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河上彰延
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大祓詞(オオハライノコトバ)
大祓詞(オオハライノコトバ)
大祓(オオハライ)とは、大なる〔(1)偉大な (2)根本の (3)優れた (4)威力有る (5)すべての時間・空間にあまねく及ぶ〕祓いということです。宇宙全体の祓いです。
祓いには、小義・狭義の祓いと根本義の祓いとがあるのです。
小義・狭義の祓いとは、水・塩水・麻(あさ)・形代(カタシロ)等を使って、罪・穢れ・悪等を除き、吉事・善を招こうとするものです。方便的な・私的な・小さなものです。
根本義の祓いとは、宇宙創造神である伊邪那岐命の禊祓(ミソギハライ)です。
伊邪那岐命は、禊ぎと祓いによって、宇宙の組織構成を、秩序と統一のある、一大調和の完璧なものにしているのです。禊ぎとは、身を削ぐ(彫刻のように、無用のものを削り落とす)、身を濯ぐ(汚れを洗い流す、大生命の流れに身を任せる)、即ち絶対神の御心に絶対帰一・随順・奉仕することです。祓いとは、自分の身に付けている一切のものを投げ捨てる、即ち自分の全てを与え尽くす、自分の全能力を発揮することです。
先ず幽界(闇の世界)を整理・統一して、光一元に輝かして、次に顕界(光の世界)をも大整理・大統一して、顕幽両界を光一元に、一大統一しているのです。竺紫(ツクシノ)日向之(ヒムカノ)橘小門之(タチバナノオトノ)阿波岐原(アワギハラ)とは、天・火・水・地の完備している顕界の意義です。そこに到り、禊祓うということは、絶対神の全徳の無限の無限の輝きの根源に立って、一瞬一瞬新たに、一大調和・一大統一の全大宇宙を創造し続けているということです。
根本義の祓い・大祓いによって、全大宇宙は既に、一瞬一瞬新たに新たに、神さまの全徳の無限の無限の輝きをもって、一大調和・一大統一されているのです。それをそのまま謙虚に・素直に・感謝の心で受け入れたら、一切の罪・穢れは無いのです。一大調和・一大統一の完璧な全大宇宙に、気付かない状態を、受け入れない状態を、罪・穢れというのです。
詞(コトバ)とは、大祓の真義に気付かせる為の言葉です。言葉によって、言葉の力によって、その真義を理解し・把握し・体感体得して、一切の罪・穢れの無い自分に戻るのです。『ありがとうございます』の言霊が、大祓の真義なのです。
すべての意識有る者に対して、宇宙絶対統一神・天照大御神は、一瞬一瞬新たに、全徳の無限の無限の輝きなる玉体を、与え続けているのです。無限の無限の意識ある存在は、受け手です。天照大御神は、与え手です。受け手はみんな平等に、新たなる全徳の無限の無限の輝きなる玉体を受け続けているのです。受け手はみんな、天照大御神の御子です。天照大御神の全徳の無限の無限の輝きで一杯!です。神さまの前に立つ時、みんな平等なのです。神さまに依怙贔屓は無いのです。みんな平等に、同じプレゼントを受けているのです。みんな天照大御神の真子(マコ)・皇御孫(スメミマ)なのです。
天照大御神の玉体とは、最高表現を頂点にした、無限の無限のチャンネルの放送番組の全体でも有るのです。一つ一つのチャンネル毎に、全大宇宙が有るのです。無限の無限のチャンネルには、無限の無限の全大宇宙が有るのです。受け手である皆にとって、無限の無限の全大宇宙は、自分自身そのものなのです。だから全体を自分と思うことも、部分を自分と思うことも、自由自在にできるのです。
無限の無限のチャンネルの番組を楽しむ時に、全体を自分と見て楽しむのも自由なら、色々な部分の立場に立って、種々様々な楽しみ方をするのも自由なのです。完全な自由と完全な平等は、神さまによって完璧に保証されているのです。感謝を深めて、本当に自由自在な楽しみ方をするのも、思いを積み重ねて、囚われた不自由な楽しみ方をするのも、本当に自由自在な自分だからこそ、できることなのです。
大祓詞は、低い番組から高い番組へと、チャンネルを切り換える時に、大いに役に立つものです。中心を定めることによって、調和が生まれるのです。中心が無く、混沌としているのは、低い番組です。中心が有って、調和しているのが、高い番組です。どんな言葉を使っても、その言葉通りの番組が、すべて用意されているのです。無限の無限のチャンネルの番組というのは、すべてのすべてを尽くした番組なのです。
一瞬一瞬新たに、神さまから受け直したすべてが、自分のものであり、自分自身なのです。今自分の眺めている番組のすべてが、自分自身なのです。自分の見ている世界のすべては、自分自身なのです。すべての部分は、自分の言葉通りに、自分の意のままに、それぞれの役割を演じ切っているのです。全体を自分と感受すれば、全体が意のままになるのです。部分を自分と感受すれば、部分が意のままになるのです。感謝を深めてゆけば、全体が自分になって来るのです。思いを積み重ねて行くと、小さな部分が自分になって来るのです。感謝に生きれば、万事如意自在なのです。思い通りに生きようとすれば、万事不如意になって来るのです。
「高天原(たかあまはら)に神(かみ)留(つまり)坐(ま)す」
「皇親(すめみおや)神漏岐(かみろぎ)神漏美(かみろみ)の命(みこと)以(もち)て」
「八百万神等(やおよろずのかみたち)を、神集集(かみつどへつどへ)賜(たまひ)
、神議議(かみはかりはかり)賜(たまひ)て
」
「我(あが)皇御孫命(すめみまのみこと)は、豊葦原(とよあしはら)の水穂国(み
ずほのくに)を、安国(やすくに)と平(たいら)けく知所食(しろしめせ)と事依(
ことよさ)し奉(まつり)き」
「如此(かく)依(よさ)し奉(まつり)し国内(くにうち)に、荒振神等(あらふる
かみたち)をば、神問(かみとはし)に問(とは)し賜(たまひ)、神掃(かみはら)
ひに掃(はら)ひ賜(たまひて)」
「言問(ことどい)し磐根(いわね)樹立(きねたち)、草(くさ)の垣葉(かきは)をも
語止(ことやめ)て」
「天(あめ)の磐座(いわくら)放(はな)ち、天(あめ)の八重雲(やえぐも)を
伊頭(いづ)の千別(ちわき)に千別(ちわき)て、天降(あまくだ)し依(よさ)し
奉(まつ)りき」
「如此(かく)依(よさ)し奉(まつ)りし、四方(よも)の国中(くになか)と、・・
・・・・・・安国(やすくに)と平(たいら)けく所知食(しろしめさ)む国中(くに
なか)に、成出(なりいで)む天(あめ)の益人等(ますひとら)が、」
「大倭日高見(おおやまとひたかあみ)の国(くに)を、安国(やすくに)と
定奉(さだめたてまつり)て、下(した)つ磐根(いわね)に宮柱太敷立(
みやはしらふとしきたて)高天原(たかあまはら)に千木(ちぎ)高知(たかしり)
て皇御孫(すめみま)の命(みこと)の瑞(みづ)の御舎(みあらか)仕奉(つかへま
つり)て、天(あめ)の御蔭(みかげ)日(ひ)の御蔭(みかげ)と隠(かくりまし)て」
「過犯(あやまちおか)しけむ雑雑罪事(くさぐさのつみごと)は、
天(あま)つ罪(つみ)とは、畔放(あぜはなち)、溝埋(みぞうめ)、
樋放(ひはなち)、頻蒔(しきまき)、串刺(くしさし)、生剥
(いきはぎ)、逆剥(さかはぎ)、屎戸(くそへ)、蠱物(まじもの)
為(せ)る罪(つみ)、許許太久(ここだく)、の罪(つみ)を、
「天(あま)つ罪(つみ)と法別(のりわ)けて、国(くに)つ罪(つみ)
とは、生膚断(いきはだたち)死膚断(しにはだたち)、白人(しろひと)
、胡久見(こくみ)、己(おの)が母犯(ははおか)せる罪(つみ)、
己(おの)が子犯(こおか)せる罪(つみ)、母(はは)と子(こ)と犯(おか)
せる罪(つみ)、子(こ)と母(はは)と犯(おか)せる罪(つみ)、畜(けもの)
犯(おか)せる罪(つみ)、昆虫(はうむし)の災(わざわ)い、高(たか)つ
神(かみ)の災(わざわ)い、高(たか)つ鳥(とり)の災(わざわ)い、畜(け
もの)仆(たお)し、蠱物(まじもの)為(せる)罪(つみ)、許許太久(ここ
だく)の罪出(つみいで)む」
「如此(かく)出(いで)ば、天津宮事(あまつみやごと)以(もち)て、天津金木
(あまつかなぎ)を本打切(もとうちきり)末打断(すえうちたち)て、千座置座
(ちくらのおきくら)に置足(おきたら)はして、天津菅曾(あまつすがそ)を、
本刈断(もとかりたち)末刈切(すえかりきり)て、八針(いやはり)に取辟(とり
さき)て、天津祝詞(あまつのりと)の太祝詞事(ふとのりごと)を宣(の)れ」
「如此(かく)乃良(のら)ば、天津神(あまつかみ)は天磐門(あまのいわと)を
押披(おしひらき)て、天乃八重雲(あめのやえぐも)を伊豆(いず)の千別
(ちわき)千別(ちわき)て所聞食(きこしめさ)む。国津神(くにつかみ)は、
高山之末(たかやまのすえ)短山之末(ひくやまのすえ)に上坐(のぼりまし)て
、高山之伊穂理(たかやまのいほり)短山之伊穂理(ひくやまのいほり)を
掻別(かきわけ)て所聞食(きこしめさ)む。」
「如此[かく]所聞食[きこしめし]ては、罪[つみ]と云[い]う罪[つみ]は
存[あ]らじと」
「科戸之風[しなどのかぜ]の、天乃八重雲[あめのやえぐも]を、吹放事之如[ふ
きはなつことのごと]く、朝之御霧[あしたのみぎり]夕之御霧[ゆうべのみぎり]
を、朝風[あさかぜ]夕風[ゆうかぜ]の吹掃事之事[ふきはらうことのごと]く、
大津邊[おおつべ]に居[お]る大船[おおぶね]を、舳開放[へときはな]ち艫開放
[ともときはなち]ちて、大海原[おおうなばら]に押放事[おしはなつこと]の如
[ごと]く、彼方之繁木本[おちかたのしげきがもと]を、焼鎌[やきがま]の敏鎌以
[とがまもち]て打掃事之如[うちはらうことのごと]く、遺罪[のこるつみ]は
不在[あらじ]と、祓給[はらいたまい]清給事[きよめたまうこと]を、」
「高山之末[たかやまのすえ]短山之末[ひくやまのすえ]より、佐久那太理[さく
なだり]に、落多支都[おちたぎつ]、速川[はやかわ]の瀬坐[せにます]、
瀬織津比賣[せおりつひめ]と云神[いふかみ]、大海原[おおうなばら]に持出
[もちいで]なば、荒塩之塩[あらしほのしほ]の八百道[やほじ]の、八塩道
[やしおじ]塩[しほ]の八百会[やほあひ]に座[ま]す、速開都比賣[はやあきつ
ひめ]と云神[いふかみ]、持可可呑[もちかかのみ]tむ。如此[かく]可可呑
[かかのみ]ては、氣吹戸坐[いぶきどにます]氣吹戸主[いぶきどぬし]と云神
[いふかみ]、根国底之国[ねのくにそこのくに]に、氣吹放[いぶきはなち]てむ。
如此[かく]氣吹放[いぶきはなち]ては、根国底之国[ねのくにそこのくに]に
坐[ます]、速佐須良比賣[はやさすらひめ]と云神[いふかみ]、持佐須良[もち
さすら]ひ失[うしなひ]てむ。如此[かく]失[うしなひ]ては、自今日始[きょう
よりはじめ]て、罪[つみ]と云[い]う罪[つみ]は不在[あらじ]と、祓給[はらい
たま]ひ、清給事[きよめたまうこと]を、諸[もろもろ]聞食[きこしめせ]と宣
[のる]。」
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