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「皇親(すめみおや)神漏岐(かみろぎ)神漏美(かみろみ)の命(みこと)以(もち)て」



 皇(すめ)とは、スお(絶対)のメ(顕(あらわ)れ))の義(ぎ)で、絶対神のことです。

 神漏岐(かみろぎ)とは、宇宙創造における、霊魂・父系(ちちけい)の働きを示す言葉です。

即ち神力(しんりき)を代表する神力大租神(しんりきだいそしん)である(タカア ミムスビ ノカミ)の別名です。神漏美(かむろみ)とは、宇宙創造における、元体(もとたい)である物質・母系(ぼけい)の働きを示す言葉です。

即ち神相を代表する神相大租神(しんそうだいそしん)である(マアカ ミムスビ ノカミ)の別名(べつめい)です。 

命(みこと)以(もち)てとは、

 1、御言(みこと)即ち言(ことば)・祈り・詔(みことのり)・命令・教え・論(さと)し・導きによって、

 2、命(みこと)即ち命・天命・使命・役割・働きによって、

 3、尊(みこと)即ち尊厳な・偉大な・高貴な・権威ある・尊敬に値する姿をもって。

 宇宙のすべては、霊魂系(れいこんけい)元体系(げんたいけい)、プラス系とマイナス系というように、相対の両極)に分かれる両神の交流(組合わせ)によって生まれているのです。だから両神の意思は、宇宙のすべてに一貫(いっかん)して流れているのです。

すべてに神意現成しているのです。すべては両神の手足のように動いているのです。


△神魯岐神魯美 神魯岐は霊系の祖神にして上記のように天に属し、神魯美は体系の祖神にして上記のように地に属します。

 すなわち天地(たたあ)、陰陽(かかあ)二系の神々の義なのです。。

 ”命もちて” 命(ミコト)とは神言(かみごと⇒神のひびき)のことであり。神命つまり神さまの生命そのものであるのです。

 つまりこの世の響きに近づけて表現すれば、陰と陽の結合である火と水の結合によるところ鳴り響くの五十音を指すのです。
 元来声音(言霊)は「心の柄⇒こえ」の意味にて、心がこの世に働きかける意欲(喜び)を生ずる限り、この喜びを運用する為に声音が必要なのです。

 具体的には、心(即ち霊魂⇒生命)の活用を分類して説明すれば、奇魂(くしみたま)、荒魂(あらみたま)、和魂(にぎみたま)、幸魂(さちみたま)の四魂とこれを統括するところの一霊にまとめることができるのです。

 これが、いはゆる一霊四魂というのでありますが、この根源の働きである一霊四魂を代表する声音はアオウエイの五大父音になるのであります。

 宇宙根本である宇宙絶対統一神の造化作用は一霊四魂の運用の結果でありまから宇宙絶対統一神である天照大御神さまの御活動につれて必然的にアオウエイの五大父音が先づ全大宇宙空間に発生し響き渡り、そしてその声音(ひびき)は今日といヘども依然として虚空に充ち満ちてひびき渡っているのですが、あまりに大なる声音(ひびき)なので、あまりに微細なる声音(ひびき)と同様に、普通人間の肉耳には感じえない、聞き取ることができないのです。

 しかし中間的な響きは一瞬一瞬あらたに私たちの五官に触れ、天音開闢のひびきとしてあーおーうーえーいーに帰着してゆくのです。

 わたくしたちが”ありがとうございます”のひびきを発して瞑目合掌していわゆる鎮魂帰神すれば五官の範疇を超えて、この肉の耳に聴こゆる範囲は更に更に拡がり宇宙創造の響きを聞くことができるのです。これが天地開闢の音を聞けということになるのです。


 声音は心の柄のことであり、違う表現をすれば言の波(は→波)それがゆるやかな結果として、言葉は言の葉ということで→生命の枝が進展するさまであり、心の働きを助ける運用機関であるから、天照大御神(あまてらすおおみかみ)の一霊四魂の活用が展開すれば展開するだけ、声音(言霊)の数も複雑にひろがりその働きを停止するところはないのであります。その中にありて宇宙間に発生した根本の響きのみを息をひそめて聞けば四十五音(父母音を含めて)となり、濁音、半濁音を合すれば七十五音となるのであります。これは言霊の研究を志すものにとっては基本的は知識であります。
 これにさらに拗音、捉音、鼻音等をたしてゆけば更に多数に展開してゆき、要するにすべては七十五音の変形で、あらゆる音声、あらゆる言語は根本の七十五声音の運用と結合による展開になるのです。
 ということは宇宙の森羅万象一切は言霊としての無量無辺の音声即ち言葉の活用の結果と見て差支へないのです。
 これは人間世界の上に当てはめて見ても運命の展開を素直に観てみれば、その通りである事がよく分かるのです。
 人間の心の活用即ち想念が動くときがある限り、これを表現する言霊があるのです。
 たとえば「やるぞ」と思ふ瞬間には、その言霊は私たちの身体の中心(臍下丹田→本心から湧き、「いやだ」と思ふ瞬間にも、「寝よう」と思ふ瞬間にも、「行こう」と思ふ瞬間にも、その他どんな場合でも、常にその言霊はわたくしたちの中心から湧出するのです。
 すなはち人間の一挙一動ことごとく言霊の力で左右されるといっても過言ではないのです。
 つまりどんな場合でも、言霊の活用の清純で、豊富な人ほど(プラスの言霊を使える人ほど)其の使命 天命も崇高な働きになるのです。

 神伊邪那岐命神(カム)は酒を醸む(かむ)のカムなどと同義を有し、宇宙万有を醸造したまふ伊邪那岐命の働きに基づいた形容的敬語でなるのです。伊邪那岐命は、火系(陽系→たたあ)の御祖神で、宇宙におけるあらゆる活動の根源を司どり、大修祓大整理(修理固成は常にこの神の働きとして大宇宙の御分担に属するのであります。地の世界(顕の幽界)において伊邪那岐命の御仕事を具体的に働き賜ふのが、国祖である国常立尊(くにのとこたちのかみ)で、古事記の修理固成(つくりおさめかためなせ)といふのは大修祓(おおはらい)決行のことなのであります。
 宇宙間に起こる事は地球にも起こり、地球に起こる事は宇宙全体にも影響を及ぼします、それぞれ相互不離の関係になつているのです。
 更に進んで考察すれば伊邪那岐命の御禊祓(みそぎはらい)は一国一郡にも起こり、一郷一村にも起こり、一身一家にも起こるのです。

「八百万神等(やおよろずのかみたち)を、神集集(かみつどへつどへ)賜(たまひ)

、神議議(かみはかりはかり)賜(たまひ)て」

 
八百万神等(やおよろずのかみたち)とは、霊系と体系の無限の無限の神々、顕界(けんかい)と幽界(ゆうかい)の無限の無限の神々のことです。神漏岐(かみろぎ)・神漏美(かみろみ)の働きが、無限の無限の働きに、分化(ぶんか)し、それが無限の無限の神々(かみがみ)と成っているのです。

 神集集(かみつどへつどへ)賜(たまひ)とは、すべてを一糸(いっし)乱れず統一して、自由自在に動かすことです。
 絶対神の御心を上意下達(じょういかたつ)すること、すべてを適材適所に配置すること、それぞれの役割を全うさせることです。神御自身が、自分で自分の身体を動かすように、八百万神等(やおよろずのかみたち)を自在に動かしているのです。 

 神議議(かみはかりはかり)賜(たまひ)とは、すべて絶対神(ぜったいしん)の御心のままに、ということです。神御自身が、自分で自分の考え通りに、すべてを推し進めているのです。

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「皇親(すめみおや)神漏岐(かみろぎ)神漏美(かみろみ)の命(みこと)以(もち)て」



 皇(すめ)とは、ス(絶対(ぜったい))のメ(顕(あらわ)れ))の義(ぎ)で、

絶対神(ぜったいしん)のことです。

 神漏岐(かみろぎ)とは、宇宙(うちゅう)創造(そうぞう)における、霊魂(れいこん)

・父系(ちちけい)の働(はたら)きを示(しめ)す言葉(ことば)です。

即(すなわ)ち神力(しんりき)を代表(だいひょう)する神力大租神(しんりきだいそしん)

(タカア ミムスビ ノカミ)の別名(べつめい)です。

 神漏美(かみろみ)とは、宇宙(うちゅう)創造(そうぞう)における、元体(もとたい)

(物質(ぶっしつ)))・母系(ぼけい)の働(はたら)きを示(しめ)す言葉(ことば)です。

即(すなわ)ち神相(しんそう)を代表(だいひょう)する神相大租神(しんそうだいそしん)

(マアカ ミムスビ ノカミ)の別名(べつめい)です。 

命(みこと)以(もち)てとは、1、御言(みこと)即(すなわ)ち言(ことば)

・祈(いの)り・詔(みことのり)・命令(めいれい)・教(おし)え・論(さと)し・

導(みちび)きによって、2、命(みこと)即(すなわ)ち命(いのち)・天命(てんめい)

・使命(しめい)・役割(やくわり)・働(はたら)きによって、3、尊(みこと)

即(すなわ)ち尊厳(そんげん)な・偉大(いだい)な・高貴(こうき)な・権威(けん

い)ある・尊敬(そんけい)に値(あたい)する姿(すがた)をもって。

 宇宙(うちゅう)のすべては、霊魂系(れいこんけい)元体系(げんたいけい)

、プラス系(けい)とマイナス系(けい)というように、相対(そうたい)の両極(り

ょうきょく)に分(わ)かれる両神(りょうしん)の交流(こうりゅう)(組(くみ)合

(あ)わせによって生(う)まれているのです。だから両神(りょうしん)の意思(い

し)は、宇宙(うちゅう)のすべてに一貫(いっかん)して流(なが)れているのです。

すべてに神意(しんい)現成(げんせい)しているのです。すべては両神(りょうし

ん)の手足(てあし)のように動(うご)いているのです。


△神魯岐神魯美 神魯岐は霊系の祖神にして上記のように天に属し、神魯美は体系の祖神にして上記のように地に属します。

 すなわち天地(たたあ)、陰陽(かかあ)二系の神々の義なのです。。

 ”命もちて” 命(ミコト)とは神言(かみごと⇒神のひびき)のことであり。神命つまり神さまの生命そのものであるのです。

 つまりこの世の響きに近づけて表現すれば、陰と陽の結合である火と水の結合によるところ鳴り響くの五十音を指すのです。
 元来声音(言霊)は「心の柄⇒こえ」の意味にて、心がこの世に働きかける意欲(喜び)を生ずる限り、この喜びを運用する為に声音が必要なのです。

 具体的には、心(即ち霊魂⇒生命)の活用を分類して説明すれば、奇魂(くしみたま)、荒魂(あらみたま)、和魂(にぎみたま)、幸魂(さちみたま)の四魂とこれを統括するところの一霊にまとめることができるのです。

 これが、いはゆる一霊四魂というのでありますが、この根源の働きである一霊四魂を代表する声音はアオウエイの五大父音になるのであります。

 宇宙根本である宇宙絶対統一神の造化作用は一霊四魂の運用の結果でありまから宇宙絶対統一神である天照大御神さまの御活動につれて必然的にアオウエイの五大父音が先づ全大宇宙空間に発生し響き渡り、そしてその声音(ひびき)は今日といヘども依然として虚空に充ち満ちてひびき渡っているのですが、あまりに大なる声音(ひびき)なので、あまりに微細なる声音(ひびき)と同様に、普通人間の肉耳には感じえない、聞き取ることができないのです。

 しかし中間的な響きは一瞬一瞬あらたに私たちの五官に触れ、天音開闢のひびきとしてあーおーうーえーいーに帰着してゆくのです。

 わたくしたちが”ありがとうございます”のひびきを発して瞑目合掌していわゆる鎮魂帰神すれば五官の範疇を超えて、この肉の耳に聴こゆる範囲は更に更に拡がり宇宙創造の響きを聞くことができるのです。これが天地開闢の音を聞けということになるのです。


 声音は心の柄のことであり、違う表現をすれば言葉は言の葉ということで→生命の枝が進展するさまであり、心の働きを助ける運用機関であるから、天照大御神(あまてらすおおみかみ)の一霊四魂の活用が展開すれば展開するだけ、声音(言霊)の数も複雑にひろがりその働きを停止するところはないのであります。その中にありて宇宙間に発生した根本の響きのみを息をひそめて聞けば四十五音(父母音を含めて)となり、濁音、半濁音を合すれば七十五音となるのであります。これは言霊の研究を志すものにとっては基本的は知識であります。
 これにさらに拗音、捉音、鼻音等をたしてゆけば更に多数に展開してゆき、要するにすべては七十五音の変形で、あらゆる音声、あらゆる言語は根本の七十五声音の運用と結合による展開になるのです。
 ということは宇宙の森羅万象一切は言霊としての無量無辺の音声即ち言葉の活用の結果と見て差支へないのです。
 これは人間世界の上に当てはめて見ても運命の展開を素直に観てみれば、その通りである事がよく分かるのです。
 人間の心の活用即ち想念が動くときがある限り、これを表現する言霊があるのです。
 たとえば「やるぞ」と思ふ瞬間には、その言霊は私たちの身体の中心(臍下丹田→本心から湧き、「いやだ」と思ふ瞬間にも、「寝よう」と思ふ瞬間にも、「行こう」と思ふ瞬間にも、その他どんな場合でも、常にその言霊はわたくしたちの中心から湧出するのです。
 すなはち人間の一挙一動ことごとく言霊の力で左右されるといっても過言ではないのです。
 つまりどんな場合でも、言霊の活用の清純で、豊富な人ほど(プラスの言霊を使える人ほど)其の使命 天命も崇高な働きになるのです。

 神伊邪那岐命神(カム)は酒を醸む(かむ)のカムなどと同義を有し、宇宙万有を醸造したまふ伊邪那岐命の働きに基づいた形容的敬語でなるのです。伊邪那岐命は、火系(陽系→たたあ)の御祖神で、宇宙におけるあらゆる活動の根源を司どり、大修祓大整理(修理固成は常にこの神の働きとして大宇宙の御分担に属するのであります。地の世界(顕の幽界)において伊邪那岐命の御仕事を具体的に働き賜ふのが、国祖である国常立尊(くにのとこたちのかみ)で、古事記の修理固成(つくりおさめかためなせ)といふのは大修祓(おおはらい)決行のことなのであります。
 宇宙間に起こる事は地球にも起こり、地球に起こる事は宇宙全体にも影響を及ぼします、それぞれ相互不離の関係になつているのです。
 更に進んで考察すれば伊邪那岐命の御禊祓(みそぎはらい)は一国一郡にも起こり、一郷一村にも起こり、一身一家にも起こるのです。

「八百万神等(やおよろずのかみたち)を、神集集(かみつどへつどへ)賜(たまひ)

、神議議(かみはかりはかり)賜(たまひ)て」

 
八百万神等(やおよろずのかみたち)とは、零系(れいけい)と体系(たいけい)の

無限(むげん)の無限(むげん)の神々(かみがみ)、顕界(けんかい)と幽界(ゆう

かい)の無限(むげん)の無限(むげん)の神々(かみがみ)のことです。神漏岐(か

みろぎ)・神漏美(かみろみ)の働(はたら)きが、無限(むげん)の無限(むげん)の

働(はたら)きに、分化(ぶんか)し、それが無限(むげん)の無限(むげん)の神々(

かみがみ)と成(な)っているのです。

 神集集(かみつどへつどへ)賜(たまひ)とは、すべてを一糸(いっし)乱(みだ)

れず統一(とういつ)して、自由自在(じゆうじざい)に動(うご)かすことです。

絶対神(ぜったいしん)の御心(みこころ)を上意下達(じょういかたつ)すること、

すべてを適材適所(てきざいてきしょ)に配置(はいち)すること、それぞれの

役割(やくわり)を全(まっと)うさせることです。神御自身(かみごじしん)が、

自分(じぶん)で自分(じぶん)の身体(からだ)を動(うご)かすように、八百万神

等(やおよろずのかみたち)を自在(じざい)に動(うご)かしているのです。 

 神議議(かみはかりはかり)賜(たまひ)とは、すべて絶対神(ぜったいしん)の

御心(みこころ)のままに、ということです。神御自身(かみごじしん)が、自分

(じぶん)で自分(じぶん)の考(かんが)え通(どう)りに、すべてを推(お)し進(す

す)めているのです。

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