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               第一章 無限の無限の幸せが一杯!

32 幸せも喜びも安らぎも、神の別名

 幸せは神の別名です。喜びは神の別名です。安らぎは神の別名です。神さまから新生してくる本心の自分は、神さまこそが幸せの本体であり、幸せの与え主であることを熟知しているのです。また神さまを忘れない限りは、幸せを見失うことも決して無いということを、十分に知り尽くしているのです。だから幸せを感じられなくなった時には、必ず神さまを探し求め、神さまを呼び、神さまの方へ振り向こうとするのです。

 それはちょうど幼子が母親に見守られて、沢山の玩具を与えられて遊んでいる状況と似ているのです。幼子にとっては、母親と一緒に居るという安心感が幸せなのです。ところが与えられた玩具で遊んでいるうちに、ふと母親の存在を忘れる時があるのです。母親の暖かい視線を感じながら遊んでいる時には、幸せ一杯の心で楽しんでいられたのに、母親の存在を感じられなくなった瞬間、無性に淋しく不安になってくるのです。そうなると遊びを捨てて、真剣に母親を探し求めるのです。そして母親の姿を認めて一安心して、また遊びに熱中してゆくものなのです。

 人(本心の自分)は、『神さまに愛されている』と感じられる時に、いつ・どこにあっても幸せで一杯なのです。ところが神さまの愛の視線が感じられなくなった時は、何をしていても幸せで無くなるのです。人にとっての幸・不幸の分かれ目は、神さまの愛が感じられているか否かという点にあるのです。どんなに楽しい人生も、神さまの愛を感じられなくなった時から、不幸への道を転がり落ちてゆくものです。だから常に常に神さまの愛を感じ続けてゆけるように、最大の努力を払わなければならないのです。それではどのような努力が必要なのでしょうか?

 それは神さまの愛を否定する、マイナスの努力を止めさえすれば良いのです。幼子が母親の目の前で、駄々をこねて泣きじゃくり、すべての不幸を一身に背負っているかのような、愚かな真似をしているのを見れば、良く判るのです。神さまの愛の護りは絶対であり、完璧なのです。神さまに愛され、生かされているのは、厳然たる真実なのです。その真実を否定するような、愚かな言辞を弄することさえしなければ良いのです。どんなに多くのマイナスの言葉を駆使して、神さまの愛を否定しようとも、神さまの愛は厳然と輝き続けているのです。ただ自分勝手に神さまの愛を、頑固に拒絶しているだけのことです。

 神さまの愛が感じられないのは、マイナスの言葉を使って、神さまの愛を否定し、神さまの愛を拒絶しているからです。マイナスの言葉を使うことに、最大の努力を払い続けている自分の愚かさに、一日も早く気付いて、その同じ努力をプラスの言葉を使うことに向ければ、直ぐに無限の無限の幸せで一杯!の自分に戻れるのです。