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単なる宿命論と絶対の宿命論


 単なる宿命論(運命論)と絶対の宿命論との間には、大きな相違点が在るのです。単なる宿命論とは、この世に起こってくる吉凶禍福の一切の出来事は、天の命によってあらかじめ決定されていて、人間の意志・努力もこれを変更することはできないとする考え方です。運命だから仕方が無い、宿命だからどうにもならないと、身の不遇を嘆くだけの、運命の奴隷に成り下がる思想です。人間の自由意志や努力に、何の価値も見出そうとしない敗者の考え方です。




 こんな考え方に陥ってしまっては、人は決して幸せにはなれないのです。なるようにしかならないと言って、投げやりな・自暴自棄の・今さえ良ければという刹那的な生き方をしていては、間違った運命論の奴隷になっているだけです。色々な予言や予知に惑わされて、諦めの心になるのも、人の自由意志と努力の尊さに気付いていないだけです。こんな宿命論は業想念の浅知恵から生み出された、神さまを悪者にして良しとする、最悪の間違った思想です。




 絶対の宿命論とは、宇宙絶対神が創造し与えて下さる運命というものは、最高の叡智と全能の力をもって造り上げられるものであるから、これ以上のものは絶対に造れないという、唯一無二の最高に素晴らしい、全徳の無限の無限の輝きそのものとしての、最高の運命であると言うことです。即ち全大宇宙のすべてのすべてに、天照大御神(全徳の無限の無限の輝き・常楽我浄・真善美聖・至善至美至妙完全円満大調和の当体)の御尊容を感受(無限の無限の感謝の心でしっかりと受け入れる)できた時に、初めて味わうことのできる最高の運命のことを絶対の宿命と言うのです。




 これは運命の自由創造論の最高の極致と一致するものです。人に与えられている自由意志と努力を、最高・最大に発揮できた時に、即ち業想念の奴隷状態から完全に解放されて、本心の自分を最高に輝かせた時に、享受できる運命を指しているのです。




 一人一人の運命がどれだけ絶対の宿命に近づけるかは、各自の自由意志と努力に委ねられているのです。自分の運命は、自分自身の手で切り開かなければならないのです。今の一瞬一瞬に、自分の自由意志で、何を選択して心に受けてゆくかということが、最も重要な課題なのです。人は自分の心に受け入れたものを、自分の運命として現実がしてゆくのです。従って常に最高のものを選択して、心にしっかりと受け入れてゆく必要があるのです。




 最高のものとは、天照大御神の御尊容です。何でも無造作に無意識の内に受け入れているようでは、環境(運命)の奴隷です。天照大御神の御尊容をしっかりと心に受け入れてゆく為には、『ありがとうございます』(天照大御神 今ここに 在します! 新たなる全徳の無限の無限の輝きが一杯!)と感謝の祈りを実践し続けることです。