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 心に業想念(想念感情)を一杯溜め込んでは、本心(幸せな心)は輝き出て来ないのです。幸せになる為には、心に溜まった業想念(ゴミ)を、消し去ることが大事なのです。業想念の浄めとゴミの焼却とは、共通点が多いのです。両者を対比させて考えると、良く判るのです。

 ゴミを全部溜め込んだらどうなるかは、誰にも判る明白なことです。家中ゴミの山になったら、生活できなくなるのです。これと同じで、心に業想念が一杯になれば、七難八苦で一杯の状態になるのです。家の掃除とゴミの焼却が必要なように、心の清掃浄化は絶対に必要なのです。

 毎日毎日、家の掃除とゴミの焼却をすれば、ゴミは溜まらないのです。毎日毎日、業想念を消し去って、本心の心を磨き出せば、業想念は溜まらないのです。ところが日々の心の磨きを忘れると、掃除を一切しなくなったのと同じで、業想念(ゴミ)は溜まりに溜まるのです。そうなると益々、心の磨き(掃除)が億劫になるのです。

 心に溜まった業想念は、神さまに引き取ってもらった時に、本当に消え去るのです。喜んで喜んで、神さまへの奉仕に生きれば、どんどん業想念を引き取って、消し去ってくださるのです、人への奉仕は、自分の業想念を、相手に背負ってもらうことなのです。反対に他から奉仕されるということは、他の業想念を、自分が背負うことなのです。

 心に業想念が残っている間は、人への奉仕は、自分の業想念を相手に背負わせる、マイナスの行為なのです。先ず自分の業想念を、神さまへの奉仕によって、消し去ってもらうことが大事なのです。そうすれば人への奉仕も、幸せを与えるプラスの行為になって来るのです。神さまへの奉仕を忘れたら、折角の善意の働きも、マイナスになるのです。

 求める心を生きる人は、他の業想念を沢山背負うことになって、心の苦しみは大きくなるのです。与える心を生きる人は、自分の業想念を他に背負ってもらえて、心の苦しみは軽くなるのです。助けられて喜ぶ生き方から、助けて喜ぶ生き方に変化しなければ、心の苦しみは絶えないものです。

 溜まりに溜まったゴミの山を、自分で焼却するのは、大変なのです。無限の業想念を、自分の中で消し去ろうとすれば、七難八苦の苦しみを味わうことになるのです。救済の神々(集塵車)に預けて、絶対神の御心(焼却炉)の中で、消し去ってもらうことが、一番楽な方法なのです。喜んで喜んで、感謝一筋に、神さまへの絶対奉仕に生きれば、自他共に持つ無限の業想念を、短期間に消し去ってもらえるのです。神さまを無視した生き方では、業想念が消えないので、どんな生き方も回り道(遠回り)になるのです。