)とがある。

  タカアマハラは宇宙構成の三大根本神力である。

  タカア ハラ      遠心的発射螺旋状神力

  タ アマハラ      求心的凝集螺旋状神力

   カアマハラ      円融的交流螺旋状神力

  ラハマアカタは相(形・容・姿・態)となる螺旋状波

  ラハマアカ

  ラハマア タ

  ラハ   カタ


たかあまはら(全大宇宙)には、神力と神相とが本来一体でありながら、相反する両面として働
いていて、「力」の作用で「相」が現れ、「相」の作用で{力」が種々に現れる。
この順逆二つの流れの結合によって、一切の万神万生万有が生み出される。

ミウムスビ(ミ  ウム  ムスビ)
二つの流れがお互いに結合し、新しいものを生み出してゆく根本創造の働きである。
一切の万神万生万有は在る(ある)のではなく、なる(成る・鳴る・生る)のである。成
るということは単なる存在ではなくて、生成である。生成とは一瞬一瞬 新生し、無限に
伸展することである。不断に無限の創造が続けられて、無限無量の個々性、種々相に活現
することである。


タカアマハラの順流をタカアで代表し、ムスビとカミを付けて、神力系統大祖神と仰ぐ。

「タカア  ミムスビ  ノカミ」   神力大祖神

                    タタア(父)系・かむろぎ(神漏岐)系・霊魂系〈霊系)

タカアマハラの逆流をマアカで代表し、ムスビとカミを付けて、神相系統大祖神(体系)

「マアカ  ミムスビ  ノカミ」   神相大祖神
Q
                     ママア(母)系・かむろび(神漏美)系・物質系(体系)

あめのみなかぬしのかみの父系(霊系)としての現れが「タカア ミムスビ ノカミ」である。

あめのみなかぬしのかみの母系(体系)としての現れが「マアカ ミムスビ ノカミ」である。