ありがとうございます 神書 3-35   無限の無限の安らぎが一杯!

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一切は無常


 今現れている姿に執着するということは、心がそれに囚われて、不自由になるということです。本心の自由自在な立場から見れば、それが大きな苦しみの原因となるのです。


 また執着するということは、その変化変滅を止めたいと願うことです。しかしそれは不可能なことなのです。全大宇宙のすべてのすべては、一瞬一瞬変化変滅していて、一瞬たりとも、同じ姿を止めてはいないのです。




 一切は無常なのです。その無常なものを止めようとするところに、大きな無理があり、間違いがあるのです。そして何事も自分の願い通りにならないところから、大きな苦しみを背負い込むことになるのです。更に執着するということは、心が一つの立場に縛りつけられるということです。何事を眺めるにしても、その一つの立場からしか、眺めることができなくなるのです。




 今の自分の立場から眺めて、プラスに見えるものを眺めている時は、喜びとなるのですが、マイナスに見えるものを眺めなければならない時は、大きな苦しみとなるのです。


 例えばいつも最高の御馳走ばかりを食べていて、それに慣れきっている人は、きっと粗末な食事では、美味しく感じられないに違いないのです。


 それはいつも最高の御馳走を食べている、という一つの立場に立っていて、そこから離れることができない為に、粗末な食事では、マイナスに感じてしまうからです。


 これが自由自在な本心の心であれば、餓鬼道に落ちて何も食べられない、という立場から眺めて、粗末な食事でも大きなプラスに感じて、何と美味しい御馳走であることよ!と大喜びできるのです。




 何故執着するのか? それは、無常の奥に燦然と輝いている、宇宙絶対神の愛の心を感受できないからです。「無常」という言葉から、「儚さ・虚しさ」というものを強く感じているとしたら、その人は「この世しか見ていない」からです。絶対神の愛の御心が、宇宙のすべてを移り変わらせているのである、ということに気付いていないからです。宇宙絶対神の全徳が、無限の無限の大光明燦然と輝いて、全大宇宙のすべてのすべてと現れているのです。




 無常の奥には常に、永遠不滅・歓喜無量・尊厳無比の神さまの御心が、無限の無限の大光明燦然と輝いているのです。





 宇宙絶対神の愛の御心は、同じものを何一つとして創造することなく、同じことを二度と繰り返すことなく、無限の無限の妙趣に富んだ最高表現を、常に新たに与え続けてくれているのです。そのことに気付きさえすれば、無常とは、一瞬一瞬新たなる、無限の無限の歓喜の連続です。




 すべてを神さまの現れとして、光一元に拝み上げて、無限の無限の大光明を感じ取れば、一切の儚さ・虚しさが消え、この世への執着も自然に消え去ってしまうのです。




 『すべては神さま! 神さまはすべて!』と拝む感謝行は、一切の執着・儚さ・虚しさを断ち切ってくれるのです。