ありがとうございます 神書 2-16

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神さまの他には何も無い

 『神さまの他には何も無い!』これは厳然たる真理です。しかしこのことを本当に理解し・体得する為には、先ず神さまをしっかりと把握してゆくことが必要です。神さまをどの程度まで把握しているかによって、その中身は千差万別です。




 宇宙絶対神の最高表現である天照大御神(全徳の無限の無限の輝き・常楽我浄・真善美聖・完全円満大調和)をしっかりと把握する立場に立てば、天照大御神の他には何も無い!ということが、自然に理解され・体得されるのです。




 無限の無限の大光明燦然たる姿を目の当たりにすれば、その眩いばかりの輝きだけがすべてのすべてであって、対立するものは何も無いからです。一切の暗闇も、小さな光も、共に消えて無いからです。『天照大御神はすべてのすべて! 一切は至善至美至妙完全円満大調和!』なのです。




 『神さまの他には何も無い!』だからこそ真(まこと)に頼りになるものは、神さま以外には何も無いのです。




 俗言に「何時までも在ると思うな、親と金」という諭しがあるのです。人も物もすべては滅び去り、消え去るものです。何時消え去るかもしれないものに頼っていては、真(まこと)の心の安らぎは得られないのです。




 人に物に頼っている限りは、その頼りにしているものが無くなった時に、悲惨のどん底に落ち込んでしまうのです。どんな人も、どんな物も、明日はこの世に存在しないかも知れないのです。否一瞬後に、どのようになっているか予測もつかないのです。もっと厳密に言えば、宇宙のすべてが、一瞬一瞬変化して、無常なのです。無常なるものに頼ることは不可能なのです。一瞬たりとも頼ることはできないものなのです。




 人が本当に頼りにしているものは、無常なるものの背後に働いている、神さまの絶対の愛なのです。




 人は神さまの愛を信じ、頼っているのです。永遠不滅・永遠不変の神さまの愛に信頼を置いているのです。




 本心の心が少しでも輝き出ていたら、一目瞭然の道理なのです。ところが本心の心が業想念の心に覆われた時には、この簡単な道理が判らなくなるのです。




 業想念の心は執着の心です。人に物に執着して、人に物に頼っているかのように錯覚するのです。人が本当に神さまの愛を信じられなくなった時には、周囲のすべてに恐怖を感じるものです。天が落ちてくるのではと杞憂したり、食物に毒が入っているのではと疑ったり、人が自分を殺そうとしている等と疑心暗鬼の心に陥るものです。これらはすべて自分自身が、業想念の心で本心の心を覆い隠した結果なのです。




 人は本心の心をしっかりと生きて、神さまだけに頼り切らなければならないのです。神さまだけに縋(スガ)る心を起こせば、神さまの愛はひしひしと感じられるのです。




 神さまの愛の現れである天使としての人が物が、必要に応じて助け続けて下さるのです。