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               第一章 無限の無限の幸せが一杯!

宇宙の大神さまは『自由』の本体

 宇宙の大神さまは『自由』の本体です。それゆえに大神さまの分霊分身である人間も、『自由』を本質として持っているのです。だから人間は自由を縛られることを、極端に嫌うのです。ところが最初から何の縛りも無い状態では、本当の自由を発揮する場が無いのです。それでは本心の自分は、少しも喜べないのです。そこでわざわざ縛りの多い状態の中に自分を置いて、本心の無限力を発揮して、無限の種々様々な束縛を克服しようとするのです。そして大きな自由を発揮できた時、高度な自由を発揮できた時に、無情の喜びと生き甲斐を感じることができるのです。

 例えば自動車で、障害物も何も無い砂漠の中を、いくら走り回っても、少しも喜べないのです。また自動車で道路を走る時、他の自動車のことを思いやらずに走りまわれたら、さぞ自由で楽しいことだろうと言うのは、幼稚な自由の発揮です。衝突事故を起こしたら、すべての自由が奪われてしまうのです。高度な自由を発揮する為には、まず安全が確保されなければならないのです。その為には交差点では一旦停止し、譲り合って、安全を確認して、進まなければならないのです。また運転技術を磨いて、安全を確保しながら、スピードを出せるようにしなければならないのです。うなぎが障害物の多い所を楽しむように、人間はそれ以上に、障害物に戯れて、より高度な自由を発揮し、より大きな自由を味わうことができるのです。

 真実の自由には、常に適当な限定が付きまとうのです。全体の調和とみんなの幸せを守る為に、愛の心で、自らの自由に限定を加えるのは、本心の真実の自由の発揮です。決して命令されたり、強制されたりしての、自由の限定ではないからです。どのような小さい事柄であっても、命令されたり、強制されたりしてするのであれば、そこには本心の自由が無いので、喜びは湧き上がってこないのです。人間は常に本心の自由を¥発揮してこそ、喜びを感じることができるのです。命令や強制は、人間を奴隷状態に置こうとするものです。

 本心の人間は、思いやりの心で、必ずその束縛を、“無”にまで粉砕しようとするものです。命令される前に、強制される前に、それ以上の仕事を果たそうとするものです。憲法を守れ、法律を守れ、伝統を守れ、家風を守れ等々と命令したり、強制するのは、本心の人間に対しては大変失礼なことです。本心の人間は、みんなの幸せに必要ならば、自らの自由意志でそれらのすべてを守るものです。また不要なものは捨てたり、改めたりして、古いものに縛られることはないのです。大所高所から、みんなの幸せの為に、全体の調和の為に、自らの自由意志によって、愛の心で奉仕しようとするのです。そこにこそ高度な大きな自由の発揮があるのです