ありがとうございます 神書 5-12  無限の調和が無限に無限に一杯!

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絶対の中に充満している神さまの御心


 神さまの表現は、絶対が相対の両極に分かれ、それを組み合わせることによって、生み成されているのです。絶対の中には、神さまの御心のありとあらゆる要素が、充満しているのです。無限に無限に美しい・無限に無限に素晴らしい・無限に無限に清らかな、神さまの全徳のすべてのすべてが、渾然一体となって実在しているのです。その神さまの御心は、爆発的な無限の無限のエネルギーとなって、一瞬一瞬新たに、湧き出で・溢れ出で・迸り出て、全大宇宙のすべてのすべてと現れているのです。その現れ方は、先ずすべての要素が相対の両極に振り分けられるのです。




 そしてその両極のすべてが、無限の無限の変化に富んだ、左旋・右旋の螺旋状の動きとなって、無限に無限に伸展するのです。その伸展の過程において、それらのすべては、無限に無限に複雑な・妙趣ある組み合わさり方をするのです。そうして組み合わさった構成体が、全大宇宙のすべてのすべてとなって表現されているのです。それはマイナス無限大の極からプラス無限大の極に至る、全徳の光一元の表現であって、至善至美至妙完全円満完璧大調和の御姿なのです。




 その無限に無限に神秘な・無限に無限に荘厳な・無限に無限に偉大な・無限に無限に尊厳極まりない御姿を現前にしながら、何の感謝も感動も喜びも無いということは、神さまを全く無視した・傲慢極まりない・無礼千万な態度です。神さまを正しく素直に受け入れさえすれば、誰でもその瞬間から無限の無限の幸せで一杯になれるものなのです。神さまは人の自由を縛ってまで干渉することは無いのです。神さまの助けが欲しいのであれば、自分自身が神さまの助けを受けようとしなければならないのです。即ち言葉・心・行いのすべてを、プラスにプラスに置き換えてゆかなければならないのです。




 神さまは全体ですから、すべてをプラスにプラスに受け入れてゆかなければ、神さまの助けを受け入れることはできないのです。神さまの一部をマイナスに見て、責め裁きながら、同じ神さまの助けを求めるなどは、矛盾した間違った生き方に陥っているのです。




 神さまは謙虚な心の中へ、喜んで入って来て下さるのです。傲慢な心(高慢な心・卑下慢の心)の中へは、神さまは決して入って来て下さることは無いのです。謙虚で・奥ゆかしく・控えめな神さまは、自我の心をのさばらした傲慢な心の中へは、決して近づこうとも・入ろうともしないのです。自分自身が自我の心を殺し・捨て去り・滅却しなければ、神さまの御心を自分の心として受け入れることは、永遠に不可能なのです。神さまは非礼を受け給わず、なのです。礼とは、マイナスの極からプラスの極を、光一元に仰ぎ見ることです。すべてを光一元に、プラスにプラスに見て、感謝し、喜ぶことです。マイナスに見る時は、自分も神さまから無視されることになるのです。