ありがとうございます 神書 4-15

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天の自分と地の自分を一つに繋ぐこと


 何をする場合でも、とことんやり抜けば、もやもやしたものが抜け落ちて、何かを掴めるものです。中途半端では、何も掴めないのです。お祈りの練習も、祈って祈って祈り抜けば、何かを掴めるのです。寝食を忘れる程に、とことん祈り続ければ、業想念の厚い壁も抜け落ちて、天空と一つに繋がるのです。誰でも一度は通過しなければならない関門です。周りからどんなに反対されても、妨害されても、馬鹿と言われても、気違いと言われても、一度はお祈りに没頭して、天の自分と地の自分とを、一つに繋がなければならないのです。本当の幸せ・無限の無限の幸せは、天と地の自分が一つになった時に、実感できるのです。チャンスは常に、『今』しかないのです。『今』のチャンスを逃せば、二度とそのチャンスは巡って来ないのです。




 渦巻く濁流に翻弄されている木の葉が、表面に浮かび出るチャンスは、滅多に訪れて来ないものです。それと同じように、業想念の渦巻く濁流に呑み込まれたら、本心の自分に戻るチャンスは、二度と訪れては来ないものです。神さまの救いの御手(祈り言葉)を、しっかりと握り締めていなければ、業想念の渦巻く濁流に呑み込まれてしまうのです。そうなると苦しさの余りに、神さまの救いの御手(祈り言葉)をも、離してしまうことになるのです。泳ぎの達人でも、渦巻く濁流の中を泳ぐのは、大変なのです。命綱に支えられていてこそ、安全と言えるのです。だから祈り言葉を唱えることを、決して忘れたり、おろそかにしてはならないのです。




 溺れるものは藁をも掴むのです。業想念の渦巻く濁流に翻弄されている、世の中の大半の人々は、一寸でも自分の助けになると思ったら、何にでもしがみつこうとするものです。しがみつかれたら、泳ぎの達人でも、一緒に溺れてしまうものです。人を救うということは、業想念の渦巻く濁流の中から、その人を引き上げることです。その為には自分自身が安全な立場にいなければならないのです。




 岸にいるか、救命艇の上にいるか、命綱にしっかりと繋がっているかを、しっかりと確かめてから、救いの手を差し延べなければならないのです。我を忘れて飛び込んだら、自分も溺れてしまうのです。岸にいるというのは、本心の悟りの境地にいるということです。救命艇(如来の願船)の上にいるというのは、神さまの人類救済の働きに、自分のすべてを捧げ尽くして奉仕しているということです。命綱にしっかりと繋がっているというのは、いついかなる時にも、祈り言葉をしっかりと唱え続けているということです。どんな場合も先ず、自分自身が神さまの救いの御手を、しっかりと握り締めていなければならないのです。常に神さまに助けてもらえる自分でならなければならないのです。