ありがとうございます 神書 7-2

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真実に人を愛するということ


 『真実に人を愛している』というのは、人の本体と一体化して、新たなる全徳の無限の無限の輝きで一杯の、本心の姿をしっかりと認めている状態です。「好き」とか「フィーリングが合う」とかの感情とは、別個のものなのです。「好き」という感情は、業想念の心なのです。『愛する』という心は、本心の心なのです。業想念の心は、現実の姿だけを見ていて、人の本体を見失っているのです。浅い表面の姿だけを見ていて、自我の感情を満足させてくれる人に対して、「好きです」と言っているのです。自我の心を何らかの意味で満足させてくれたら、喜んでいるのです。一寸虚栄心をくすぐられたり、「頼りにしているよ」と自尊心を持ち上げられたら、ホイホイと付いて行くのです。甘い誘惑の背後には、危険な落とし穴が待っているのに、お構いなしです。「幾らでもお金を貸して上げるよ」と言われて、喜んで借りていたら、目の剥くような高利が付いていた、というようなものです。業想念の心はマイナスの心なので、磁石に引き付けられるように、必ずマイナスと一体化してゆこうとするものなのです。




 真実に人を愛することができるようになる為には、先ず神さまを愛する練習を積み重ねて、自分の背負っているマイナス(業想念の心)を、すべて消し去ってもらわなければならないのです。そして本心の心を引き出し、輝かせてもらう必要があるのです。




 神さまを愛するということは、神さまを最高に思い続けることなのです。新たなる全徳の無限の無限の輝きで一杯!と祈り続けることなのです。神さまに心を向け続けることによってのみ、自分の持っているマイナスを消し去ってもらえるのです。人を愛するということも、人を最高に思い続けることなのです。だからマイナスの多い人を可哀想に思って、幾ら愛しようと努力しても、真実に愛することにはならないのです。逆に双方のマイナスを交流し合って、大きなマイナスを与え合うだけで終わるのです。無限の業想念を背負った自分が人に何を与えても、その与えたものに大きな業想念が付いて廻るのです。だから少しもプラスを与えたことにはならないのです。もし他の人を幸せにしたいと真実に願うのであれば、先ず自分がプラスの本心の心に戻らなければならないのです。




 神さまを愛する練習を積み重ね、真実に神さまを愛することができるようになった時に初めて、人を神さま(最高のもの)として真実に愛することができるようになるのです。『真実の愛』は、すべてを神さまとして感受するのです。『真実の愛』は、神さまの最高表現を感受するだけなのです。『人を真実に愛する』というのは、結局人に神さまの最高表現を見出すことなのです。人を通して神さまの最高表現を与えられた状態が、自分が人を真実に愛している状態なのです。『愛する』と『愛される』は一つのものなのです。