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     謙虚に!素直に!

 本心の心の立場に立つことは、謙虚に謙虚になることです。これが自分だという過去の姿を掴んでいては、決して謙虚になれないのです。過去の善き姿を掴むだけで、高慢になったり、エリート意識に陥ったりするものです。また過去の悪しき姿を掴むだけで、卑下慢になったり投げやりな自暴自棄の状態に陥り易いものです。謙虚になるということは、マイナスを掴んで、心をマイナスで一杯にするということではないのです。マイナス無限大の立場に立って、心を空っぽにして、神さまの全徳の無限の無限の輝きの全てを、素直に感受できる自分になることです。

 謙虚になる為には先ず、自分のすべては、神さまから与えられたものばかり、ということに気付くことです。傲慢さ(高慢と卑下慢)は、神さまの恩愛を無視し・拒絶するところから生ずるのです。すべてをプラスに、感謝一筋に受けてゆこうとすれば、謙虚に成れるのです。
 素直になる為には先ず、自我の心(過去に積み重ねた業想念の心)を捨て去ることです。過去の体験・経験に立脚して、自我の心を生きようとしていては、決して素直には成れないのです。過去の一切を、神さまにお返しすれば、自我の心を消し去ってもらえて、素直になれるのです。すべてを神さまから、一瞬一瞬新たに、受け直すことが、本当の素直な生き方です。

 マイナスに見える自他のどんな姿に対しても、みんな自分の責任なのだと、心からお詫びすることによって、下へ下へと自分の心の立場を移してゆくことができます。心の立場を下へ移せば移すほど、謙虚になれて、神さまの最高表現を感受し易くなるのです。自己弁解したり、他に責任を帰するようでは、いつまでたっても、謙虚な本心の自分には戻れないのです。

 神さまの本当の助けを受けてこそ、祈りの姿勢も心身共に整うのです。神さまが自分の中に入り来れば、青空に太陽の輝くような心となり、姿勢も威儀端然としてくるのです。先ずは謙虚に謙虚になることを心掛け、他をマイナスに見て責め裁く、業想念の心を捨て切ることです。『神さまをマイナスに見て御免なさい』と、心の底から詫びて詫びて詫び続けることです。その謙虚な心の中へ、神さまは入り来るのです。

 真実の祈り・真実の感謝とは、暗黒の極・マイナスの極・地獄のどん底に立って、一瞬一瞬新たに、『天照大御神 今・ここに 在します』と、全徳の無限の無限の輝きを、心にしっかりと受け入れることです。宇宙絶対神が与え続けて下さっている、全徳の無限の無限の輝きは、本心の自分をしっかりと自覚して、謙虚に感謝を捧げてこそ、心に感受できるものなのです。全大宇宙のすべてのすべては、善くなるように・良くなるように・好くなるように・よくなるようにと、一瞬一瞬変化し続けているのです。これは厳然たる真実です。ところがそのように感受できるのは、本心の感謝の心だけなのです。本心の心をしっかりと呼び起こして、謙虚に感謝し続けてこそ、一切はプラスにプラスに好転してゆくのです。

 謙虚に感謝する本心の心であれば、どんなに辛い境遇に置かれても、その置かれた境遇の中で、さらに感謝を深めてゆこうとするものです。この一生が七難八苦の連続であっても、喜んで喜んで、その苦痛に耐え抜かなければならないものなのです。救われるのは、幸せになるのは、この本心の自分であって、業想念の心の自分では無いのです。

 本当の謙虚さとは、マイナス無限大の・地獄のどん底の・これより下は無いという立場に、先ず自分を置くことから始まるのです。自分自身のこれまでの生き方が、本当に正しいものであったかどうかを、厳正に見極める必要があるのです。人間としての自分が、勝手に正しいと思い込んでいても、神さまの目から見た時に、本当に正しいかどうかは、疑わしいものです。例えば、宇宙のすべては神さまの所有(もの)なのに、人間が勝手に自分の所有を持っているということは、人間は神さまの所有(もの)を盗み取った大泥棒ということです。また人間が贅沢な生活を楽しんでいるということは、自然を破壊し、動植物を殺し、残虐非道な殺戮を犯しているということです。本当の正しさは、神さまの御心に叶っていなければならないのです。そういう観点から判断するだけでも、本当に正しい生き方をしている人間は、皆無に近いと言わなければならないのです。

 神さまの助けを受けて、地球人類の滅亡を防いでいただく為には、地球人類はもっともっと真剣に、謙虚に感謝を深めてゆかなければならないのです。地球人類が心の中に作り上げた地球人類滅亡の運命は、そのシナリオ通りに現れたら、想像を絶する大惨事となるのです。感謝の無い人間の運命を修正するのは、神さまにとっても至難の業です。運命として当然受けなければならない地獄の責め苦を、億分の一以下に軽減してもらっても、この一生は七難八苦の大難の連続になるのです。神さまの無限の無限の守りに対して、涙を流して・感謝し・喜ばなければ、神さまの御心に叶った謙虚な感謝にはならないのです。

 神さまからのプレゼントを沢山受けるには、素直な心が大事です。余計な遠慮は無用です。素直に成れば成るほど、神さまからのプレゼントは、沢山受けられるのです。無限の無限のプラスが、無限に無限に一杯! ハイ! ありがとうございますと受ければ良いのです。一瞬一瞬新たに新たに、ありがとうございます! ありがとうございます! と受け続ける練習です。

 世の中の多くの人々は自分の力で生きようとしています。自分の力で善を積み重ねて神に近付こうとしているのです。善いことをしなければ神に救ってもらえないと考えているのです。しかしこの考え方は間違いです。なぜならば人間は本来「神に生かされている」のです。神の力によって何事も「させていただいている」のです。神の助けが無ければ人間は全く無力です! 神を離れた人間に一体どんな力があり、どんな善いことができるというのでしょうか?

 神の救いには善人悪人の差別は無いのです!
素直に神の愛を信じて受け入れるものが救われるのです。悪を責め裁く心は神の愛を拒絶する心です。善を為さなければ救われないという考えは、神の愛を疑う心です。神を離れた人間にはどんな小さな善も、どんな小さな正しいこともできないのです。神の愛の輝き出ている時のみが善であり、正しいことだからです。

 謙虚と素直は、神さまの愛を喜んで受け入れる心です。素直とは、自然に与えられるすべてのものを、プラスに感受して、無限に無限に喜ぶことです。謙虚であれ! 素直であれ! ということは、常に本心の自分であれ! 本心の自分をしっかりと生きよ! という意味です。真実の無限の無限の幸せを感受できるのは、本心の自分だけです。本心の自分は常に謙虚で、素直です。本心の自分は、神さまの愛の光を受けることによって、より大きく輝くのです。現実の自分はまだ小さい本心であっても、その本心の自分をしっかりと生きなければならないのです。本心の立場に立つことによって、神さまの愛の光を大きく受け入れることができるからです。そしてより大きな本心となって、本心の立場に立ち易くなり、本心の自分を生き易くなるのです。本心の自分を生きることによって、本心の自覚が更に深まってゆくのです。 

 自分自身の怠慢の結果を、他人の所為にして、責任逃れをしていてはいけないのです。マイナスの極まで降りる努力をすれば、謙虚に謙虚に成れるのです。そうすればすべてを大きなプラスに感受できるのです。感謝と報恩の心をしっかりと生きれば、すべてはプラスにプラスに置き変わって来るのです。どんなマイナスをもプラスに置き換え、神さまの最高表現を現実かしてゆくことが、本心の自分をしっかりと生きているかどうかの、バロメーターです。本心の自分を生きるかどうかは、自分自身の問題です。他人に言われても、他人に強制されても、自分自身が本心の自分を生きようとしなければ、決して生きることはできないのです。自分自身が本心の自分を生きようとさえすれば、何ものも邪魔することは不可能です。

 高い番組に生きる人は、低い番組に合わすのは容易です。低い番組に生きる人は、高い番組に合わすのは困難です。救済の神々の助けは、高い番組から低い番組へと、波を合わせて降りて来るのです。わざわざ高い世界から低い世界に、救済の為に降りて来るのは、愛深いからです。しかしながら謙虚な心・素直な心・真剣な心・感謝の心・恩返しの心を前面に押し出さなければ、救ってもらえないのです。傲慢な心・頑固な心・怠け心・不足の心・求める心では、救済の神々の心とは波長が合わないからです。