ありがとうございます 神書 2-31 無限の無限の喜びが無限に無限に一杯!

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神ながら・自然法爾無為無我全託

 至忠・至孝・至悌、絶対帰一・絶対奉仕、六波羅蜜(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・般若)、布施波羅蜜(無畏施・法施・財施)、四無量心(慈悲喜捨)、至誠心・深心・回向発願心等々、これらのすべては、神ながらに・自然法爾に・無為無我全託の心で為されてこそ、本心開発(悟り)への真実の道に成るのです。

 自分のすべてを捧げ尽くすと言っても、「自分が」という我の心があっては、我執(とらわれ)になるのです。自分の物を他人に与えるにしても、自分・物・他人を意識している間は、正しい与え方では無いのです。神さまが、神さまの物を、神なる自分を通して、神なる他人へ与えられたのですから、一切は神ながらに為されているのです。純粋無雑な生き方の中にこそ、本物が現れるのです。

 我の心(業想念の心・五欲の心・煩悩の心)では、どんなものを与えても、少しもプラスにはならないのです。業想念の心で汚れ切った物は、毒入り饅頭と同じようなものです。貰っても有り難迷惑なだけです。純粋な奉仕の心・感謝の心・喜びの心で捧げ尽くしてこそ、清らかなプラスのものを与えたことになるのです。汚れたマイナスのものを与える者ほど、恩着せがましく、傲慢なのです。清らかなプラスのものを与える者ほど、受けていただいて幸せですと、常に謙虚なのです。

 『私のいのちを神さまの御用にお役立て下さい』と、自分のいのちを捧げる場合でも、業想念の心で汚れ切っていては、神さまにとっては有り難迷惑に違い無いのです。また何の能力も開発されていないようでは、却って足手まといなのであり、邪魔になる位のものです。ちょうど幼子が親の手伝いをする場合に、大事な物を壊したり、何倍も手数をかけるようなものです。それでも親は嬉しいのです。お手伝いをしたいという心根が、愛しく思われるのです。

 神さまにとっては、人は愛しい幼子ですから、神さまのお役に立ちたいと願えば、人の親以上の喜びであるに違いないのです。それだからこそ、無限の業想念を消し去り、本心(能力)を開発して、お役に立てるように養成して下さるのです。その苦労は並大抵のものでは無い筈です。だからこそ謙虚に・素直に、自分の一切の願いを捨てて、神さまの導きに任せ切ることが大切なのです。

 我の心(業想念の心)で動いては、すべてはマイナスになるのです。




 感謝の心・謙虚な心・素直な心・喜びの心・本心の心で、神さまの導き・護り・助けを感受してこそ、すべてはプラスにプラスに変化してゆくのです。




 お祈りに関しても、我の心を掴むと、お祈りをしなければ、しなければ、と自分の力でお祈りをしているかのように錯覚してしまうのです。




 本心の心であれば、神さまのお蔭・みんなのお蔭で、お祈りをさせていただけて、無限の無限の幸せ・喜び・感謝で一杯!ということになるのです。