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 真実の自己を自覚するとき、人はすでに無限の幸福を手中に収めていることに気付くのである。本当の自分に戻るためには、想念感情という業の心から、本当の心である本心へと自分の心を移すことが必要不可欠なことである。部分にとらわれた心から全体を把握する心へと移してゆくことが、即ち全体を、眺めながら部分の立場に立てる心になることが大切なのである。

 例えば、人間の身体を一つの生命体、調和した全体というように考えてみると、身体の各部分は各々個性があり、異なった役割があり、常に全体と一つに融合一体化して生かし合い、助け合い、補い合っていて、どの部分も全体にとっては無くてはならない大切なものばかりである。これを身体全体の自覚をもって眺めるとき、身体のどの部分の立場に立っても、その部分は常に全体によって生かされ、助けられているのがよく理解できるので、そこには全体への感謝の心だけがあり、恩返しとして全体に奉仕することが生きがいであり、喜びであり、幸せそのものであることがよくわかるのである。ところが、全体の自覚を忘れて部分にとらわれたとき、例えばお尻の穴が自分も口と同じように穴があるから美味しいものを食べてみたいといって食べたとしたら、身体は一体どういうことになるだろうか? 全体としての調和が破れ、身体は死んでしまうにちがいない。全体の自覚が無いと、各部分は個性を失い、役割を失い支離滅裂な状態になってしまうのである。

 想念感情という業の心は、部分にとらわれた小さな心であるから、その心を自分であると思い違えると、必ず破滅への道を歩むことになる。だから決して業の心を自分であると錯覚してはならないのである。いついかなるときにも、本心こそが本当の自分であると思い返して、全体を把握する大きい心に戻ることが大切なのである。

 本心とは、太陽のように明るく朗らかで、平等にすべてを愛し、夢と希望と幸せを与える心である。本心とは、水のように自らを相手に合わせて自由自在に変化させて、すべてに生命と潤いを与える心である。本心とは、空気のように自らの存在を主張することなく、謙虚にすべてを生かす心である。本心とは、大地のように踏まれても踏まれても謙虚に下座につき、すべてを支えて奉仕する心である。本心とは、海のように清濁合わせ呑み、すべてを浄化するおおらかな心である。

 本心とは、常に直観的に今の一瞬に、すべての存在に 愛を 美を 善を 光を 知恵を 生命を 素晴らしさを一元的に感じ取る感謝一筋の心である。