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思いの心を生きるか、感謝の心を生きるか


 常に常に今の一瞬一瞬が、思いの心を生きるか、感謝の心を生きるかの二者択一です。思いの心というものは、過去世の業想念に雁字搦めに縛られているので、その縛りから自由に成りたい為に、それが自分勝手な自由であっても、その自由を生きようとするものです。しかし根本の縛りを消し去らない限りは、束の間の自由で終わるしか無いのです。反対に感謝の心というものは、天照大御神としての自分を、最高に自由自在な自分を自覚しているので、恩返しの心で自分の自由のすべてを捧げ尽くして、絶対の中心へ絶対帰一・絶対随順・絶対奉仕しようとするのです。無限の選択肢の中から、最高の生き方を一つ選んで、最高の自由自在性を発揮しようとしているのです。だからますます自由自在な自分に成るのです。




 自分の立場や自分の願いを最優先させる生き方は、思いの心の生き方です。思いの心の生き方は必然的に、思いを大きく積み重ねてしまって、思いの縛りの中に嵌まってゆくのです。常に自分の思いで自分を縛り、自縄自縛することになるのです。反対に自分の立場・自分の願いを捨て切って、自分の自由を完全に捧げ尽くして、絶対奉仕に生きようとするのは、天照大御神としての自分の生き方です。自由を与えたから、自由を与え返されるだけで無く、自分の内奥から無限の自由が湧き上がって来て、ますます自由に成るのです。自由を求める者は、逆に自由を奪われ・縛られて、自由を与え・縛りを求める者は、逆に自由自在に成るのです。縛られた自分・思いの心を生きるか、自由な自分・感謝の心を生きるかの違いなのです。




 思いの心・自我の心の我が儘まな自由の発揮は、お互いの自由を妨げ合い・奪い合うのです。だからお互いの自由がどんどん少なくなってゆくのです。感謝の心・本心の心の思いやりの自由の発揮は、お互いが相手の自由を優先させ、譲り合うのです。だからお互いに与えられる自由がどんどん多くなるのです。光でも自分を主張すると、不透明な光となって、お互いの光を打ち消し合うのです。謙虚に退いて他を生かそうとすれば、透明な光となって、お互いの良さを生かし合えるのです。




 渦巻く濁流に翻弄されている木の葉の動きは、操られた動きであって、本当の自由意志による動きでは無いのです。いかなる障害物も自由自在にすり抜ける、鰻のような動きが本当の自由意志による動きです。如何なる環境にも縛られない・影響されない自由な動きが、本当の自由意志の発揮なのです。過去にも、思いにも、如何なるものにも縛られない自分は、天照大御神としての自分です。感謝の真祈りを祈りに祈って、恩返しの絶対奉仕に生きて、天照大御神としての自分を生きることが、真(まこと)の自由自在の発揮です。