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本心の心と業想念の心とは、相対の両極


 本心の心と業想念の心とは、相対の両極に当たるものです。そしてその二つの心を組み合わせて、心の種々様々な姿が表現されているのです。即ち業想念の極から本心の極に至る、無限の無限の段階の心の表現が、一瞬一瞬新たに新たに、光一元に創造され続けているのです。人は今の一瞬一瞬に、どの段階の心の状態を掴むかによって、自由に自分の幸せの程度を決定することができるのです。




 本心の心を掴めば、楽(幸福)が大きくなってゆくのです。逆に業想念の心を掴めば掴むほど、どんどん苦(不幸)が大きくなってゆくのです。それは本心の心は自由自在な心ですから、次の一瞬に、自分の選びたいプラス(楽・幸福)を、容易に掴めるからです。逆に業想念の心は執着の心ですから、次の一瞬も、自分の掴んでいるマイナス(苦・不幸)を放し難くなるからです。




 心の習慣性(傾向)がプラスの方向に向いている時は、本心の心(プラス)を選び易いので、自然により大きな本心の心を掴んでゆけるものです。しかし心の習慣性(傾向)がマイナスの方向に向いている時には、その惰性に任せていては、坂道を転がり落ちるように、より低い段階の心(大きい業想念)を、無意識の内に掴んでしまうものなのです。




 マイナスの習慣性(傾向)を、プラスに変えてゆく為には、大きな大きな力を必要とするのです。惰性がついて、勢いよく坂道を転がり落ちるのを止めるには、自分だけの力では不可能なのです。大きな力の持ち主に助けて貰わなければ無理なのです。マイナスの習慣性をプラスに変えてゆく為には、守護の神霊の加護を大きく受けなければできないのです。




 自分だけの小さな力では、小さなマイナスの癖も、なかなか改まるものでは無いのです。ましてや過去世から積み重ねて来た、感謝を忘れるマイナスの習慣性は、雪崩のように凄まじいものです。




 自分だけの力では、幾ら感謝し続けようとしても、すぐに感謝を忘れてしまって、業想念の心に陥ってしまうものなのです。




 感謝を深めてゆきたいと真実に願うならば、常に守護の神霊の無限の加護によって、今自分は感謝させていただいているのであると、謙虚に謙虚に思い返さなければならないのです。




 微塵も自分の力・自分の努力で感謝しているのだ等と、高慢に思ってはならないのです。また自分は感謝できない・感謝が足りない等と、卑下慢の心を起こしても駄目なのです。どちらも傲慢極まりない心です。




 守護の神霊の無限の加護が無ければ、只の一回の感謝すらも絶対にできないものなのです。常に守護の神霊の無限の加護を、謙虚に謙虚に受け入れる者のみが、感謝を深めさせていただけるのです。