ありがとうございます 神書 8-48

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思いの心=求める心と、本心の心=感謝の心


 思いの心(求める心)と本心の心(感謝の心)とは、すべてが全く正反対なのです物事の見方、感じ方、考え方、価値観等々、すべてが全く正反対なのです。




 本心の感謝の心を生きている人は、この世を固定した物質物体とは見ないで、神さまの光の波動そのものとして見るのです。無限の無限の輝きが無限に無限に一杯という、絶対の大光源からの光の放射が、神さまの無限の無限のチャンネルの番組そのものとなって、一瞬一瞬新たな光の流れとなって移り変わっているのです。テレビの電波と同じように、同時一切所に流れているのです。大きい光の番組ほど高い番組です。最高番組を感受するとは、無限の無限の輝きが無限に無限に一杯という、一番大きな光をとらえることです。




 一瞬一瞬新たに新たに、新しいより大きな光を感受してゆこうとするのが、感謝の真祈りの生き方です。




 執着の思いの心で、過去の残像をつなぎ合わせて、固定化して見るのとは、全く正反対の天地懸隔の違いがあるのです。思いの心というのは、過去をつかんで、これは自分のものだと放さないのです。つかんでも一瞬後には消えて無いのに、次に現れた異なるものまで同じものだと思い込んで、これは自分のものだと執着しているのです。




 神さまからのプレゼントは、常に感謝の心で受けては直ぐに放し、また新たに感謝の心で受けては直ぐに放しというように、一瞬一瞬新たに受け直しをしないと受け取れないのです。




 これは自分のものだとつかめるものは、何一つとして無いのです。




 つかめたと錯覚しているだけなのです。過去をつかんだら、新たなプレゼントは何一つとして受け取れないのです。だから思いの心を生きていたら、幸せはどんどん消えて無くなってゆくのです。




 思いの心を生きているこの世の常識は、大きく縛られた固定観念で一杯です。一瞬一瞬大きく変化しているのに、その変化がわからないのです。自分の見ている番組と、他の人が見ている番組とは、すべて全く異なる番組なのに、その違いが判らないのです。その為に、みんな同じ共通の番組を見ているのだと、錯覚しているのです。実に滑稽です。




 一つの立場から善悪を区別する分別心は、思いの心です。思いの心は番組にしがみついていて、これは善だこれは悪だと区別して、その悪を責め裁いてゆくのです。自分の心の悪が鏡に写って、それが他の悪と見えているだけなのに、他と見える自分を責め裁くことになって、自分自身を傷つけ、苦しみを大きくしてゆくのです。




 思いの心は自分の見ている番組だけではなく、他の人の見ている番組のマイナスの情報まで取り込んで、さらに自分の心を傷つけ、苦しみを大きくしてゆくのです。実に愚かです。




 思いの心はどこまでも、自分自身を不幸のどん底へ追いやってゆくのです。本当に幸せになりたいのであれば、思いの心を捨て切って、感謝の心を徹底して生きなければならないのです。