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 神はすべてのすべてであり、すべては神と一つのもの、神そのものである。人間が“自分”と言っているものも、決して神を離れて存在しているのではない。神から切り離されたものは何ひとつとして存在することはできないのである。神は無始無終、おのずから厳然と存在するものであり、そこから分岐して全体の一部分として存在しているのが“人間としての自分”である。神は絶対者であり、全体者であるから、神の他には何者も存在できないのである。だから人間は常に神と一体であり、神の部分であり、神と一つにつながっているものである。神という光源から放射された光が人間であり、神という全体の部分を構成するものが人間である。

 神のいのちが自分のいのちと現れ、神の心が自分の心と現れ、神の姿が自分の姿と現れているのである。その神のいのちが、心が、姿が、どの程度現れているかによって、無限の無限の色々な表現が存在しているのである。そして、その表現を支えているものは“神の力”であって、神以外の何者でもないのである。神の力はすべての力であり、すべての力は神の力である。だから神の力を離れた“自分だけの力”というものは決して存在しないのである。神の力が自分の力と現れ、神の力が自分の努力と現れ、神の力が自分の能力と現れているのである。指一本動かすのも、神の力によって動かしてもらっているのであって、決して“神を離れた自分”の力ではないのである。

 それにもかかわらず“神を離れた自分”が存在していると錯覚し、自分の力で生きているのであると思い違えている人が非常に多いのである。それは本心を忘れて、想念感情の奴隷に陥っているからである。想念感情というものは常に部分に執着し、自由を失い、全体を見失い易いものだからである。だから決して“本心”を忘れてはならないのである。本心の自分は常に全体を明るく、正しく眺めて、全体の中の部分としてすべてを見てゆくことができるのである。宇宙のすべてを神と一つのもの、神の現れ、神そのものであると認めてゆくことが“感謝”であり、その感謝を積み重ねてゆけるものが本心の自分であるのである。“本心の自分”とは常に“感謝している自分”である。本心の自分を忘れていないか、本心の自分をどれだけ輝かしているかのバロメーターは、今自分は感謝できているか、どれだけ深く感謝できているかということである。

 感謝に始まり感謝に終わる生き方こそ、本心の自分の自覚を深め、本心の自分を光輝かすものである。感謝の積み重ねこそが何よりも大切なことなのである。