ありがとうございます 神書 5-43   無限の調和が無限に無限に一杯!

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苦労を先にする先憂後楽の生き方


 草木の根のように、隠れたところの働きにこそ、偉大さがあるのです。重荷(地上の部分)を背負い、困難(岩石)を克服して根を張り巡らし、汚物の中から栄養を吸収して、地上部の栄えの為に、黙々と献身奉仕している姿は、実に尊い偉大なものです。もし仮に地上部の花が、私は美しく・素敵で・立派だけど、根は醜くて・汚らしくて・貧相な姿をしているから、そんなマイナスな姿は見たくも無いと言って、仲違いをして切り離してしまったら、地上部の栄えは無くなるのです。




 これと同じことが、一個の人間にも、家庭にも、社会にも、国家にも、世界にも当てはまるのです。どんなものも一つの生命体として眺める時、そのどの部分を切り捨てても、全体が傷つくのです。




 人間も困難に挑戦して、黙々と努力を積み重ねるという一面が無ければ、虚栄心の強い・他を批判するだけの・中身の無い人間になってしまうのです。




 苦しみから逃げて、楽な生き方ばかりを選んでいては、立派にはなれないのです。苦労は買ってでも、喜んでするようにならなければ、本当の幸せを掴むことはできないのです。




 幸せの花を開かせる為には、苦労を先にするという、先憂後楽の生き方が必要なのです。家庭においても、自分勝手な生き方をするものばかりでは、家計を支えるものがいないから、みんなルンペンの境涯に落ちてしまうのです。家族の幸せを支える為に、黙々と働く者のみが、その責任者・中心者として、家庭の幸せを味わうことができるのです。個人の幸せから家庭の幸せへと、その幸せは大きくなってゆくのです。社会・国家・世界に対して、その責任者・中心者の自覚をもって、黙々と貢献してゆけば、社会・国家・世界の大きな幸せを、自分の幸せとして味わうことができるのです。




 本心の自分の『与えて与えて与え尽くす生き方』というのは、他のすべてを自分自身と観て、一切の責任者・中心者として、不可能に挑戦し・困難に戯れ・苦労を楽しむ生き方なのです。だからこそマイナスの極からプラスの極を、光一元に仰ぎ観ることができて、全徳の無限の無限の輝きを、感受することができるのです。他の一切の幸せを自分の中に摂取して、無限に無限に大きな・深い幸せを味わうことができるのです。




 本心の自覚というのは、愛の一体感です。愛の一体感で眺めれば、相対の両極を一つに観て、マイナスとプラスを一つに繋いで、すべてを光一元に感受することができるのです。内と外を一つに観て、何事も深く感受してゆけるのです。本来一体のものを、分解し・分析し・分断し・分離し・分割しようとするところに、大きな無理があるのです。本心の自分を忘れて、業想念の心の奴隷に陥ると、すべてをバラバラに切り離してしまい、すべての生命体(本来一体のもの)を滅ぼしてしまうのです。