ありがとうございます 神書 2-36 無限の無限の喜びが無限に無限に一杯!

神書目次へ


本心の自覚を深めてゆくこと


 本心の自分が、無限に無限に幸せな自分なのです。業想念の心から本心の自分に戻り、本心の自覚を深めてゆくことが、本当の幸せを掴む唯一の道なのです。業想念の心では、真実の幸せを掴むことは、永遠に不可能なのです。移り変わる姿に執着し、過去を掴んで離さない心は、業想念の心です。その業想念の心は、例えれば水面に映る月の姿を本当の月と錯覚して、波によって乱れる月の虚像を掴もうとするのです。




 真実の幸せは、天空に輝く月であり、太陽であるのに、水面に映る虚像を本物と錯覚しているのです。揺れ動く想念感情の心・業想念の心のままでは、水面に浮かぶ月の虚像すらも、千々に乱れて掴むことはできないのです。本心の自分は常に、一瞬一瞬新たに、月や太陽に相当する、幸せの本体の神さまから直接に、全徳の無限の無限の輝きを受けることによって、実像の無限の無限の幸せを味わうことができるのです。その結果、心の平安が保たれるので、波の無い水面に映る月のように、虚像としてのこの世の幸せも整ってくるのです。




 業想念の心から本心の心に戻る為には、空に浮かぶ雲(業想念の心)を抜け出て、月や太陽に相当する、宇宙絶対神と一体の自分を自覚しなければならないのです。肉体や魂を自分であると、小さく思う想念を捨てて、宇宙が月が太陽が神さまが自分であると、大きく思い返す練習が必要なのです。




 すべては言葉通りに、思い通りに成るのが、宇宙の厳然たる法則です。小さく思い続けていては、永遠に小さいままで終わるのです。それでは無限の無限の幸せを感得することは不可能です。何を思うのも各自の自由なのです。小さく思っても、大きく思っても、その思いの中心に自分が存在するのです。マイナスに思うのも、プラスに思うのも、自分自身が自由にそう思っているだけです。形の地獄に置かれても、極楽に思うことはできるのです。形の極楽に置かれても、地獄に思うことはできるのです。自分の思いを支配しているのは、常に自分自身なのです。




 小さく利己的に生きる者は、業想念の黒雲に覆われることになるのです。大きく愛他的に生きる者は、神さまの大光明を浴びることになるのです。小さく生きる者は、益々小さくなり、大きく生きる者は、益々大きくなるのです。小さく思う者は、自己限定し、力の出し惜しみをするのです。それで他に与えるものが少なくなって、他からの助けも少なくなり、孤立無援の地獄に陥るのです。




 大きく思う者は、神さまの無限力を受けて、自分を与え尽くすのです。それで他に与えるものが多くなって、求めなくても、必要なものは豊かに与えられて、無限の無限の幸せで一杯になるのです。業想念の心の奴隷に陥るのも、本心の心を輝かして生きるのも、結局は自分自身の自由意志で、それを選んでいるのです。だからどんな結果に対しても、すべての責任は自分に在るのです。