ありがとうございます 神書 2-26

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悟りを開くということ


 悟りを開く(最高の幸せを掴む)ということと、登山において最高峰の頂上を究めるということとは共通している点が多いのです。登山においても、先ず真実の願いを立て、不撓不屈の信念を持ち、用意周到な準備をし、十二分のトレーニングを積んで、万全の態勢(物事に対する構えや状態)で臨むのです。それでも成功の可能性は少ないものです。その登山の目標よりも、遙かに遙かに大きな大きな目標に向かって進むのが、悟りを開き・最高の幸せを掴むことなのです。安易に考えていては、準備段階の途中で挫折するのは目に見えているのです。




 今生において悟りを開こうと、本当に願っているのであれば、登山の本番に臨む時のように、今の一歩一歩を決しておろそかにしてはならないのです。頂上に近づけば近づくほど、傾斜は急となり、危険な要素は増えてくるものです。もし大きく滑り落ちたり・転がり落ちでもしたならば、怪我をして再起不能となるかもしれないのです。落ちた所からもう一度登り直せばよいのだ、などと言う甘い考えは絶対に通用しないのです。




 悟りの本番に臨むつもりであれば、今の一瞬一瞬を、真剣に・大切に生きなければならないのです。本心の自分をしっかりと生きることが、安全を確認して一歩一歩踏みしめて登ることに当たるのです。もし一瞬でも業想念の心に負けて、その奴隷になるということは、油断して足を踏み外すことに当たるのです。まだ麓の方だから、少し位足を滑らせても、危険は少ないから大丈夫なのだ、と考えているようでは甘いのです。麓で足を滑らすようでは、頂上に近い危険な場所では、足を踏み外す確率は何倍も高くなるものです。一○○パーセント安全を確認して、着実に登って来ていても、これからのことは未知数なのです。傾斜が急になればなるほど、安全度は低くなるのです。本当に安全なものかどうかを、正しく見抜く眼力が要求されるのです。安全と思って身を任せた途端に崩れ落ちた、というようなことが万が一に一つ起こっても致命的なのです。




 悟りを開く為の本番としての道を歩む者は、今の一瞬一瞬を、感謝一筋に生き抜かなければならないのです。すべてを感謝の心で受け直してゆかなければならないのです。感謝一筋に生きるということが、一歩一歩着実に、悟りに近づいていることなのです。




 感謝を忘れ、物事をマイナスに見るということは、足を踏み外し、転落していることなのです。




 悟りの頂上へ近づけば、一言のマイナスの言葉でも、大きく転落する要因となるのです。それは自分一人が転落するだけでは済まないのです。大勢の人々を巻き添えにしてしまう可能性が大なのです。謙虚に謙虚に感謝を深めている者は、守護の神霊の加護によって、常に常に、転落するのを支えて、押し上げてもらっているものです。