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       業想念、虚栄心と執着心を捨て去る

 捨て去り・消し切らなければならない自我の心とは、すべての執着心と虚栄心です。求める心と思い通りにしたい心です。過去を掴む心と部分を掴む心です。私物化する心と自己弁解の心です。自我の心を少なくすればするほどに、本心の心は復活し、その輝きを増すのです。本心の心は、過去にも部分にも執着すること無く、今を新たに生きる心です。謙虚な心・素直な心・明るい心・愛の心・感謝の心・賛嘆の心・喜びの心・奉仕の心・与え尽くす心・・・・・です。神ながらに生かされている心です。

 「虚栄心」と「執着心」を捨て去ることが、本心の自分に戻ることなのです。虚栄心と執着心を掴んでいる限りは、業想念の奴隷であって、本心の自分を見失うことになるのです。虚栄心と執着心で築き上げた一切のものは「砂上の楼閣」であって、必ず大音響を立てて(大きな苦しみを伴って)、崩れ去るものです。

 虚栄心の業想念を消し去ることが、一番難しいのです。自分自身が気付かなければ、消し去ろうともしないし、逆に増長させて、業想念を積み重ねることになるのです。本当の栄えとは、本心の自分を輝かせることです。一切の業想念を消し切って、本心の自分を無限に無限に輝かせることです。それ以外は、虚の栄えを喜ぶ、虚栄心の業想念なのです。本心の自分を無限に無限に輝かせる為には、新たなる今の一瞬を、無限の無限の感謝一筋に生き切ることです。過去の残像に囚われないで、神さまの新たなる全徳の無限の無限の輝きを、しっかりと感受し続けることです。

 自分を出したい・認められたい・褒められたい、自分の名を・働きを・足跡を・業績を残したい、等々の願いは、虚栄心から来るものです。何事にも本当に必要最低限のもので満足できなければ、深い感謝が無ければ、一寸した贅沢な生き方をするだけで、虚栄心の奴隷に陥るのです。他と比較して、今の自分がどんなに素晴らしくても、それを自慢したい心では、本心の自分を見失うことになるのです。一瞬でも感謝を忘れ、本心の自分を見失った時は、虚栄心という業想念の奴隷なのです。必ず儚い・虚しい心に陥って、本当の心の安らぎを失ってしまうのです。

 神さまの所有(もの)を自分の所有(もの)と主張するのは、大きな虚栄心です。神さまの働きを自分の働きのように主張するのは、大きな虚栄心です。他の所有(もの)を・他の働きを、自分の所有(もの)・自分の働きのように主張するのは、大きな虚栄心です。虎の威を借る狐のような生き方は、二重三重の虚栄心の奴隷に陥っているのです。虚栄心の奴隷に陥っている時は、大きく業想念を積み重ねているのです。

 神さまが自分を通して、必要な物を他に与えているのに、自分が与えているのだと言えば、大きく業想念(借り)を積み重ねているのです。謙虚に感謝して、神さまの手足(パイプ役)になっていれば、大きな神さまの助けを受けることができたのに、二重の大損をしていることになるのです。更に自分以外の人がしていることなのに、自分がしているかのように恩きせがましく言えば、三重の大損をしているのです。自我の虚栄心の主張は、どこまでもどこまでも業想念(借り・マイナス)を積み重ねるのです。一寸でも虚栄心が顔を出したら、徹底的に叩き潰し、消し去らなければならないのです。

 虚栄心と執着心を捨て去る為には、次のような生き方を活用することです。 
(1)業想念の自壊作用からくる苦難の体験によって、虚栄心と執着心への未練を断ち切る。
(2)自ら進んで、清貧に甘んじ、苦行を課せて、虚栄心と執着心を心から消し去ってゆく。
(3)真理を学ぶことによって、虚栄心と執着心を掴む愚かさに気付いて、捨て去る。
(4)真理を学び、本心の心を掴むことによって、自然に虚栄心と執着心の掴みを放す。
(5)本心の心で神さまへの感謝を積み重ねて、無限の無限の大光明を浴びることにより、虚栄心と執着心の業想念の心を全て消し去ってもらう。

 現実の自分の未熟さ・至らなさにも気付かないのが、高慢な心・無知なる心・業想念の心です。現実の自分の未熟さ・至らなさに気付いていても、それにしがみついて、神さま(天の自分・守護神・守護霊)の助けを受けようとしないのが、卑下慢の心・後ろ向きの心・マイナス思考の心・業想念の心です。どちらも業想念の心の奴隷であって、業想念の心に負けているのです。業想念の心に負けない自分・本心の心の自分というものは、他からどんなに褒められようとも、決して有頂天になることは無いのです。現実の自分の未熟さ・至らなさをひしひしと感じて、謙虚に謙虚に、どこまでも謙虚になるのです。そして神さまの助けを受けて立派になろうと、真剣に精進努力し続けるものです。本心の心が輝けば輝くほど、理想と現実の違いが大きく感じられるのです。本物を知る者のみが、本物と偽物の区別ができるのです。偽物しか知らない者は、偽物を本物と思い込もうとするものなのです。

 虚栄心をくすぐられて喜んでいるのは、業想念の心です。謙虚な本心の心は、どんなに褒められても、決して現実の自分を褒められたのだとは思わないものです。どんな褒め言葉も、理想を現実化する為の種蒔きの言葉であると、謙虚に謙虚に受け止めて、その種をしっかりと育て上げようとするものです。自分の心という畑にしっかりと蒔いて、大事に大事に育て上げるものです。褒められたことを自慢げに他人に言い触らすのは、自分の心に蒔かれた種をほじくり返して、棄てたことになるのです。

 他からどんなに貶されても、他からどんなに悪く思われても、感謝し・喜んでいたら、自分の心の中のマイナスの種を、どんどんほじくり出して消し去ってもらえるのです。本心の心の自分は、他から貶されるほど大きく喜び、他から褒められるほど謙虚に反省するのです。同じ本心の心の自分であっても、天の自分と地の自分とは役割が異なるのです。天の自分は、新たな全徳の無限の無限の輝きとなって、大きく広く与え尽くす役割です。地の自分は、謙虚に謙虚に、どこまでも謙虚になって、感謝を無限に無限に深めて、天の自分の助けを受け入れる役割です。天の自分の与えて来るものを、地の自分が受けることによって、理想が現実化されるのです。真の感謝は、天の自分と地の自分の働きを同時に行うものであり、天の自分と地の自分を一つに繋ぐものなのです。