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悟る・解脱するとは本心の自分に戻ること


 悟る・解脱するとは、自由自在な本心の自分に戻ることです。一切の縛りから自由になることが、悟り・解脱なのです。




 本心の心で自由自在に生きることが、無限の無限の幸せを感受する為には必要なのです。




 何かに縛られているというのは、心が奴隷状態になっているのです。心が奴隷状態になっていては、決して真実の幸せを感受することはできないのです。




 心が自由自在な主人公の立場に立ってこそ、真実の幸せを掴むことができるのです。それでは自分を縛っているのは、一体何者なのでしょうか?その正体さえ突き止めれば、この問題は簡単に解決するのです。




 自分を縛っているのは、果たして外部環境にあるものでしょうか?環境の所為にしたり、他人の所為にすることが、本当に正しい考え方なのでしょうか?もし自分以外の何かが、自分を縛っているのであれば、その何かが変化して、自分を縛らなくなるまでは、永遠に自由にはなれないということになるのです。





 自分以外の何かが、自分に自由を与えてくれるのを待っていたら、それは永遠に訪れては来ないでしょう。何故なら自分を縛っていると見えるものは、余りにも多すぎるし、その変化を期待することは、不可能に見えるからです。だからこの考え方では、決して自由にはなれないのです。




 本当の自由を得る為には、『自分を縛っているのは、自分自身なのである!』という考え方を受け入れなければならないのです。




 神さまは自由の本体ですから、神さまの分身である本心の人間にも、同じ自由の徳性が与えられているのです。この本来自由自在な本心の自分を忘れるところから、種々様々な縛りが夢・幻のように現れてくるのです。




 形に縛られていると見えるこの世も、本来自由自在な自分が、愛の心を表現する為に、自分の自由意志で、形の自由に限定を加えた姿なのです。決して心の自由は縛られていなのです。




 しかしながら自由自在な本心の自分に戻るまでは、形の祈り・心の縛りがまだ残っているかのように錯覚してしまうのです。五欲の心に代表される、“求める心”は、他人の自由を縛ろうとする業想念の心です。




 自由自在な本心の心は、決して他人の自由を縛ろうとはしないものです。




 本心の自分は、他人に対して縛りになるような言葉を使うことも無いのです。だから自分の使った言葉が自分に帰ってくる自業自得の法則に照らしてみても、自分が縛られるということは決して有り得ないのです。




 本心の自分は何事をする場合も、他を縛ろうとしないから、決して縛られることは無いのです。




 業想念の心で他を縛ろうとする時に、それが自分に返ってきて、自分自身を縛ることになるのです。