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「輝く身」と「鏡」

 ここでは「輝く身」と「鏡」という二面性を持っている立場でちょっと説明します。「何故こうなるか」なんですけどね。
 神さまは人の自由を絶対縛らないです。神さま自身が「自由が最高の幸せ」と感じておられるので、一人一人に完全な自由を保障したいんですね。だから絶対自由を縛ってこないですね。
 神さまの御心に沿って「神さまの御心のままに」という時は、いくらでも後ろについて応援できるけど、「自分の思い通りに生きたい」という時は、神さまは手出しができないですね。ちょっとズレるんです「神さまの御心」と「人の思い通り」がね。

 このいい例え話が、須佐之男命が暴れまくった時は、天照大御神さまが岩戸隠れするでしょう。須佐之男命が「思い通りに生きよう」という一つの生き方の一つの姿として現わされてますね。いろんな意味合いがたくさんあるんですけど、それも一つの意味合いとして表現されてますね。人が自分の思い通りに生きたい時は、本当の神さまは干渉してこないで、スッと放れてしまうのね。
 もし神さまが現われたら思い通りに生きられないんです、思いは全部消されてしまうでしょう。なんぼ思い通りに生きようと思っても生きられない。
 思い通りに生きて一時的には思い通りになる時もありますけど、思い通りに生きた時は、必ず人を自分の思い通りにして、人の自由を縛ってますから、必ずその反動が来るんですね。今度は自分が人に縛られて、人の思い通りにならないといけないんです。そうすると思い通りになった何十倍何百倍って縛りがきて、七難八苦の苦しみが現実に出てくるような姿をとりますね。一時的には思い通りに生きても、これは幸せじゃない、本当はね。それを神さまは早く気づかせたいというのがあるんですね。

 「環境は心を写す鏡」の「鏡」という言葉は、いろんな意味にとらえられますけど、鏡も種類が沢山ありますね。現実の鏡もそうですけど、心を写す鏡にもいろいろな鏡があるんです。暗いほうを見る時に「鏡」という働きがよく出てくるのね。太陽を見るように明るい方を見ると、写らないですね、輝きだけがある。神さまが「輝き」という姿と「鏡」という姿の両方をとるんです。神社によく鏡が御神体というふうに入れられているのはそういう意味なんです。二通りの意味があるんですね。
 これは人が鏡をどういうふうにとらえるかです。光源としての輝きという鏡は、無限に無限に輝いた姿をとりますね。自分の心を写す闇の方へ向いた時の鏡は、自分の心の状態を反射します。だから、心の向きによって、輝きの鏡、写すほうの鏡、どちらでも受け取れるのね。もともと神さまは、無限の無限の輝きが一杯!という姿で、それをずっと与え続けてくださるんですけど、どういうふうに受けるかですね。光源のほうへ心を向けるか、末端のほうへ心を向けるか。これは人の自由意志で定めていくんです。たまには闇のほうへ心を向けて、いろんな段階の表現をも楽しみたいというのがあるのね。