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業想念の心から本心の心へ


 最後の審判は迫っているのです。


 傲慢で欲深い業想念のままで、何の苦痛も味わうこと無く、他力的に救われるということは無いのです。

 業想念の心から本心の心へと、自分自身の心を移行させることによって、誰もが本当の救われを得ることができるのです。


 真実に救われる為には、業想念の心を捨てて(古い皮を脱ぎ捨てて・脱皮して)、本心の心(新しい自分)に生まれ変わることが必要なのです。




 今はその脱皮の時期なのです。脱皮できなければ、死を待つだけです。

 今や地球全体が一大進化の時期に遭遇しているのです。

 その為に、限界の波動が幽界の波動に、急速に近づきつつあるのです。そうなると幽界にある姿が、そのまま即座に、限界の姿となって現れて来るようになるのです。

 今幽界は、人類の積み重ねて来た業想念で一杯です。

 そのまま幽界の姿が現実化したら、この世は地獄絵図を呈することになるのです。

 地球人類の三分の二が滅んで、残ったものも悲惨な生き地獄を味わう結果になりかねないのです。




 地球全体の進化の為には、人類の積み重ねて来た業想念が邪魔になるのです。

 その邪魔な業想念を消し去る為に、地球は大きな浄めの光を浴びて、傷つき・汚れた表皮を脱ぎ捨てようとしているのです。

 これまでは、人類自らの努力で業想念を消し去るのを、地球は長年忍耐強く待ち続けてくれたのです。

 しかし、もうこれ以上は待てないという土壇場に来ているのです。

 そこで一人でも多く、苦痛少なく救われるようにと、その篩い分けが始まったのです。




 救われる者と滅びる者とのより分けが始まったのです。


 救われるのは、業想念の心を遠離して、本心の心に戻った人です。


 何故なら、篩い落とされるのは、心がその篩いの目より小さいからです。


 みんなの幸せを祈る本心の心や、みんなの幸せの為に生きている人の心は大きいので、決してその篩いの目から抜け落ちることは無いのです。


 反対に滅びるのは、業想念の心を自分の心として掴んで離さない人です。


 業想念の心とは、五欲(財産欲・名誉欲・色欲・食欲・睡眠欲)の心のことであり、煩悩の心のことであり、傲慢な・欲深い・頑固な・利己的な・マイホーム主義的な心のことです。


 そのような心は狭く・小さい為に、汚れと一緒に篩いの目から抜け落ちてしまうのです。




 汚れ物を洗濯する時には、汚れの多いものと少ないものとを区別して、洗剤の量や洗い方を加減するものです。


 そのように心の汚れを浄める時にも、業想念の多い・少ないによって、その浄め方も異なり、受ける苦痛の量も違うのです。


 同じ時間で浄めるとすれば、業想念の多い程、強烈な浄め方となるものです。


 業想念を消し去る為の強烈な浄めの光を浴びたら、業想念が多い場合には、魂の苦痛は大きく、肉体は傷つき、消滅することも有るのです。



 だから日々瞬々祈り続けて、業想念を少なくしておくことが大事なのです。