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       恩返しの心で神さまに仕え奉る

 神さまはいつも無限の無限の幸せをみんな一人一人に与えようと一生懸命よね。天から滝のように幸せが、光が降り注いでるのね。ところが、それに背を向けた途端に、自分には何も無いのね、幸せでもなんでもなくなるでしょう。その途端に我が出てくる、傲慢になってくる、卑下慢になってくるのね。
 でも、神さまから「無限の無限の輝きが一杯!」という幸せをいっぱい受けたときは、もうそのまま圧倒されるような感じで謙虚になるしかないの。そしたら喜んで一番下へ降りられるのね。
 ちょうど、夏の暑いときは暑さでいっぱいでしょう。そしたら冷蔵庫に入れるでしょう、喜んで。どんな寒いところへもスッと入れるよね。でも、冬の寒いときは冷蔵庫へよう入らんでしょう。だから、神さまから「無限の無限の幸せが一杯!」と受けた人は、地獄のどん底へ喜んで降りられるのね。
 「謙虚」というのは、神さまから幸せをいっぱい受けた人が謙虚になれるね。だから、感謝を深くして、「無限の無限の幸せが一杯!」というふうに受けた人が一番謙虚になりやすいね、なれるのね。そうすると恩返しの心を起こせるのね。

 恩返しの心を起こすということは、一番大事ね。神さまは一人一人に合わせて助け続けてくれてるよね。幼いときは赤ん坊をあやすように赤ん坊に合わせて助け続けるのね。一生懸命に自分に合わせて助けてくれるよね。ところが、段々と成長するにつれて、今度は人間のほうが我を出すのよね。わがままを言うのね。そこが問題なんよね。図に乗ってわがままを言い出すと、神さまを召使のように扱うようになるね。そうすると、それは間違った生き方だよというふうに「無礼千万也」というわけよね。
 恩を受けたのだったら恩返しの心を先ず起こさないといけないね。そして、自分のほうから神さまに合わせていくのね、今度はね。この切り替えの時期が無いと駄目なのね。「受けた恩を返そう」という恩返しの心を起こして、神さまへの奉仕に生きる。これが神さまへ戻っていく正しい生き方よね。
 「奉仕」は「仕え奉る」でしょう。本当は「神さまに仕え奉る」というのが根本の奉仕なんですけどね。神さまの手足として神さまに動かせてもらうというのが根本の奉仕ですよね、本物の奉仕はね。「神さまのお手伝い」というのが本当なんですけど、段階がやっぱり無限にありますね。本当の奉仕になるまでに、先ず「練習の奉仕」ってあるんですね。
 神さまの心を汲み取って、必要なことをスッとできる人、これは本物の奉仕者ですよね。

 神さまは言葉で言ってこないでしょう、何を願って何を必要としてるかというのを、神さまは言ってこないから、これを汲み取るのが一番難しいですね。
 みんなを幸せにするために、例えば、この世を平和にするために、神さまが願って必要としていることがありますよね。「一番大事なこと、一番必要なことは何か」って、神さまの心を汲み取らないといけないね。そして必要なことを、自分が全責任を持って自発的に自主的にしていくという、させていただくという、これが本物の奉仕なんですね。

 ここへ行ったら誰からも縛られないですよね。自分が自由にさせてもらってるだけでしょう。そこには自由がある、縛られてないということで喜びが湧き上がるのね。そして、神さまの心を汲み取って奉仕した分だけ、その分だけまた神さまから力を添えてもらった姿で喜べるのね。

 本当は神さまにぜんぶさせてもらってるのよね、自分がしているんじゃないですね、神さまから全てを必要なものを与えてもらってさせてもらってるのね、奉仕ってね。神さまが働かなかったら一瞬も生きておれないでしょう、手足も動かないね。
 ぜんぶ神さまが自分を通して力を添えてくるから、どんな奉仕も神さまにさせてもらってる奉仕よね。神さまの御心を汲んで神さまのお手伝いに生きたいという時に、神さまが自分を通して働くんですね。その時に必要な働きをさせてもらって、喜びが湧き上がって、神さまのお役に立つのね。これが本当のプラスの奉仕ね。

 でも、今度は人が、「これが神さまの御心なんだ」と、いろんな言い方をしますよね、「神さまはこれを必要として願っているんだ」ってね。
 神さまが直接じゃないから偽物かも知れないですよ、間違ってるかも知れないよ。でも、人の言うのを聞いて、もし「これが正しいのかな」と思う人は、その人と大体心の状態が同じなのね。自分が本当は心に感じ取って動いた方がいいけど、人の言葉を参考に、その言葉を元に動こうとするのね。自分の心の状態に合った人の言葉を受け入れるのね。
 十人の人がいて、その十人が違うことを言ったら、やっぱり誰か一人を選びますよね。それは自分が納得する人の言葉を選ぶのよ、やっぱりね。
 常に、本当はみんな自由に動いているはずなんです。ここで人のせいにしたら駄目なのね。「その人のために動いてる」というと、間違うんです。

 奉仕の目的は、自分の過去のマイナスを、古いものをぜんぶ神さまに預けるために、消してもらうためにさせてもらうのが、先ず第一ね。そしてマイナスを消してもらって空っぽの自分になった時に、初めて神さまからプラスが降ろされてくるでしょう。そしてプラスいっぱいの姿に変えてもらって、いいことをいっぱいさせてもらうのね。

 本物の奉仕になるまでに、先ず自分のマイナスを神さまに背負ってもらって消してもらわないとね。そういう意味で、人に言われた時でも、やっぱり「神さまのために」というふうに心の向きを神さまに向けて「神さまのために自分の全てを捧げます」という感じで奉仕に入ると、その時に神さまがそれを引き受けて消してくださるのね。そうすると自分の心が自由に軽くなる、そこへまた神さまが降りて働きやすくなって、プラスがいっぱいになるでしょう。
 人の言うことを参考にはしてもいいけど、人の言いなりになって動くと人の奴隷よね。これは偽物になってくるね。だから、常に自分が自発的に自分のほうから責任を持って動くの。それも「神さまのお手伝い、神さまのために」という気持ちで動くのよ。そしたら必ず神さまの助けが大きく降りてくるんですね。自由を縛られずに、マイナスも消してもらい、プラスもいっぱい与えてもらって、そして喜びが湧き上がってくる。
 人の言葉を相手にせずに、神さまの心を汲み取って動ける人が本物なのね。
 人の言葉を参考にして動くのでも、やっぱり自分が自主的に、自らが自由に動けるときが本物なのね。
 段階は無限にあっていいんですよね。奉仕の練習も必要なの、最初はね。本物の奉仕になるまでにいろんな段階の奉仕の練習って大事なんでね、それも順番にこなしながら、でも早く本物の奉仕に近づいたほうがいいよね。神さまの助けを大きく受けて、本当のお役に立てるほうがいいのね。
 やっぱり無駄な努力は必要ないもんね、早く早くいいものをいっぱいにするほうがいいのね。