ありがとうございます 神書 1-37

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神さまの愛を感じ取れる人が、本当に幸せな人


 神さまの愛を感じ取れる人が、本当に幸せな人なのです。神さまの無限に大きく・無限に深い・絶対の愛(至慈至愛)は、皆に平等に降り注がれているのです。しかしその愛をどれだけ感じ取るかは、一人一人の自由に委ねられているのです。




 何時何処にあっても、神さまの愛を大きく深く感じ取りさえすれば、常に無限の無限の幸せで一杯!なのです。




 本心の自分が自分の心なのだと信じられる人は、神さまの愛を感じ取れる人です。その人は“神さまに愛されている!いつも無限の無限の幸せで一杯!ありがとうございます!”と祈り言葉を唱えて、神さまの愛をしっかりと確認してゆけば良いのです。




 業想念の心〔五欲(財欲・名誉欲・色欲・食欲・睡眠欲〕を自分の心なのだと信じている人にとっては、業想念が厚ければ厚い程、神さまの愛は感じ取り難いものです。それは厚い業想念に覆われて、業想念の奴隷になって、本心の自分が隠されてしまっているからです。




 神さまに生かされているということを、忘れた状態が欲なのです。神さまへの感謝を忘れたところから、業想念(五欲)が発生し蓄積されてゆくのです。神さまへの感謝を忘れ、怠る状態が続けば続く程、業想念は厚くなってくるのです。




 業想念が厚くなればなるほど、五欲を満足させる為に、自分の思い通りに生きようとする利己的な心が強くなってくるのです。何でも自分の思い通りにならなければ、腹が立つのです。周囲の人々の思惑を生かしてあげようという愛の気持ちが、業想念によって覆い隠されてしまっているからです。




 業想念の心(五欲)を幾ら満足させても、それは本心の心の満足では無いのです。だから自分も他人も決して本当の幸せにはなれないのです。




 業想念で築き上げたものは、必ず自壊(外力によらず、内部から崩壊する)するのです。思い通りにならない時が必ず来るのです。築き上げたものが大きければ大きいほど、大轟音を発して崩壊するのです。その崩壊する姿が七難八苦となるのです。その時に業想念の心を自分の心として掴んでいたら、必ず大きな苦痛を味わい続けることになるのです。




 しかし幸いなことに、その苦痛が魂を浄め、生き方の誤りに気付かせてくれるのです。同じ失敗を何度も繰り返すのは愚かです。他人の失敗を見て、他山の石としないのも愚かです。お手本は至る所に存在しているのです。五欲の奴隷状態に止まっていては、決して真実の幸せを掴むことはできないのです。このことをしっかりと肝に銘じておかなければならないのです。




 例えこの一生が七難八苦の連続であっても、地獄の苦しみを味わうことと比べたら、万分の一以下の軽さです。その苦痛によって魂を浄め、感謝のできる本心の心に引き戻していただけるとしたら、何が何でも感謝し続けなければならないものなのです。