おおはらい のりとへ ようこそ あなたは 人目の訪問者です。

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すべての意識有る者に対して、宇宙絶対統一神・天照大御神は、一瞬一瞬新たに、全徳の無限の無限の輝きなる玉体を、与え続けているのです。無限の無限の意識ある存在は受け手です。天照大御神は、与え手です。受けてはみんな平等に、新たなる全徳の無限の無限の輝きなる玉体を受け続けているのです。受けてはみんな、天照大御神の御子です。天照大御神の全徳の無限の無限の輝きで一杯!です。神さまの前に立つとき、みんな平等なのです。みんな天照大御神の眞子・皇御孫・皇御孫(すめみま)なのです。

 天照大御神の玉体とは、最高表現を頂点にした、無限の無限のチャンネルの放送番組の全体でも有るのです。一つ一つのチャンネル毎に、全大宇宙が有るのです。受けてである皆にとって、無限の無限の大宇宙は、自分自身そのものなのです。だから全体を自分と思うことも、部分を自分と思うことも、自由自在にできるのです。 無限の無限のチャンネルの番組を楽しむ時に、全体を自分と見て楽しむのも自由
なら、色々な部分に立って、種々様々(しゅじゅようよう)な楽しみ方をするのも自由なのです。完全な自由と完全な平等は、神さまによって完璧に保証されているのです。感謝を深めて、本当に自由自在な楽しみ方をするのも、思いを積み重ねて、囚われた不自由な楽しみ方をするのも、本当に自由自在な自分だからこそ、できることなのです。 大祓詞(おおはらいのことば)は、低い番組から高い番組へと、チャンネルを切り替える時に、大いに役に立つものです。中心を定める事によって、
調和が生まれるのです。中心が無く、混沌としているのは、低い番組です。中心が有って、調和しているのが、高い番組です。どんな言葉を使っても、その言葉通りの番組が、すべて用意されているのです。無限の無限のチャンネルの番組というのは、すべてのすべてを与え尽くした番組なのです。

 一瞬一瞬新たに、神さまから受けなおしたすべてが、自分のものであり、自分)自身なのです。

今自分の眺めている番組のすべてが、自分自身なのです。すべての部分は、自分の言葉通(どう)りに、自分の意のままに、それぞれの役割を演じ切っているのです。全体を自分と感受(かんじゅ)すれば、全体が意のままになるのです。部分を自分)と感受(かんじゅ)すれば、部分が意のままになるのです。感謝を深めていけば、全体が自分になって来るのです。思いを積み重ねていくと、小さな部分が自分になって来るのです。感謝に生きれば、万事如意自在(ばんじにょいじざい)なのです。思い通りに生きようとすれば、万事不如意(ばんじふにょい)になって来るのです。



すべての意識(いしき)有(あ)る者(もの)に対(たい)して、宇宙絶対統一神(うちゅうぜっ

たいとういつしん)・天照大御神(あまてらすおおみかみ)は、一瞬(いっしゅん)一瞬(い

っしゅん)新(あら)たに、全徳(ぜんとく)の無限(むげん)の無限(むげん)の輝(かがや)

きなる玉体(ぎょくたい)を、与(あた)え続(つづ)けているのです。無限(むげん)の無限

(むげん)の意識(いしき)ある存在(そんざい)は受(う)け手(て)です。天照大御神(あま

てらすおおみかみ)は、与(あた)え手(て)です。受(う)けてはみんな平等(びょうどう)に

、新(あら)たなる全徳(ぜんとく)の無限(むげん)の無限(むげん)の輝(かがや)きなる玉体

(ぎょくたい)を受(う)け続(つづ)けているのです。受(う)けてはみんな、天照大御神(あま

てらすおおみかみ)の御子(みこ)です。天照大御神(あまてらすおおみかみ)の全徳(ぜんとく

)の無限(むげん)の無限(むげん)の輝(かがや)きで一杯!(いっぱい)です。神(かみ)さまの

前(まえ)に立(た)つとき、みんな平等(びょうどう)なのです。みんな天照大御神(あまてら

すおおみかみ)の眞子(まこ)・皇(こう)御(おん)孫(まご)・皇御孫(すめみま)なのです。

 天照大御神(あまてらすおおみかみ)の玉体(のぎょくたい)とは、最高(さいこう)表現

(ひょうげん)を頂点(ちょうてん)にした、無限(むげん)の無限(むげん)のチャンネルの

放送(ほうそう)番組(ばんぐみ)の全体(ぜんたい)でも有(あ)るのです。一(ひと)つ一(ひ

と)つのチャンネル毎(ごと)に、全大宇宙(ぜんだいうちゅう)が有(あ)るのです。受(う)

けてである皆(みな)にとって、無限(むげん)の無限(むげん)の大宇宙(だいうちゅう)は、

自分自身(じぶんじしん)そのものなのです。だから全体(ぜんたい)を自分(じぶん)と

部分(ぶぶん)を自分(じぶん)と思(おも)うことも、自由自在(じゆうじざい)にできるの

です。 無限(むげん)の無限(むげん)のチャンネルの番組(ばんぐみ)を楽(たの)しむ

時(とき)に、全体(ぜんたい)を自分(じぶん)と見(み)て楽(たの)しむのも自由(じゆう)

なら、色々(いろいろ)な部分(ぶぶん)に立(た)って、種々様々(しゅじゅようよう)な

楽(たの)しみ方(かた)をするのも自由(じゆう)なのです。完全(かんぜん)な自由(じゆ

う)と完全(かんぜん)な平等(びょうどう)は、神(かみ)さまによって完璧(かんぺき)に

保証(ほしょう)されているのです。感謝(かんしゃ)を深(ふか)めて、本当(ほんとう)に

自由自在(じゆうじざい)な楽(たの)しみ方(かた)をするのも、思(おも)いを積(つ)み

重(かさ)ねて、囚(とら)われた不自由(ふじゆう)な楽(たの)しみ方(かた)をするのも、

本当(ほんとう)に自由自在(じゆうじざい)な自分(じぶん)だからこそ、できることな

のです。 大祓詞(おおはらいのことば)は、低(ひく)い番組(ばんぐみ)から高(たか)

い番組(ばんぐみ)へと、チャンネルを切(き)り替(か)える時(とき)に、大(おお)いに

役(やく)に立(た)つものです。中心(ちゅうしん)を定(さだ)める事(こと)によって、

調和(ちょうわ)が生(う)まれるのです。中心(ちゅうしん)が無(な)く、混沌(こんと

ん)としているのは、低(ひく)い番組(ばんぐみ)です。中心(ちゅうしん)があ有(あ)

って、調和(ちょうわ)しているのが、高(たか)い番組(ばんぐみ)です。どんな言葉

(ことば)を使(つか)っても、その言葉(ことば)通りの番組(ばんぐみ)が、すべて用意

(ようい)されているのです。無限(むげん)の無限(むげん)のチャンネルの番組(ばん

ぐみ)というのは、すべてのすべてを与(あた)え尽(つ)くした番組(ばんぐみ)なのです。

 一瞬(いっしゅん)一瞬(いっしゅん)新(あら)たに、神(かみ)さまから受(う)けなお

したすべてが、自分(じぶん)のものであり、自分(じぶん)自身(じしん)なのです。

今(いま)自分(じぶん)の眺(なが)めている番組(ばんぐみ)のすべてが、自分自身(じぶん

じしん)なのです。すべての部分(ぶぶん)は、自分(じぶん)の言葉(ことば)通(どう)

りに、自分(じぶん)の意(い)のままに、それぞれの役割(やくわり)を演(えん)じ切

(き)っているのです。全体(ぜんたい)を自分(じぶん)と感受(かんじゅ)すれば、全体

(ぜんたい)が意(い)のままになるのです。部分(ぶぶん)を自分(じぶん)と感受(かん

じゅ)すれば、部分(ぶぶん)が意(い)のままになるのです。感謝(かんしゃ)を深(ふか)

めていけば、全体(ぜんたい)が自分(じぶん)になって来(く)るのです。思(おも)いを積

(つ)み重(かさ)ねていくと、小(ちい)さな部分(ぶぶん)が自分(じぶん)になって来(く)

るのです。感謝(かんしゃ)に生(い)きれば、万事如意自在(ばんじにょいじざい)なので

す。思(おも)い通(どう)りに生(い)きようとすれば、万事不如意(ばんじふにょい)にな

って来(く)るのです。

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