ありがとうございます 神書 2-47   無限の無限の喜びが無限に無限に一杯!

神書目次へ

謙虚にすべてのものを受け直す心


 今・ここに与えられているものが、次の一瞬にも与えられ、いつまでも与え続けられるものだと考えていたら、大きな大きな間違いです。神さまは絶対の愛だから、与え続けてくれて当然なのだという考え方は、傲慢な業想念の考え方です。謙虚な本心の考え方では無いのです。




 どんなものもこれっきりなのだ、これが最後なのだ、という気持ちで受けなければ、謙虚な心になって、感謝を深めてゆくことはできないのです。




 常に常に本心の謙虚な心になって、一瞬一瞬新たに、すべてのものを受け直してゆくことが大切なのです。そうしなければ心に隙ができて、瞬時にして、過去を掴んで執着する業想念の心に陥ってしまうのです。




 人は本心の自分に戻り切る迄は、一寸油断するだけで、業想念の心に陥って、後悔することになるのです。いつも初心に返って、本心の自分を生き切ろうと、努力し続けることが大事なのです。




 過去を掴んで執着する業想念の心が、その掴んだものを自分のものだと主張するのは、その性質上当然のことです。

 業想念の心の奴隷に陥っている人にとっては、我の主張は正しい当然の権利なのだと思えるのです。

 そしてその我の主張から奪い合いが生じ、七難八苦の地獄絵図を現出し、すべての形あるものを破壊し、失ってしまうことになるのです。

 神さまの立場・本心の立場から眺めると、実に愚かな危なっかしい生き方です。




 永続する幸せを実現する為には、本心の自分をしっかりと生きて、謙虚に謙虚になること以外に方法は無いのです。




 業想念の心(七難八苦の心)を掴むから、苦しむのです。本心の心を思い返せば、平安を取り戻せるのです。

 業想念の心と本心の心のどちらを掴むかによって、一瞬一瞬その人の幸・不幸が決定されるのです。

 業想念の心で神さまを利用しようとしても、それは不可能です。何故なら神さまの助けは、業想念を消し去ってくるからです。




 神さまの助けは、常に本心の心の立場に戻ってこそ、受けられるものなのです。

 本心の感謝の心に戻って、感謝を深めてゆくことによって、神さまの助けを大きく受けることができるのです。

 神さまの愛の助けを、その万分の一どころか、億分の一すら受けていないのが、大半の人の感謝の程度ではないでしょうか。もっともっと感謝一筋に、謙虚に生きてゆかなければならないのです。




 業想念の大部分は、守護の神霊が消し去って下さるにしても、最後の仕上げは、自分自身の手できっちりとしたいものです。

 本心の自分をしっかりと生きて、僅かに残された業想念ぐらいは、自分自身の手で消し切らなければならないのです。それでなければ、守護の神霊の操り人形・奴隷であって、自由自在な本心の自分に戻り切ったことにはならないのです。