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業想念の心=五欲の心・煩悩の心


 業想念の心(五欲の心・煩悩の心)に陥っては、心の苦しみは絶えないものです。業想念の心のままで、心の苦しみを解消しようとしても、それは永遠に不可能なのです。何故なら業想念の心には本質的に、七難八苦の苦しみが影のように付きまとっているものだからです。




 本来無常なるものに執着して、それをいつまでも保持しようとすること自体が、ナンセンス極まりないものです。ところが執着の心に陥ると、この明白な道理が判らなくなるのです。執着に執着を重ねると、いつの間にか、その執着の心が自分自身であるかのように、錯覚してしまうのです。そして本来自由自在な本心の自分を、無限の無限の幸せで一杯の本心の自分を、見失ってしまうのです。




 業想念の心から本心の心に戻ることが、一切の苦しみを解消する唯一無二の方法です。その為には本心の心を自覚して、本心の自分をしっかりと生きようとしなければならないのです。




 本心の心とは、真清浄真無垢の心です。業想念の心とは、本心の心を覆う垢のようなものです。垢とは無用になった過去の残骸です。日々その垢(業想念の心)を払拭していれば、本来真清浄真無垢の本心の心が輝いているはずです。ちょうど毎日お風呂に入って、垢を流していれば、身体を美しく清らかに保てるようなものです。ところが何年もお風呂に入らず、垢を積み重ねたままでは、垢で汚れた身体が目に付くようになるものです。そしていつの間にか、垢で汚れている身体が本来のものであるかのように、錯覚してしまうのです。そうなると垢で汚れた身体のままで良いのだと、自己満足してしまうのです。即ち業想念の心が自分の心なのだと思い込んでしまうのも同じです。そして業想念の心の奴隷になって生きていても、その間違いに気付かなくなるのです。




 人は業想念の奴隷状態から抜け出して、本心の心で生きるようにならなければ、真実の幸せを掴むことはできないのです。その為には毎日毎日、神さまに感謝し続けて、心の垢(業想念)を光りのシャワーで洗い流し・消し去ってもらうことが必要なのです。そうすれば真清浄真無垢の本心の心が輝き出て来るのです。その美しい真清浄真無垢の本心の心を自覚することさえできれば、人は無限の無限の幸せで一杯になれるのです。




 ところが業想念の心に覆われたままでは、本心の心を見失い、業想念の心が自分なのだと錯覚してしまうのです。汚れた醜い者が自分なのだと思い込んでいては、真実の幸せを掴むことはできないのです。




 本来真清浄真無垢の本心の自分は、厳然と存在しているのです。業想念の汚れさえ拭い去れば、現実の醜い姿は消えて、本心の美しい姿が現前するのです。




 最高理想の姿は、既に存在しているのです。理想を現実化する為には、業想念の心を消し去って、本心の心を輝かせてゆけば良いのです。