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ふることふみにようこそ! カウンター人目の訪問者です。参考文献、引用等は、水谷清 先生 著 古事記大講 です。

ふることふみ(古事記)

あめつち はじめ おこるのとき たかあまはら に なりませる かみの みなは あめのみなかぬしのかみ
73-1   
ここにはやすさのをのみこと まをしたまはく あは きたなきこころなし ただ おおみかみの みこともちて あが なきいさちる ことを とひたまふ ゆえに
 まをしつらく あは ははのくに に まからむと おもいてなくと おほみかみ みましは このくにに な すみそと のりたまひて かむやらひに やらひたまふ ゆえに まかりなむと するさまを まをさむと おもひてこそ まいのぼりつれ けしきこころなし

爾 ( ここに)速須佐之男命( はやすさのをのみこと)答日(まをしたまはく)
僕者(あは) 無邪心(きたなきこころなし) 唯大御神之命以(ただ おおみかみのみこともちて)
 問賜僕之哭伊佐知流之事故(あが なき いさちることを とひたまふ ゆえに)
日都良久(まをしつらく) 僕(あは)欲往妣國似哭( ははのくににまからむとおもいてなくと)
爾大御神詔 汝者不可在國而(おほみかみ みましは このくにに な すみそと のりたまひて)
神夜良比夜良比賜故(かむやらひにやらひたまふ ゆえに)
以為請将罷往之状(まかりなむと するさまを まをさむとおもひてこそ)
参上耳(まいのぼりつれ) 無異心(けしきこころなし))

邪心(きたなきこころ):汚れた・乱れた・邪な・腹黒い・卑怯な・野蛮な心。
            正しい(天之御中主神・天神諸命)心と反対の心。

異心(けしきこころ) :異様な・特別な・とがむべき・解せない・変な・あやしい心。 正しい(天之御中主神・天神諸命)心と異なる心。

天照大御神は、須佐之男命の行動の裏の裏まで、透徹した心で見通しているのでありますから(表現のすべてを司るが故に)、誤解を生ずるはずもないのでありますが、須佐之男命ご自身もそのことは百も承知で、なおかつより完璧を期して誠心誠意に、沸き上がる愛の至情を言葉に態度に顕し示そうとしているのであります。須佐之男命は徹頭徹尾、天照大御神の御心に正しく随順し、無我全託の心で、天照大御神そのものに成りきって、至誠に行事せんとしているわけであります。
それが無邪心(きたなきこころなし)、無異心(けしきこころなし)という言葉となって現れているのであります。須佐之男命にとっては、常に天神諸命に絶対随順しているのでありますから、邪心になるようなことは決して無いのであります。須佐之男命の一切の行動は天神諸命に従って自然に発露したものでありまして、予定通りの正しいものなのであります。従って天照大御神の御心と全く一つの心なのでありまして、異なる心は一片も無いのであります。と宣言されているのであります。
 宇宙絶対統一神の御心は、霊体和合の美麗なる生物を、地上に生み成して、子々孫々に至るまで反映させることなのであります。その霊体和合に必要な必然の行動として、須佐之男命の参上そのものが、止むに止まれぬ至情の発露として現れているのであります。須佐之男命の全身には、機の熟した今のこの時に、さあこれから霊と体との和合を行いましょう、という純粋な一念が、燃え滾る熱き願望と歓喜になって満ちあふれているだけなのであります。従って高天原を奪い取ろうというような邪心は、須佐之男命のどこを捜しても、一片も無いわけであります。
須佐之男命の参上(昇天・昇騰)には、深遠なる意義・秘事が隠されていることを見抜かなければ、浅い間違った解釈に陥ることになるのであります。
72−1

73-1   
爾 ( ここに)速須佐之男命( はやすさのをのみこと)答日(まをしたまはく) 僕者(あは) 無邪心(きたなきこころなし) 唯大御神之命以(ただ おおみかみのみこともちて) 問賜僕之哭伊佐知流之事故(あが なき いさちることを とひたまふ ゆえに)

日都良久(まをしつらく) 僕(あは)欲往妣國似哭( ははのくににまからむとおもいてなくと) 爾大御神詔 汝者不可在國而(おほみかみ みましは このくにに な すみそと のりたまひて) 神夜良比夜良比賜故(かむやらひにやらひたまふ ゆえに)

以為請将罷往之状(まかりなむと するさまを まをさむとおもひてこそ) 参上耳(まいのぼりつれ)   無異心(けしきこころなし))

邪心(きたなきこころ):汚れた・乱れた・邪な・腹黒い・卑怯な・野蛮な心(こころ)。
            正しい(天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)・天神諸命(あ            まつかみみこともろもろ)心(こころ)と反対(はんたい)の心(こころ)。
異心(けしきこころ) :異様(いよう)な・特別(とくべつ)な・とがむべき・解(げ)せな            い・変(へん)な・あやしい心(こころ)。                       正しい(天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)・天神諸命            (あまつかみみこともろもろ心(こころ)と異(こと)なる心(こころ)。
  天照大御神は、須佐之男命(すさのをのみこと)の行動(こうどう)の裏(うら)の裏(うら)まで、透徹(とうてつ)した心(こころ)で見通(みとお)しているのでありますから(表現(ひょうげん)のすべてを司(つかさど)るが故に)、誤解(ごかい)を生(しょう)ずるはずもないのでありますが、須佐之男命(すさのをのみこと)ご自身(じしん)もそのことは百(ひゃく)も承知(しょうち)で、なおかつより完璧(かんぺき)を期(き)して誠心誠意(せいしんせいい)に、沸き上(わきあ)がる愛(あい)の至情(しじょう)を言葉(ことば)に態度(たいど)に顕(あらわ)し示(しめ)そうとしているのであります。須佐(すさ)之男(のお)命(みこと)は徹頭徹尾(てっとうてつび)、天照大御神(あまてらすおおみかみ)の御心(みこころ)に正(まさ)しく随順(ずいじゅん)し、無我(むが)全(ぜん)託(たく)の心(こころ)で、天照大御神そのものに成(な)りきって、至誠(しせい)に行事(ぎょうじ)せんとしているわけであります。それが無邪心(きたなきこころなし)、無異心(けしきこころなし)という言葉(ことば)となって現(あらわ)れているのであります。須佐之男命にとっては、常(つね)に天神諸命(あまつかみみこともろもろ)に絶対(ぜったい)随順(ずいじゅん)しているのでありますから、邪心(きたなきこころ)になるようなことは決(けっ)して無(な)いのであります。須佐之男命の一切(いっさい)の行動(こうどう)は天神諸命に従(したが)って自然(しぜん)に発露(はつろ)したものでありまして、予定(よてい)通(どお)りの正しいものなのであります。従(したが)って天照大御神の御心(みこころ)と全(まった)く一(ひと)つの心(こころ)なのでありまして、異なる心(けしきこころ)は一片(いっぺん)も無(な)いのであります。と宣言(せんげん)されているのであられます。
 宇宙(うちゅう)絶対(ぜったい)統一(とういつ)神(しん)の御心(みこころ)は、霊(れい)体(たい)和合(わごう)の美麗(びれい)なる生物(せいぶつ)を、地上(ちじょう)に生(う)み成(な)して、子々孫々(ししそんそん)に至(にいた)るまで反映(はんえい)させることなのであります。その霊(れい)体(たい)和合(わごう)に必要(ひつよう)な必然(ひつぜん)の行動(こうどう)として、須佐(すさ)之男(のお)命(みこと)の参上そのものが、止(や)むに止(と)まれぬ至情(しじょう)の発露(はつろ)として現(あらわ)れているのであります。須佐(すさ)之男(のお)命(みこと)の全身(ぜんしん)には、機(き)の熟(じゅく)した今(いま)のこの時(とき)に、さあこれから霊(れい)と体(たい)との和合(わごう)を行(おこな)いましょう、という純粋(じゅんすい)な一念(いちねん)が、燃(も)え滾(たぎ)る熱(あつ)き願望(がんぼう)と歓喜(かんき)になって満(み)ちあふれているだけなのであります。従(したが)って高天原(たかまがはら)を奪い取(うばいと)ろうというような邪心(きたなきこころ)は、須佐(すさ)之男(のお)命(みこと)のどこを捜(さが)しても、一片(いっぺん)も無(な)いわけであります。須佐(すさ)之男(のお)命(みこと)の参上(まいのぼりつれ昇天(しょうてん)・昇騰(しょうとう))には、深遠(しんえん)なる意義(いぎ)・秘事(ひじ)が隠(かく)されていることを見抜(みぬ)かなければ、浅(あさ)い間違(まちが)った解釈(かいしゃく)に陥(おちい)ることになるのであります。
               72−1



あめのみなかぬしのかみ が たかあまはら と なり(成り鳴り生り)あめつち(天地)がはじめおこる(初発する)

                   たかあまはら という 容相(成り)音声(鳴り)生命(生り)になる。

あめのみなかぬしのかみ(隠身絶対実在)の現象表現をたかあまはら と云う。
あめのみなかぬしのかみ(実在)即ちたかあまはら(現象)たかあまはら即ちあめのみなかぬしのかみ
あめのみなかぬしのかみがすべてのすべて。あめのみなかぬしのかみの他には何ものも存在しないのである。
あめのみなかぬしのかみが唯一無二の実在であり、唯一無二の現象である。
一神 即 万生 万有。  万神 万生 万有 即 一神。 
  たかあまはら(順流無形の神力)

1、たかあ     中心より外に向かって発射し進展する働き(発射神力)

2、た あま    外から中心に向かって凝集する       (凝集神力) 

3、 かあま    円融無碍に交流する             (交流神力) 

4、     はら  螺旋状に転回する              (螺転神力)

  らはまあかた(逆流有形の形状)

1、らは      螺旋状の波の形状

2、  まあか   全 大 多 勝 の形状

3、  まあ た  股 支 分 部 枝 等の形状

4、     かた  片 半 等の形状 

かみ とは、かくりみ(絶対神)かごりみ(仮凝身)かがりみ(耀身)かけりみ(駆身)かぎりみ(限身)の5つのことばをつづめたものであって、その1つ又は全体」を指して云う。



つぎに たかあみうむすびのかみ  つぎに  まあかみうむすびのかみ


たかあまはらには タカアマハラ(順流)とラハマアカタ(逆流)とがある。

  タカアマハラは宇宙構成の三大根本神力である。

  タカア ハラ      遠心的発射螺旋状神力

  タ アマハラ      求心的凝集螺旋状神力

   カアマハラ      円融的交流螺旋状神力

  ラハマアカタは相(形・容・姿・態)となる螺旋状波

  ラハマアカ

  ラハマア タ

  ラハ   カタ


たかあまはら(全大宇宙)には、神力と神相とが本来一体でありながら、相反する両面として働
いていて、「力」の作用で「相」が現れ、「相」の作用で{力」が種々に現れる。
この順逆二つの流れの結合によって、一切の万神万生万有が生み出される。

ミウムスビ(ミ  ウム  ムスビ)
二つの流れがお互いに結合し、新しいものを生み出してゆく根本創造の働きである。
一切の万神万生万有は在る(ある)のではなく、なる(成る・鳴る・生る)のである。成
るということは単なる存在ではなくて、生成である。生成とは一瞬一瞬 新生し、無限に
伸展することである。不断に無限の創造が続けられて、無限無量の個々性、種々相に活現
することである。


タカアマハラの順流をタカアで代表し、ムスビとカミを付けて、神力系統大祖神と仰ぐ。

「タカア  ミムスビ  ノカミ」   神力大祖神

                    タタア(父)系・かむろぎ(神漏岐)系・霊魂系〈霊系)

タカアマハラの逆流をマアカで代表し、ムスビとカミを付けて、神相系統大祖神(体系)

「マアカ  ミムスビ  ノカミ」   神相大祖神
Q
                     ママア(母)系・かむろび(神漏美)系・物質系(体系)

あめのみなかぬしのかみの父系(霊系)としての現れが「タカア ミムスビ ノカミ」である。

あめのみなかぬしのかみの母系(体系)としての現れが「マアカ ミムスビ ノカミ」である。