ありがとうございます 神書 4-19

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神さまは人の自由を決して縛らない

 人には完全な自由が与えられているのです。だから何を選択しても、その人の自由なのです。何を目的にしても、どの方向に進んでも、誰と共に歩んでも、各自が自由に選択すればよいのです。神さまは相対の両極にすべてを用意して、人の選択の自由に任せているのです。神さまは人の自由を決して縛らないのです。地獄に向かって進んでいても、止めようとはしないのです。何故なら人が地獄に落ちるのでは無いからです。人(本心)は神さまの中に本住していて、苦しむことは決して無いのです。地獄界の体験も、テレビ番組を見ているように、ただ楽しんでいるだけなのです。神さまが与えて下さっている相対の両極のすべてから、自分自身が何を選び、何を受けるかが問題なのです。光一元に表現されている全ての中から、自分の味わいたいものを選ぶだけなのです。一瞬一瞬新たに新たに、選び直すだけなのです。




 本心の心を輝かせて生きるのも、業想念の心の奴隷となって生きるのも、各自の自由な選択の結果です。本心の心(謙虚・素直・喜び・感謝・奉仕・明るさ・自由…)を生きれば、極楽世界の法楽を体験できるようになるのです。業想念の心(傲慢・頑固・悲しみ・不足・強奪・暗さ・縛り…)を生きれば、地獄の苦痛を体験できるようになるのです。どちらの場合も、心行くまで十二分に味わい尽くせばよいのです。誰に遠慮することも無いのです。自分の好きな道を、自分の自由に歩むだけです。




 本心の心は感謝一筋に、無限の無限のプラスを受け続けてゆくだけです。業想念の心は自分の思いで自分自身を縛って、無限の無限のマイナスの状態にしてゆくだけです。どちらの生き方も、自分自身が自由に選択して、決定しているのです。自分自身が本当に願っている通りになるのです。悟り・神我一体・無限の無限の幸せを本当に願っていたら、必ず本心の心を生きようとするものです。本心の心は他人の生き方を縛ろうとは、決してしないものです。他人を自分の思い・願いで縛るのは、業想念の心です。自分自身が業想念の心を生きているから、地獄への道を歩むことになるのです。一瞬でも他を縛れば、自分は業想念を生きているのです。一瞬でも自分の所有だと思えば、業想念の心に陥っているのです。自分の親も子も妻も夫も、自分の所有だと思えば、業想念の心を生きているのです。




 神さまが今の一瞬間だけ、自分の親・子・妻・夫と現れて下さっているのだと、感謝一筋の心になれば、本心の心を生きているのです。一瞬でも自分の所有物(財産・物・お金・等々)を掴めば、業想念の心に陥っているのです。自分の所有物など微塵も無いと思える心が、本心の心なのです。すべてを神さまから、一瞬一瞬新たに受け直せる自分に成らなければ、未だ本心の自分を生きていることにはならないのです。