ありがとうございます 神書 1-36

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神聖恋慕の愛の働き


 移り変わる一切の表現の奥底には、絶対神の愛が厳然と実在し、貫流しているのです。




 相対に分かれた二極間相互における、交流・交通・交渉等の起こる原動力は、神聖恋慕の愛の働きです。




 愛こそが一切のものを生み育てる力なのです。光(本心)と闇(業想念)が対立し、別個に存在して働いているだけでは、光の無限に美しく、無限に妙なる、変化に富んだ表現は生まれ出ないのです。




 光と闇との相互間のムスビが、神聖恋慕・愛によって、円融無碍に執り行われてこそ、無碍の無限の妙趣ある光の表現が誕生するわけです。




 光と闇、本心と業想念は、本来敵対しているものでは無いのです。双方の助け合い、与え尽くし合いによって、その表現を光一元の無限の無限の変化に富んだ素晴らしいものに、進化・向上・発展させているのです。




 神聖恋慕とは、尊厳な・純粋な・清浄な・美妙な・善良な恋慕のことです。




 神さまの御心である真・善・美・聖を表現する為の、愛の牽引力のことです。恋慕の「恋う」とは、無限に大きく拡がったものを、一点に集中して懲り固めて、報いを求めずに与え尽くすことです。




 「慕う」とは、謙虚に下から、与えられた無限のものを、感謝を深めて受け尽くすことです。




 霊が体を恋い、体が霊を慕うのも、男が女を恋い、女が男を慕うのも、神聖恋慕の具体例です。すべての表現の奥底に流れる、神聖恋慕(神さまの愛)を実感して、無限の喜び一杯に活きることが、本当の自分を生きていることになるのです。




 移り変わる表現としての、本心の姿・業想念の姿に囚われてはならないのです。表現の奥底にある、本当の本心の自分を、しっかりと把握してゆくことが大切なのです。




 表現の本心の姿も、これが自分なのだと掴めば、表現の業想念の姿を敵対視することになるのです。本心と業想念の戦いでは無いのです。表現に囚われるから、両者の闘争に見えるのです。本当は本心の表現を、無限の変化に富んだものにする為に、業想念が手助けしてくれているのです。




 本当の本心の自分が願うならば、無限の闇(業想念)の場に、無限の無限の大光明(本心)を加えて、その場を無限の大光明(本心)燦然と輝く表現に変えること位は、自由自在なのです。地獄を極楽に変貌せさることも、朝飯前のたやすいことなのです。




 絶対の中に本住している本心の自分が、表現としての本心の姿を、種蒔かれた状態から出発して、色々な成長過程の姿を楽しみながら、花開き実を結ぶ状態にまで、進化・向上・発展させているのです。




 今・此処、自分の立っている場を、どのように変化させてゆくことも、自由自在にできるのです。真理の言葉を駆使して、神さまの全徳の無限の無限の大光明を、必要に応じて、その場へ与えてゆけばよいのです。