ありがとうございます 神書 5-49  無限の調和が無限に無限に一杯!

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生きている言葉と死んでいる言葉



 同じ木の葉でも、生きている葉と死んでいる葉があるのです。言葉にも生きている言葉と死んでいる言葉があるのです。同じ言葉でも、生きているか死んでいるかによって、その差異は非常に大きいのです。生きているか死んでいるかの違いは、部分が全体と一つに繋がっていて、活かされているかどうかによるのです。部分は全体と一つに繋がっている時に、全体にとって必要な働きをしている時に、活かされているのです。




 人も神さまと一つに繋がっていて、神さまのお役に立っている時には、本心の心が輝いていて、無限の無限の幸せで一杯なのです。逆に神さまとの繋がりを自分から切り離して、神さまの御心と反対の生き方をしている時には、業想念の心の奴隷に陥って、七難八苦に見舞われることになるのです。




 本心の心の輝いている幸せな人が、他を幸せにできるのです。業想念の心の奴隷に陥っている不幸な人は、他を不幸に巻き込むだけです。先ず自分自身が、本心の心の輝いている、幸せな自分になることが大事なのです。人は神さまへの感謝によって、神さまとの一体感を得ることができるのです。そして神さまの御心に対して、素直に帰一・随順・奉仕することによって、神さまのお役に立つことができるのです。その時の人の使う言葉は生きているのです。神さまの働き・いのち・言霊にバックアップされた言葉となるからです。




 例えば同じ「愛」という言葉を使っていても、生きている「愛」と死んでいる「愛」には、大きな差異があるのです。本心の心の輝いている人が使えば、生きている「愛」となるのです。業想念の奴隷に陥っている人が使えば、死んでいる「愛」となるのです。生きている「愛」とは、神さまの「愛」です。死んでいる「愛」とは、業想念の心の執着・縛りです。生きている「愛」には、思いやり・寛容・赦しの心が輝いていて、大きく人を活かすのです。




 思いやりと寛容と赦しの心で、自由を縛らず、相手の本心の輝くように、手助けをするのです。死んでいる「愛」とは、業想念の心の執着の思いを相手に被せて、相手の本心の輝き出るのを妨げるのです。執着の思いは、相手の本心の働きを妨げ、死に到らしめるものです。




 執着の愛は、相手を不幸にするものです。美人薄命というのは、この執着の愛の恐ろしさを、端的に示している言葉です。美人というのは、大勢の男性から、自分の所有にしたいと思われて、独占欲の縛りを受け易いのです。その思いの縛りが、いのちの働きを妨げて、早死にさせるのです。本心の心で「愛している」と言えば、相手を生かすのです。




 業想念の心で「愛している」と言えば、相手を殺すのです。従って何よりも何よりも大切なことは、先ず本心の心をしっかりと掴むことなのです。そして本心の自分に戻って、生きている言葉・生かす言葉を使える自分になることなのです。