ありがとうございます 神書 4-22

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自分自身に全責任がある


 本心の心に戻って自由自在に生きているのも、業想念の心の奴隷となって不自由に生きているのも、自分自身が選択して決定した結果なのです。極楽も地獄も、自分自身の運命として現れてくるのです。自分の運命は、自分自身が決定しているのです。神さまが与えてくる無限の無限の段階の運命の中から、自分自身がその一つを選んで、自分の運命として味わっているのです。だから他の誰の責任でも無いのです。自分自身に全責任があるのです。だから自分の運命の悪さを、他の所為にすればするほど、自分の運命はどんどん悪くなってゆくだけです。何故なら自分がマイナスを選んで、自分の心にマイナスを加えてゆくからです。他に責任を転嫁するような甘ったれた生き方では、自分の運命をプラスに改善してゆくことはできないのです。




 自分の運命をプラスに改善する為には、その為の正しい生き方を真剣に探し求め、それを実行しなければならないのです。運命を改善する為にはどうすれば良いのかを、苦労に苦労を重ねて、自分で探さなければ、自分の身に付かないのです。他から安易に教えられても、自分のものにはならないのです。自分の払った代償分だけが、自分のものになるのです。どんな真理の教えも、自分の命と引換えにするほどでなければ、自分のものにはならないのです。




 正しい祈りを教えてもらっても、その代償として何百生分もの生涯を捧げ尽くす覚悟をしなければ、正しい祈りを体得することはできないのです。この一生すらも捧げ尽くすことができない者に、無限の無限の価値有る正しい祈りが、自分のものになる道理は無いのです。無限に近い長歳月を難行苦行して、体得された阿弥陀様の悟りを、もし自分も得たいと願うならば、その同じ歳月を阿弥陀様に捧げ尽くすほどの覚悟がなければ、余りにも厚顔無恥な狡い奴と罵倒されても仕方が無いのです。




 業想念の渦巻く濁流の中から、浮かび出るチャンスは、無限億万分の一の確立です。その貴重なチャンスを与えてもらっても、神さまからの命綱(祈り言葉)にしっかりと縋って、本心の自分に戻り切らなければ、その折角のチャンスを捨てたことになるのです。中途半端な生き方では、本心の自分に戻り切ることは不可能なのです。自我の心を死に切って、徹底して本心の自分を生きようとしなければ、正しい祈りの練習もできないのです。正しい祈りの練習を、真剣に・命懸けで・一心不乱に積み重ねなければ、正しい祈りのできる本心の自分に戻ることは不可能なのです。




 何事も真剣さが大事なのです。救う側の守護の神霊は、真剣さを求めてくるのです。真剣さが無ければ、救われる側の自由意志がはっきりしないからです。真剣さがあれば、守護の神霊の大きな加護を受けて、短期間に自由自在な・無限の無限の幸せで一杯の本心の自分に戻してもらえるのです。