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     本心の自分を生きる

 本当の自分は、神さまなのです。魂や肉体の自分を、本当の自分と錯覚するところに、根本の間違いが有るのです。魂の自分を生きるだけでは、過去世の重荷を背負い、七難八苦に見舞われるのです。肉体の自分を生きるだけでは、五欲の満足を優先させて、大きく業想念(マイナス)を積み重ねるだけです。
 本物を封印するのは、偽物を掴むからです。偽物を自分であると掴むことによって、本物を奥に封印してしまったのです。過去世から積み重ねて来た、無限の業想念(マイナスの言葉・思い)が、神さまである本当の自分を、しっかりと封印しているのです。この封印を解く為には、過去世に積み重ねた無限の業想念を、消し去ることが必要です。

 七難八苦(業想念)を背負っているということは、恥ずかしいことです。何故ならそれは、神さまへの感謝と恩返しを、忘れ・怠った結果だからです。また何時までも七難八苦(業想念)を背負っていたら、それは神さまへの感謝と恩返しに、いのちがけで生きようとしていない、ということを証明しているのです。いのちがけで感謝を深めたら、無限の無限の浄めの光を浴びて、浮かび出た業想念を、瞬時に消し去ってもらえるからです。いのちがけで恩返しに生きたら、背負っている七難八苦(業想念)を、引き受けて・消し去って下さるからです。

 神さまの浄め・癒しの媒介(パイプ役)になる為には、先ず自分の心を完全に浄め尽くさなければならないのです。そして感謝を深めて、神さまの全徳の無限の無限の輝きを、いつも実感できるようにならなければならないのです。そうでなければ他人の業想念(七難八苦)を振り替えて、消し去ることは不可能です。他人の業想念を被るということは、自分の過去世の借金の取り立てに会っただけです。業想念の波を感じるというのは、自分の心の中に、同じ業想念の波が存在するということなのです。真の振り替えの業(わざ)は、悟りを開いて、神さまだけを実感できるようになった時に、始めて可能なのです。

 高慢な心になって、他人の業想念を背負っているのだと、いい気になっていたら、大変な目に会うのです。自分の無限の業想念の上に、更に他人の業想念まで背負ったら、地獄への道を加速することになるのです。お祈りの場・奉仕の場に近づくことも邪魔されて、貴重な救われのチャンスを失ってしまうのです。謙虚に謙虚になって、いのちがけで神さまに縋(すが)らなければ、自分の業想念を少なくすることも不可能なのです。

 七難八苦(業想念)を背負うだけでは、何の役にも立たないのです。苦を背負ったままで良いから、神さまの中へ飛び込まなければならないのです。神さまの中へ飛び込むというのは、いのちがけで感謝のお祈りをし、いのちがけで全力を尽くして奉仕することです。苦を背負って働くことが、苦労です。働くことで、本心が輝き、苦は楽に変ずるのです。苦労が大きければ大きいほど、早く大きな楽を手にすることができるのです。

 今、運命として現れているのは、過去において自分の心に思ったものが、時間の経過と共に出てきているものです。今から心に思うことは、未来において必ず形に現れて出てくるのです。これは法則です。病気になっても健康を思い、貧乏になっても豊かさを思い、悪を見ても善を思い、戦争になっても平和を思えるような達人は別にして、大部分の人は自分の心をまだ自由に支配することができないでいるのです。見たり聞いたりしたことをそのまま心に思ってしまうようでは、例えば一度病気にかかったら、病気を思い続けることになって、決して病気が治らないということになってしまいます。万事がそのとおりだとすれば、またたく間に地獄という最悪の運命に落ち込むのは当然すぎるほど当然なのです。

 ところが守護の神霊の加護によって、運命は大きく修正され、大難は小難に、小難は無難にと変化し、地獄の苦しみを味わうのが当然なのに軽く軽く済ませてもらっているのです。この事実に気付くならば、涙を流して守護の神霊に感謝しなければならないのは言うまでもないことです。自己の不運を嘆く暇があったら、守護の神霊がその地獄の苦しみを肩代わりして消し続けてくれている涙ぐましい努力に少しでも感謝を深めてゆくべきです。そして自分の心を立派に磨くために、真剣な努力を積み重ねて行かなければならないのです。

 勘違いばかりをしていては、正しい道を歩めないのです。本心の心であれば、神さまの御心を正しく受けられても、業想念の心では、逆の間違った受け方をしてしまうのです。一寸油断すると、直ぐに業想念の心の奴隷状態に陥るのです。常に本心の心をしっかりと生きていないと、正しいと思っていても、間違った道を歩んでいることになるのです。

 今の一瞬一瞬に、神さまの御心を思い返し、『すべて御心のままに!』と自分の身も心も生命も神さまに任せ、神さまの御心ならば、どんな厭なこと辛いこと不可能なことでも素直にハイ!と受け入れて付き従ってゆくことが大事です。神さまと一つに融け合う生命の歓喜は、偽我を抹殺し神さまの働きに使ってもらえるようになってこそ沸き上がってくるのです。

 偽我はつかみさえしなければ自然に消えてゆくのです。偽我は相手にしなければ勝手に消えてゆくのです。神さまをしっかりつかみ、神さまの御心をいつも相手にして歩むようにすればよいのです。常に常に神さまの御心を思い返す練習が必要です。「神さまは何を願っているか? 神さまならどのように行動なさるか?」と一旦神さまの立場に自分を置いてみて、そこからすべてを出発させることが大切なのです。今の一瞬一瞬に「神さま ありがとうございます」と祈り続けて、無我の心に神さまの御心を直感して、素直に行動を起こしてゆくことです。すなわち それが神さまの御心を現す道です。 

 本心の心と業想念の心とでは、受け取り方が全く正反対です。本心の心の立場から見ると、神さまへの奉仕は、一瞬一瞬、神さまから与えられたすべてへの感謝です。神さまの御用に使っていただけたことに対する、感謝と喜びです。だからこそ更に多大に、神さまの御用に使っていただけるようになるのです。自我の誇りや願いの微塵もないのが、本心の心による、一瞬一瞬新たなる、神さまへの奉仕です。業想念の心(自我の心)でする奉仕には、自分はこれだけのことをしたのだという自我誇りと、お返しを求める我欲が付き物です。自我誇りも我欲も、神さまの御心とは波長が合わないので、自我の心でする奉仕では、神さまの助けを受けることはできないのです。

 「人に迷惑をかけない。自分のことは自分でする。余った力で人の手助けをする。」、「報恩感謝の心で恩返しする。生活の自立を計る。他の生活を支え育てる。」、これらは人としての当然の責務です。その為には粉骨砕身・一所懸命・献身的に働かなければならないのです。そうすることで利己的な自我が消え、愛他的な本心の心が目覚めてくるのです。自己中心的な考えを捨て、自分の幸せは後回しにして、周囲の人の幸せの為に、自分を犠牲にして働くことは、本心の自分に戻る為の第一歩です。業想念の自分勝手な願いを捨て切って、他の幸せの為に自分のすべてを捧げ尽くし・与え尽くしてこそ、本心の自分に戻り易くなるのです。本心の立場に戻りさえすれば、自分の幸せに必要なものは既に豊かに与えられていることに気付くのです。業想念の心であれこれ考える暇を作らないようにする為にも、他の幸せの為に一所懸命に働くことが大切です。

 このような自分を捨て切った生活の上に立ってこそ、真実の祈りの生活は築かれてゆくのです。真実の祈りは、自分のいのちを、自分のすべてを、神さまに捧げ尽くすことです。自分のこの世のいのちが今の一瞬でお終いになるかもしれないのです。この命懸けの・真剣な・死ぬか生きるかの大事な時に、居眠りをしていたり、雑念に囚われている余裕など微塵も無い筈です。自分のいのちを無条件で神さまに捧げ尽くしてこそ、神さまから永遠のいのち(本心の自覚)が与え返されるのです。

 常に神さまの御心の中から出発する生き方が、本心の自由な生き方になるのです。現実の七難八苦が無くなるのを待っていても、時間の浪費です。七難八苦の所為にして、本心の自分を生きなかったら、本心の自分に戻ることは、永遠に不可能です。過去の生き方がどうであっても、現実がどんな状態であっても、それとは無関係に、常に今を新たに、本心の自分を生きることによって、運命を自在に支配できるのです。業想念の自分を弁護するのは、愚かな愚かなことなのです。

 本心の自分を生きて、自分を完全燃焼させて、真理の灯台となることが、真実に救われた自分に成ることです。本心の自分をどこかに置き忘れていては、いくら救われを捜し求めても、無駄な足掻き・徒労に終わるのです。

 真実の自己を自覚するとき、人はすでに無限の幸福を手中に収めていることに気付くのです。本当の自分に戻るには、想念感情という業の心から、本当の心である本心へと自分の心を移すことが必要不可欠です。部分にとらわれた心から全体を把握する心へと移してゆくことが、即ち全体を眺めながら部分の立場に立てる心になることが、大切なのです。

 知って犯す罪と、知らずして犯す罪と、どちらが重いか? 知らずして犯す罪の方が、はるかに重いのです。何故なら知らずして犯す罪は、歯止めが効かないからです。道理を知らないということ・無知が、一切の苦しみの根本原因であり、罪の最大のものです。本心の自分を忘れて、業想念の奴隷に陥り、守護の神霊の御心を無視して、我の心をのさばらしていては、正しい信仰の道を歩むことはできないのです。神さまを召使のように扱う御利益信仰は、間違った信仰の最たるものです。だからいつまで経っても、本当の幸せを得ることができないのです。正しい信仰とは、自分の生命をも捧げ尽くして、神さまに奉仕することです。それによって、四苦八苦する業想念の心が消し去られ、無限の無限の幸せで一杯の、本心の心に戻していただけるのです。

 (1)生命も財産も一切が、神さまからの預かりものです。みんなの幸せの為に、世界の平和の為に、生かして使うことこそが正しいのです。マイホーム主義的に・利己的に・贅沢に生きることは、癌細胞と同じような生き方になって、自壊して全体をも滅ぼす元凶となるのです。

 (2)移り変わる姿に執着することが、生命の流れを妨げることになるのです。執着心こそが、一切の罪の根本原因です。執着心の積み重なったものが、業想念・五欲の心となるのです。一瞬一瞬新たに新たに、神さまの最高表現を、感謝を深めて受け続けることを忘れ・怠ると、本心の自覚が失われ、業想念の心に陥ってしまうのです。そして神さまの与え続けて下さる折角のプレゼントを、傲慢にも知らず知らずの中に拒絶してしまって、七難八苦の状態に自分を置くことになるのです。

 (3)自分の思い通りに生きるのも、他人の思い通りに生きるのも、どちらも業想念の奴隷に陥っているのです。それでは本当の幸せを掴むことはできないのです。神さまの御心に・神さまの導きに素直に従ってこそ、真実の幸せへの道を歩むことができるのです。その為には、すべてを『神さまの御心のままに』と任せ切って、ただひたすらに、呼吸をするように、『神さま、ありがとうございます』と唱え続けることが大切です。そうすることによって神さまの導きと守りを、的確にうけることができるのです。

 (4)自分の生命を神さまに捧げ尽くしてこそ、新たなる神さまの生命が与えられ、それが永遠の生命の自覚に繋がるのです。自分の生命とは、自分の時間のことです。自分の時間を、神さまの為に捧げることが、神さまの為に使うことが、自分の生命を神さまに捧げたことになるのです。即ち神さまの喜んで下さるように、感謝と奉仕の真祈りの道をしっかりと歩むことなのです。