古神道(こしんとう)

 この小論文(しょうろんぶん)の内容(ないよう)は,各(かく)ページ毎(ごと)に独立(どくりつ)しています。どのページから読()み進(すす)んでも、少(すこ)しは参考(さんこう)にしていただける、真理(しんり)の言葉(ことば)の断片集(だんぺんしゅう)です。真理(しんり)をどの程度(ていど)指()し示(しめ)せているか、点数(てんすう)を付()けて見()て下(くだ)さい。読者諸賢(どくしゃしょけん)には、もっと素晴(すば)らしい真理(しんり)の言葉(ことば)を世()のため人(ひと)のために、沢山(たくさん)生()み出()して下(くだ)さることを、心(こころ)から期待(きたい)しています。 トップヘ

No. 1  ■感謝と報恩の真を生きることによって、本心(神我一体)の自覚
No. 2  ■感謝すれば、すべては清浄となるのです。感謝は光です。感謝は
No. 3  ■神さまと自分とが、しっかりと繋がっていて、常に密に交流してい
No. 4  ■神さまに自分の生命(すべて)を捧げ尽くした時に、感謝一筋の
No. 5  ■幸せは各自の心次第なのです。各自の幸せの程度は、各自の心の
No. 6  ■一切の報いを求めないで、与えて与えて与え尽くすのが、神さまの
No. 7  ■不動の堅信(神さまの愛を堅く信じること)は、正しい信仰によ
No. 8  ■与える心を起こすことが、神さまの助けを受ける秘訣なのです。
No. 9  ■業想念の心の奴隷状態から抜け出す為には、本心の心をしっか
No.10  ■神さまの導きを本当に受けたいのであれば、本心の心で質問する
No.11  ■本心の心は、プラス(光)の心です。業想念の心は、マイナス(闇
No.12  ■人は常に、本心の心を生きるか、業想念の心を生きるか、二者択一
No.13  ■宇宙絶対神の御心に適っていれば、何事も『正しい』と言えるので
No.14  ■欲しいものを手に入れても、幸せにはなれないのです。したいこ
No.15  ■何をする場合でも、とことんやり抜けば、もやもやしたものが抜
No.16  ■マイホーム主義的な小さな生き方をしていては、神さまの大きな
No.17  ■自分の蒔いたマイナスの種を、責任をもって刈り取ろうとしてこそ
No.18  ■業想念の心の奴隷状態から、本心の心の自分に戻るチャンスは、
No.19  ■人には完全な自由が与えられているのです。だから何を選択して
No.20  ■正しい祈りとは、本心の心でする祈りです。間違った祈りとは、業
No.21  ■神さまに自分のすべてを捧げてこそ、神さまの大きな助けが受
No.22  ■本心の心に戻って自由自在に生きているのも、業想念の心の奴隷
No.23  ■祈りには無限の無限の段階があるのです。マイナスの祈りに無限の
No.24  ■自分の見ている世界というのは、鏡に写すように、自分の心を写し
No.25  ■『朱に交われば赤くなる』という諺は、環境の持つ影響力の凄さを
No.26  ■本心の心が輝いていたら、いつも新たなる無限の無限の幸せで一杯
No.27  ■自我の心を生きようとしていては、過去世からの業想念を引きずる
No.28  ■自分の運命は、自分自身の作品です。自分自身の心を表現している
No.29  ■神さまに自分のすべてを捧げ尽くすことが、神さまの大きな助けを
No.30  ■因縁因果の法則は、常に厳然と働いているのです。他に対して何を
No.31  ■神さまへの感謝報恩行に生きるようになってこそ、本心の自分に
No.32  ■自我の心を死に切って、謙虚に謙虚になることが、正しい信仰の第
No.33  ■鼎(カナエ)(古代中国で食物を煮るのに用いた金属製の容器。普
No.34  ■偽我(五欲・業想念・自我)の生き方を捨てて、真我(本心・神我
No.35  ■本当に幸せを得たいのであれば、一切の報いを求めずに、与えて与
No.36  ■神さまの言葉をそのまま受け入れて、自分の言葉として駆使するの
No.37  ■他に対してプラスを与えた者は、必ず他からプラスを与えられるの
No.38  ■一瞬一瞬新たに新たに、絶対から新生し続ける自分が、本当の自分
No.39  ■正しい信仰の目的は、心の錬磨にあるのです。自分の心を立派に
No.40  ■神さまへの感謝と奉仕が、神さまの助けを受ける為の必須条件な
No.41  ■人生における優勝劣敗は、神さまの御心(最高表現)をこの世に
No.42  ■神さまに自分の願いを叶えてもらう為には、自分も神さまの為に
No.43  ■悟りへの道を歩むということは、業想念の心を捨てて・捨てて・捨
No.44  ■現実の自分の未熟さ・至らなさにも気付かないのが、高慢な心・
No.45  ■人の噂は決して信じてはいけないのです。自分の本当に信頼して
No.46  ■マインド・コントロールの是非が云々されているのですが、心の
No.47  ■『正しい』ということは、宇宙絶対神の本質です。宇宙絶対神か
No.48  ■『正しい信仰とは何か?』今一度、自分自身の手で、その答えを
No.49  ■過去の伝統・風習・遺産を守ろうとするだけでは、過去を掴む業想
No.50  ■絶対が相対に分かれ、その組み合わせによって、表現が生まれる
No.51  ■自我の心(業想念の心・五欲の心)を生きる時代は終わり、本心
No.52  ■人の幸せを大別すれば、物質的幸せ・精神的幸せ・霊的幸せに
No.53  ■天岩戸開きの神聖行事に至誠をもって参画せよ!“今”そのチャ
No.54  ■繁栄の為の黄金律とは、最高の種子をできるだけ沢山種蒔きに使う



 感謝と報恩の真を生きることによって、本心(神我一体)の自覚を深めることができるのです。真の感謝とは何か? 真の報恩とは何か? 自分自身でしっかりと、この問題に取り組んで、深く究めてゆくことが大事なのです。本心の自覚を深めてゆく為には、真の感謝と報恩についての理解を、どこまでも深めてゆくことが必要なのです。感謝の行は、正しく実行することによって、大きな成果が得られるのです。報恩の行は、正しく実行することによって、多くの成果が得られるのです。自分自身の手で見出した答えが、自分の身に付くのです。他人から教えてもらった答えは、未だ自分のものにはなっていないのです。今一度自分自身の手で、自分なりの答えを出さなければならないのです。

 真の感謝とは、宇宙絶対統一神・天照大御神を拝受することです。一瞬一瞬新たなる全徳の無限の無限の輝きを感受することです。その為には、正しい祈り言葉を駆使して、深く深く祈ることが必要なのです。感覚を蕩尽して、五感六感の世界を超越して、最深奥の姿を直覚することが必要なのです。『天照大御神 今ここに 在します』という意義を保持する、『ありがとうございます』という『祈り言葉』を、一心不乱に唱えて、感謝三昧の境地に入るのです。天照大御神は『すべてのすべて』であり、すべては無限に無限に輝いていると観るのです。絶対が相対の両極に分かれ、その相対のすべて(時間と空間、霊と体、光と闇、生と死、善と悪、美と醜、・・・・・)が完璧に組み合わさって、織り成す無限の無限の綾模様が、一大調和の姿となって現出しているのです。すべての褒め言葉(無限の神秘・無限の荘厳・無限の美しさ・無限の素晴らしさ・無限の清らかさ・・・・・・・・・・)を駆使しても、未だ表現しきれないのが、天照大御神の真の姿なのです。感謝の真を生きるとは、この天照大御神の真の姿を観続けることなのです。

 真の報恩とは、宇宙絶対統一神・天照大御神に絶対帰一・絶対随順・絶対奉仕することです。すべての恩恵は、天照大御神から来ているのです。天照大御神を忘れ、無視するようでは、全くの忘恩の徒です。例えば素敵なプレゼントが宅急便で送られて来た時に、配達人に感謝するだけで、真の贈り主のことを忘れ、無視すれば、その結果がどうなるかは明白です。現実世界において受けるどんな恩恵に対しても、現界の者に対する感謝の、何万倍以上の感謝を、天照大御神に捧げなければならないのです。そうでなければ、根本を忘れた、間違った生き方になるのです。本当の恩返しは、天照大御神に対してすべきものなのです。他のすべては、配達人・使いでしか無いのです。自分の生命(すべて)を捧げるべき対象は、天照大御神だけでなければならないのです。枝葉に囚われ、根本を忘れては、大きな大きな間違いを犯していることになるのです。




 感謝すれば、すべては清浄となるのです。感謝は光です。感謝は清めの力です。感謝の在るところには、宇宙絶対統一神(天照大御神)が現出するのです。『ありがとうございます』という言葉は、『天照大御神 今ここに 在します』という意義を秘めているのです。『ありがとうございます』という言葉は、天照大御神を呼び出す『キーワード』なのです。宇宙絶対統一神(天照大御神)が現れたら、新たなる全徳の無限の無限の輝きで一杯!となるのです。だからすべては自然に清められるのです。

 他から何かをいただく時に、感謝の心を起こせば、天照大御神の無限の無限の大光明が流れ入って来て、与える人も物も受ける人も、大きく清められるのです。他に何かを与える時に、感謝の心を起こせば、天照大御神の無限の無限の大光明が流れ入って来て、与える人も物も受ける人も、大きく清められるのです。感謝の心で受け、感謝の心で与えることが、すべてを清浄にする秘訣なのです。単なる物のやり取りに見えても、本当は物に付着して来る、想念感情のやり取りなのです。人の想念感情が、物を通して伝わるのです。マイナスの想念感情を他に与えれば、他を不幸にするだけではなく、そのマイナスの想念感情は自分にも返って来て、自分をも不幸にするのです。プラスの想念感情を他に与えれば、他を幸せにするだけではなく、そのプラスの想念感情は自分にも返って来て、自分をも幸せにしてくれるのです。感謝の心を起こせば、天照大御神の大光明が、マイナスの想念感情をプラスの想念感情に変えてくれるのです。

 感謝の心を起こし、感謝の練習を積み重ね、感謝の回数が殖えて来れば、天照大御神の光を沢山受けられるようになるのです。そうすると自分の心の中に蓄積されていたマイナスの想念感情は、いつの間にかプラスの想念感情に変化してくるのです。マイナス思考の自分が、自然にプラス思考の自分に変わって来るのです。マイナスの信念がプラスの信念に置き変わって来るのです。心全体がプラスに変化して来るのです。さらに感謝を積み重ね、感謝の回数が大きく殖えて来ると、想念感情の心の自分とは別個の、感謝の心の自分(本心の自分)が自覚されて来るのです。この感謝の心の自分こそが、本当の自分(本心の自分)なのです。プラスの想念感情の自分では味わうことのできなかった、無限の無限の幸せを味わうことのできる本心の自分に戻ることになるのです。

 感謝を積み重ね続ける本当の目的は、天照大御神を直感できる本心の自分に戻る為なのです。一瞬一瞬新たなる全徳の無限の無限の輝きを、感受できる自分になる為なのです。天照大御神を直接に感受できる自分は、天照大御神と一体となるのです。感謝三昧の自分こそが、最高の悟りを体感体得できる自分なのです。



 神さまと自分とが、しっかりと繋がっていて、常に密に交流していれば、いつも最高に輝くことができるのです。即ち新たなる全徳の無限の無限の輝きで一杯!という状態になれるのです。ところが神さまと自分とを切り離してしまうと、直ぐに七難八苦の状態に陥るのです。これは一本の樹木に例えると、良く理解できるのです。末端の葉は、根幹としっかりと繋がっていて、密に交流していれば、生き活きと輝いているのです。ところが根幹から切り離されたり、根幹との交流が無くなると、直ぐに枯れ果ててしまうのです。人の幸せというのは、神さまからのサキハエ(咲き栄え・幸え)なのです。神さまとの交流が多くなればなるほど、幸せは大きくなるのです。

 神さまと自分との交流というのは、内部との交流なのです。外部(周り・環境)に囚われると、内部との交流がおろそかになるのです。外部のマイナスが、自分の不幸の原因では無いのです。外部のマイナスに囚われて、内部(神さま)との交流が無くなるから、不幸な状態に陥るのです。一枚の葉の立場から考察してみると、自分の周りの葉が、生き活きと輝いている時は、自分も含めて、根幹としっかりと繋がっていて、密に交流している時です。こういう時は、外部に囚われることも無く、自然に内部との交流が密になっているのです。ところが周りの葉が枯れ始めて、マイナスの姿を呈する時は、自分も同じようにマイナスの状態に陥っているものです。何故なら自分達を支えている小枝が、根幹から切り離されたり、自分達全体が根幹との交流をストップしているからです。

 神さまへの感謝の心を起こすことによって、人は神さまとしっかり繋がることができるのです。感謝の心は、神さまと自分を繋ぐ、接着剤なのです。神さまへの奉仕に生きることによって、人は神さまとの交流を密にできるのです。神さまの為に生きようとすれば、必ず必要なすべてが豊かに流れ入って来るのです。外部(人や物)に頼ってはいけないのです。内部(神さま)との交流を密にしてゆくことが大切なのです。自分一人だけでも、神さまの為に働けば、神さまの願いは必ず実現してゆくのです。一枚の葉でも残っていたら、早く小枝も修復され、その木も蘇るのです。

 神さまからの本当の助けは、内部から湧き出て来るものです。人というのは、井戸のようなものです。自分を深く掘り下げて、湧き出て来る水をどんどん汲み出せば、新しい清水(神さまの助け)は無限に湧き出て来るのです。自分のすべてを与えて与えて与え尽くせば、神さまと一体化するのです。他に頼るということは、外から井戸に水を入れるようなものです。その水もやがては腐り、清水も湧き出て来なくなるのです。本心開発の為の本当の助けを受けようとすることが、何よりも大切な心構えなのです。




 神さまに自分の生命(すべて)を捧げ尽くした時に、感謝一筋の本心の自分を生きることができるのです。神さまの絶対の愛を信じていたら、信じることができたら、信じたいのであれば、神さまへの全託に生きることが、最も自然な本心(悟りの心・感謝の心)開発の道なのです。元々自分のすべては、神さまから与えられたものばかりです。神さまから新しいものと交換してあげようと言われたら、素直に喜んで応じることが、神さまの愛に応える生き方なのです。過去の古い自分のすべてを、神さまにお返しして、新しい輝いた自分を、神さまから受け直すことが、一番の幸せへの道なのです。ところが神さまの愛を疑い、拒絶して、古いものに執着して、本当の幸せから遠ざかる自由も有るのです。過去のすべては、既に消え去っているのです。過去を掴む思いだけが残っているのです。その過去の思いの集積の中に自分を置くから、過去に縛られることになるのです。過去を掴む業想念の心というものも、自分自身が掴まなければ、自然に消え去ってゆくのです。業想念の心を自分が掴みに行って、自分をその中に置くから、自分自身を業想念の奴隷にしてしまうのです。

 自分自身が何を選び、何を掴むかが大事なのです。自分自身の心を何に向けるかが大事なのです。自分の心を向け続けたものに、自分は同化してゆくのです。マイナスに心を向け続けたら、マイナスに同化して、自分はマイナスの状態になるのです。プラスに心を向け続けたら、プラスに同化して、自分はプラスの状態になるのです。過去に心を向け続けたら、自分の心は過去を掴む業想念の心になるのです。神さまに心を向け続けたら、自分の心は新生する本心の心になるのです。神さまに背を向けて見ている現実は、過去のものです。神さまの現れとして見ている現実は、新生してくる新しいものです。一瞬でも神さまに背を向けたら、過去を掴むことになるのです。一瞬でも過去を掴めば、業想念の心に陥ることになるのです。常に本心の自分で有り続ける為には、いつも神さまを思い続け、神さまに心を向け続けていなければならないのです。『ありがとうございます』(天照大御神 今ここに 在します)と祈り続けることが大切なのです。

 本心の自分に戻って、本心の自分を生きることができたら、いつも無限の無限の幸せで一杯!になれるのです。即ち謙虚な心でマイナスの極に立ち、光一元に仰ぎ見て、すべてを神さまの現れとして受けることができるのです。すべてを神さまから受け直せる自分になれば、一瞬一瞬の移り変わる現実の姿もまた、プラスにプラスに受けてゆけるのです。どんなマイナスも、消し去って貰えたのだと思えば、大きく喜べるのです。どんなマイナスも、軽くして貰えたのだと思えば、これまた大きく喜べるのです。




 幸せは各自の心次第なのです。各自の幸せの程度は、各自の心の状態によって定まるのです。業想念の心の奴隷状態になれば、七難八苦の重荷を背負うことになるのです。本心の心が輝いていたら、神さまの全徳の無限の無限の輝きで一杯になるのです。各自の心の状態は、業想念の心の完全な奴隷状態から、本心の最高に輝いた状態まで、無限の無限の段階に分かれるのです。地獄の極苦から、無限の無限の幸せで一杯の状態まで、各自の幸せの程度は、各自の心の状態に応じて、千差万別なのです。

 自分の不幸の原因を他の所為にするのは、業想念の心の特徴です。業想念の奴隷状態に陥ると、もがけばもがくほど、業想念の泥沼に沈んでゆくのです。業想念の奴隷状態から脱却する為には、一片の本心でも出ていたら、その本心の心をしっかりと生きようとすることが大事なのです。どんな人でも必ず、守護の神霊の加護によって、業想念の心を消し去って、本心の心が輝き出て来るように、助け続けてもらっているのです。本心の心が少しでも輝き出て来たら、そのチャンスを最大限に活かすことが大切なのです。業想念の心と本心の心のどちらの側に、自分自身が立とうとしているかが、幸不幸の分かれ目なのです。自分の自由意志で、自分が取捨選択して、すべてを決定するのです。本心の心を生きようとすれば、必ず幸せになれるのです。本当に幸せになりたいのであれば、本心の心を生きようとすることが大切なのです。

 本心の心というのは、感謝の心・与える心・明るい心・楽天的な心・楽観的な心・謙虚な心・素直な心・真剣な心・等々の心です。本心の心と業想念の心とをしっかりと区別して、本心の心だけを前向きに・積極的に生きようとすれば、本心の心は輝きを増して、必ず無限の無限の幸せで一杯に成れるのです。本心の心だけを相手にすれば、本心の心を生きることができるのです。業想念の心を相手にすれば、業想念の奴隷に陥るのです。自分に合った本心の心のどれか一つを、徹底的に生きれば、本心は大きく大きく輝くのです。すべてを感謝一筋に受け続ければ、本心は必ず無限に無限に輝くのです。与えて与えて与え尽くす為だけに生きれば、本心は必ず無限に無限に輝くのです。すべてを光一元に、明るく明るく受け続けてゆけば、本心は必ず無限に無限に輝くのです。プラスのものだけを拾い上げ・数え上げてゆく楽天的な心を生きれば、本心は必ず無限に無限に輝くのです。どんなマイナスをもプラスに翻訳し・思い返し・受け直す楽観的な心を生きれば、本心は必ず無限に無限に輝くのです。マイナスの極・地獄のどん底から、一瞬一瞬新たにすべてを受け直す謙虚な心を生きれば、本心は必ず無限に無限に輝くのです。どのような本心の心を生きても、それを徹底すれば、本心は必ず無限に無限に輝くのです。




 一切の報いを求めないで、与えて与えて与え尽くすのが、神さまの愛の御心です。その神さまの愛の御心に、自分の心の波長を合わせることができれば、神さまの完璧な護り・恵みを受けることができるのです。そして常に無限の無限の幸せで一杯となるのです。人が傷つき・苦しむ根本の原因は、神さまの護りから外れ、神さまの恵みを受け損なうからです。それは自分勝手な生き方をして、神さまの愛を無視し、拒絶するからです。神さまの愛の御心は、決して人の自由を縛らないのです。自分の自由意志で、神さまの御心に波長を合わせて、神さまの護り・恵みを受けてくれるのを、忍耐強く見守っているのです。だから自分自身が、神さまの生き方をお手本にして、神習ってゆくことが大事なのです。どうすれば幸せになれるか、正しい生き方を取捨選択しなければならないのです。

 報いを求める心は、執着する心・掴む心・業想念の心になってゆくのです。与え尽くす心は、掴みを放す心・謙虚な心・愛の心になってゆくのです。求める心を起こせば、必ず業想念の心に陥るのです。与える心を起こせば、必ず本心の心が輝き出て来るのです。業想念の心に陥れば、誰でも七難八苦の苦痛を味わうのです。本心の心が輝けば、誰でも無限の無限の幸せで一杯になるのです。報いを求めないで、与え尽くす心になれば、必ず誰でも、謙虚な心になって、感謝の心が深まるのです。与え尽くす心を積極的に・前向きに生きれば、求める心は消え去ってゆくのです。本心(光)が輝けば、業想念の心(闇)は消え去るのです。

 求める心は、他に善き姿を求め、それが不足すれば、責め裁く心になるのです。与える心は、他の悪しき姿を見ても、自分の心の反省材料にして、愛深くなるのです。求める心を捨てて、与える心を生きることが、本心開発の道なのです。過去世から積み重ねて来た無限の業想念(求める心)を消し去ってもらう為にも、本心(与える心)を積極的に・前向きに生きなければならないのです。与える心を起こさなければ、どんな助けも受けることはできないのです。一切の報いを求めないで、与え尽くす心になれば、神さまの無償の愛の助けに波長が合って、その助けを大きく受け入れることができるのです。

 与え尽くす心(本心)を積極的に生きて、受ける時は、すべてを神さまから受け直すことが大事なのです。神さまから受け直すことを忘れていると、他との貸借関係に縛られた自分(業想念の心の自分)に陥るものです。他からの借りが多くなると、業想念の縛りが強くなって、お祈り(感謝)がしにくくなってくるのです。本心開発を目指す者にとっては、すべてにおいて常に、他から受ける量よりも、他に与える量を多くしてゆくことが、何よりも大切な生き方なのです。




 不動の堅信(神さまの愛を堅く信じること)は、正しい信仰によって得られるのです。何が起こっても揺るがない不動の心になる為には、本心の心の自覚を深めて、自分のすべてを、神さまに捧げ尽くしていなければならないのです。神さまに全託できた時に、感謝一筋の不動心になれるのです。この世の七難八苦は勿論のこと、地獄の極苦をも喜んで受けられる自分にならなければ、自分のすべてを捧げ尽くしたことにはならないのです。神さまの愛を深く信じていると言っても、その信じ方は千差万別なのです。自分の身の上にマイナスの起こらないことを願う心が少しでも有れば、本当の全託では無いのです。そこには大きな自我の願いが、顔を出しているのです。自分の救われを願う小さな生き方は、求める業想念の心に陥り易いのです。地獄に落ちているすべての人々を、身代わりになってでも救いたいと願う大きな生き方が、与え尽くす本心の心を輝かすことになるのです。自分の救われを優先させる小乗的な生き方は、業想念の心の信仰です。他の救われを優先させる大乗的な生き方が、自他一体の愛の心を生きる本心の信仰です。

 みんなを救う為に、みんなを悟らせる為に、みんなを幸せにする為に、自分を与え尽くす生き方が、本心の心でする正しい信仰なのです。正しい信仰になれば、神さまの無限の加護を受けて、心が安らかになるのです。自他一体の愛の心を生きる大きな自分が、本心の心の自分です。自他を分離して見る、利己的な小さな自分は、業想念の心の自分です。本心の心をしっかりと生きて、本心の心でする信仰が、本心開発の正しい信仰なのです。本心の心の立場から、いつも全体を眺めて、神さまの御心を現す(プラスを加える)ことが大切なのです。今自分の置かれている場に、プラスを加えてゆくことが、自分に与えられた天命なのです。マイナスをプラスに置き換え、プラスを更に大きなプラスに置き換えてゆくことが、本心の自分を大きく輝かす為の修行にもなるのです。本心の自分を大きく輝かせることによって、真の安心立命・不動心が得られるのです。

 周りのすべてを、神さまの現れ・神さまそのものとして、拝むことによって、無限の無限のプラスを加えてゆくことができるのです。拝むことによってのみ、本当の意味のプラスを加えてゆくことができるのです。現実に執着する業想念の心では、拝むことはできないのです。だから今現れている以上のプラスを加えることは、不可能なのです。現実に処するだけの生き方では、業想念の心の奴隷になって、運命のままに流されているのです。『みんな天照大御神! みんな全徳の無限の無限の輝きで一杯! ありがとうございます』と拝み続けることによって、神さまの御心を現実化してゆくことが、本心の自分のする正しい信仰なのです。




 与える心を起こすことが、神さまの助けを受ける秘訣なのです。一切の報いを求めないで、与えて与えて与え尽くしてゆくことが、真実に『与える心』を起こしたことになるのです。少しでも報いを求めたら、『求める心』を起こしたことになるのです。『ギブ・アンド・テイク』の心も、与えることによって何かを期待する心も、純粋な『与える心』からは程遠いのです。人は常に自分の心に波長の合う世界と交流することになるのです。純粋な与える心を起こせば、神さまの世界と交流できるのです。そして神さまの助けを大きく受けて、極楽世界を現すことができるのです。求める心を少しでも起こせば、業想念の世界と波長が合って、地獄世界を現すことになるのです。自分を求めている所へ与えてゆくのも、自分を必要としている所へ与えてゆくのも、「自分を必要としてほしい」という求める心が隠されているのです。どんな求める心も、神さまの御心とは、波長が合わないのです。神さまの御心に波長を合わせる為には、純粋な『与える心』を起こす必要があるのです。特に神さまに対しては、自分を必要としてほしい・自分を認めてほしいというような、求める心を微塵も起こしてはならないのです。

 神さまを愛するということは、無条件で・無償で自分を与え尽くしてゆくことです。神さまを愛するのは、神さまとの交流を密にして、神我一体感を深めてゆく為なのです。神さまを愛することによって、神さまの愛を大きく受けることができるのです。神さまを愛することによって、神さまの助けを大きく受けることができるのです。神さまを愛することによって、大きく清めていただけるのです。神さまを愛することによって、本心が大きく輝き出て来るのです。神さまを愛することによって、神さまと一体化してゆくのです。先ず神さまを愛することから始めなければ、他の何ものをも真実に愛することはできないのです。自我の求める心は常に、自分を必要としてほしい、自分だけを愛してほしい、と願うものです。だから自分に執着してくれる人に、自分を好きだと言ってくれる人に引きつけられてゆくのです。自我の心と自我の心が交流し合えば、自我の心が増幅してゆくだけなのです。真剣に神さまとの交流をしてゆかなければ、業想念の心から抜け出せなくなってしまうのです。

 愛する心と執着する心とは、正反対の心です。愛する心は本心の心です。執着する心は業想念の心です。愛する心は、与えるだけの心です。執着する心は、求める心・思い通りにしたい心です。愛する心は、相手を自由に解放する心です。執着する心は、相手を縛る心です。人は先ず神さまを愛することによって、神さまの愛を大きく受けて、他を真実に愛することができるようになるのです。




 業想念の心の奴隷状態から抜け出す為には、本心の心をしっかりと生きようとすることが大切なのです。自分自身の自由意志による選択が、すべてを決定する大事な要因になるからです。業想念の心の奴隷状態に陥ったのも、自分自身が本心の心をしっかりと生きなかったからです。過去の惰性に流されるのも、常に新しい力を加えてゆかないからです。本心の心の自分は、常に神さまの御心に従って、新しい表現を加え続けるものなのです。神さまの宇宙創造は、新たな全徳の無限の無限の輝きとなって、無限億万分の一秒で置き変わっているのです。本心の心の自分は、その神さまの最高表現をお手本に、心の創造力を駆使して、自分の世界を表現し続けるものなのです。

 業想念の心の奴隷に陥っていては、過去の自分の表現を繰り返すだけです。未熟な表現を繰り返すだけでは、喜びは無くなるのです。一瞬一瞬新たに新たに、より素晴らしい表現を加え続けることによって、無限の無限の喜びで一杯!となるのです。過去を掴む業想念の心では、本当の人生を楽しむことはできないのです。神さまの最高表現を、新たに新たに受け直せる、本心の自分に戻ってこそ、この世の人生も最高に楽しむことができるのです。だから業想念の心から本心の心に戻ることが、何よりも何よりも大切なのです。

 人は皆、心というエンドレステープを持っているのです。心に受け入れたものを記録して、それを再生して表現するのです。本来本心の心の自分は、お祈りによって神さまの最高表現を心に受け入れて、それを自分の世界として表現していたのです。ところがいつの間にか、自分の表現の世界に囚われて、お祈りを優先させることの大切さを忘れてしまったのです。そしてだんだんと現実という自分の表現の世界だけを、自分の心に記録するようになってしまったのです。それでは過去の未熟な表現の繰り返しになるのです。本心の心の自分の生き方を忘れて、運命の奴隷に陥ってしまうのです。そして神さまの最高表現とは雲泥の差のある、七難八苦で一杯の世界を表現してしまうのです。

 自分の心というエンドレステープに、何を記録してゆくかが問題なのです。自分の心に記録されたものが、現実の自分の世界となって表現されるのです。現実ばかりを見ていては、現実から心に取り入れたものしか表現できないのです。神さまの最高表現を現実化することなど、永遠に不可能なのです。本心の自分をしっかりと生きるということは、お祈りを深めて、神さまの最高表現をしっかりと心に受け入れるということです。五感の世界を去り、六感の世界を通り抜けて、神さまの最高表現の世界に、精神を集中してゆくことです。その為には先ず、神さまの最高表現に波長の合う、祈り言葉を一心不乱に唱え続けてゆくことが大切なのです。



 神さまの導きを本当に受けたいのであれば、本心の心で質問することが大切なのです。自我の心で質問する時は、自分の思い通り・願い通りにしたいのであって、最初から神さまの導きに従う気持ちは全く無いのです。例えば「右に行くのがよいか? 左に行くのがよいか? 教えて下さい」と質問したとするのです。この質問には「右か左かのどちらかにしか行かない」という強い自我の願いがあるのです。神さまが答えるとすれば、適当にあしらって、「右がよい」「左がよい」と言うしか無いのです。自我の心は満足して、神さまの導きを受けたと錯覚するのです。もし神さまが一番良い方向を示したいと老婆心を起こして、無限の方向の中から一番良いのを選んで、「右斜め前方何度、上方何度の方向が良い」と言うと、腹を立てて反発するのです。そして神さまを罵倒して去ってゆくのです。自我の心では、神さまの導きを受けることもできないのです。

 本心の心で神さまの導きを受ける場合も、どれだけ謙虚に・素直に・真剣に受けられるかによって、神さまの導きも大きく変化するのです。甘い導きを受けて喜んでいたら、進歩は遅くなるのです。厳しい導きを喜んで受けるほど、神さまの大きい加護を受けて、進歩は速くなるのです。本心開発を目指す者は、厳しい指導をこそ、乞い願わなければならないのです。天才教育(本心開発)というものは、本来厳しい特訓に終始するものです。先ず最高のものを心に受け入れて、それを現実化する為に、特訓に特訓を積み重ねてゆくのです。凡才教育では、心に受け入れるものが、初歩から始まるので、心に受け入れたものが現実化するという原理からも、進歩が遅々として、盆栽で終わるのです。

 人は自分の心に波長の合う所から、絶えずインスピレーションを受けて、大きく影響されているのです。だから無意識的に惰性に流されていては、自分の心の波長を高めることは難しいのです。少しでも自分の心をプラスに高め上げてゆく為には、しっかりと心をプラスに向け続けることが必要なのです。特に本心開発を目指す者にとっては、神さまにしっかりと心を向け続けるということが必須条件なのです。神さまの御心を生きる、神さまへの絶対奉仕に生きるということが、神さまに心を向け続ける為の最善の方法なのです。いつも神さまの立場に立って、神さまは今何を一番願っていらっしゃるのかを、心を虚しくして真剣に知ろうとすることが大事なのです。そうすれば必ず神さまの御心は示されて来るのです。神さまに師事し、神さまへの絶対奉仕に生きれば、すべては神ながらに運ばれてゆくのです。自我の心を生きていては、神さまの助けを受け損なうのです。本心の心をしっかりと生きて、神さまの助けを大きく受け、いつも全徳の無限の無限の輝きで一杯!の自分に戻ることが急務なのです。




 本心の心は、プラス(光)の心です。業想念の心は、マイナス(闇)の心です。プラス(光)の心は、プラス(明るいもの)と波長が合うのです。マイナス(闇)の心は、マイナス(暗いもの)と波長が合うのです。本心の心が輝いていれば、プラス思考の生き方になるのです。業想念の心に陥れば、マイナス思考の生き方になるのです。自分の心全体の中には、本心(プラス)の心と業想念(マイナス)の心とが混在しているのです。その割合は、過去の自分の生き方によって決定されているのです。何を取捨選択して、心に受け入れて来たかによるのです。神さまに心を向ければ、プラス(光)を受けることができるのです。神さまに背を向ければ、マイナス(闇)を受けることができるのです。神さまに心を向け続けて来た人は、本心の心が輝いているのです。神さまに背を向け続けて来た人は、業想念の心に陥っているのです。

 神さまは、新たなる全徳の無限の無限の輝きとなって、光を与え続けているのです。人は、自由意志で取捨選択して、その光を受けているのです。神さまからの光を多く受ければ、幸せは増大するのです。拒絶すれば、幸せは減少するのです。神さまは自分の心の奥深くに内在しているのです。神さまに心を向けるということは、自分の心の最深奥に、精神を集中することです。現実(外界)に囚われると、神さまに背を向けていることになるのです。現実(外界)に囚われないで(執着しないで)、すべてを神さまの現れと見ることができれば、現実(外界)を通して、神さまに心を向けることもできるのです。

 心の向きは、言葉によって定まるのです。『神さま』『天照大御神 今ここに 在します』『新たなる全徳の無限の無限の輝きが一杯!』『ありがとうございます』という祈り言葉は、心を神さまに向ける為の、最高最適最良の言葉です。また現実を通して、神さまに心を向ける為には、『みんな天照大御神! 新たなる全徳の無限の無限の輝きで一杯! ありがとうございます』『みんな天照大御神! みんな悟っている! みんな祈っている! みんな救われている! 新たなる全徳の無限の無限の輝きで一杯! ありがとうございます』というように、『みんな』という言葉を付けて祈ると良いのです。神さまと一つに繋いで現実を眺めれば、現実に囚われることなく、神さまに心を向けることができるのです。

 現実からプラスだけを吸収する為には、プラスのものだけを取捨選択して、心に受け入れることが必要です。また謙虚な心になって、光一元にプラスに観て、プラスを心に受け入れることができれば最高です。そこへお祈りが加われば、鬼に金棒です。お祈りによって、無限の無限のプラスが心に浸透してくれば、心も現実も、無限の無限の幸せで一杯!になるのは、直ぐ間近です。




 人は常に、本心の心を生きるか、業想念の心を生きるか、二者択一を迫られているのです。本心の心を生きれば、大きな宇宙が自分になり、無限の無限の幸せで一杯!になるのです。業想念の心を生きれば、小さな個我が自分になり、七難八苦に見舞われるのです。今の一瞬を、どちらの心で生きるかが、問題なのです。本心の心は、お祈りを最優先にして、神さまから必要なものを受けて、それを他へ与え尽くすのです。業想念の心は、自分の願いを最優先にして、この世から欲しいものを横取りして、自分の所有にしようとするのです。どちらの生き方を実行するかによって、幸・不幸が決定されるのです。本心の心を生きれば、幸せへの道を歩んでいるのです。業想念の心を生きれば、不幸せへの道を歩んでいるのです。

 本心の心を生きる為には、『お祈りを実行する』ということが大事なのです。お祈りを実行するということは、必要なものはすべて、『神さまから受ける』ということです。一瞬一瞬新たに新たに、すべてを神さまから受け直せるようになれば、お祈りを実行して、本心の心を生きていることになるのです。個我の願い・思いを生きているのは、業想念の心を生きているのです。それではお祈りはできないのです。この世へ心が向いていては、お祈りにならないのです。お祈りは、心を神さまへ向けることです。この世へ向いている心を、神さまの方へ向け変えてゆくのが、お祈りの練習です。お祈りのできる自分になる為には、個我の願い・思いを一旦は捨て切って、この世への未練を断ち切って、神さまだけを思い続けることが大事なのです。

 お祈りのできる自分になることが、一番幸せなのです。神さまが与えて下さる、新たなる全徳の無限の無限の輝きを、感受できる自分になることが、一番大事なのです。他のことはすべて、枝葉の些細なことです。今自分自身お祈りができているかどうかが、一番の問題なのです。お祈りのできている自分であれば、悩んだり、迷ったりすることは、決して無いのです。お祈りのできている自分であれば、すべての問題は解決しているのです。業想念の心で幾ら考えても、悩んでも、迷っても、良くなることは決して無いのです。それよりもお祈りのできる自分になることが必要なのです。お祈りの練習をもっともっとしなければ、お祈りのできる自分にはなれないのです。お祈りの練習に最大限の努力を払うことが、この世の幸せを掴む為の、一番の近道なのです。この世から横取りした幸せは、直ぐに消えてしまうのです。神さまから縦取りした幸せは、永遠に持続するのです。他人のことを云々するよりも、お祈りのできる自分に、どうすれば早くなれるかを、しっかりと考えて生きなければならないのです。




 宇宙絶対神の御心に適っていれば、何事も『正しい』と言えるのです。正しければ、幸せが増大し、間違っていれば、苦痛が増大するのです。常に無限の無限の幸せで一杯!ならば、100パーセント正しい生き方になっているのです。常に無限の無限の苦痛で一杯!ならば、100パーセント間違った生き方になっているのです。すべての間違いを正して、100パーセント正しい生き方になるように、自分の生き方を今一度点検する必要があるのです。

 正しい神観、正しい世界観、正しい人生観、正しい人間観、・・・・・等々、どれ一つをとっても、100パーセント正しいものを把握するのは、至難の業です。だからこそ臆すること無く、真剣に正しいものを究明してゆかなければならないのです。常に無限の無限の幸せで一杯!の自分で無ければ、神さまからは、正しいと認めてもらえないのです。自分勝手に幾ら正しいと思っても、人間同士が正しいと認め合っても、何の役にも立たないのです。神さまが認めてくださる、本当の正しい生き方にならなければ、常に無限の無限の幸せで一杯!の自分には、決してなれないからです。

 宇宙絶対神の御心が、『正しい』すべての源です。宇宙絶対神の御心を、自分の心として受け入れることができれば、本心の心の自分になるのです。本心の心の自分をしっかりと生きることによって、すべてを正しくしてもらえるのです。宇宙絶対神の御心をそのまま自分の心として受け入れる為には、謙虚に謙虚に、どこまでも謙虚に、素直に素直に、どこまでも素直になることが必要です。どこまでも謙虚に、どこまでも素直になるには、自我の心を徹底的に否定し、消し去ることが必要です。自我の心とは、何でも自分の思い通りに・願い通りにしたい心です。この小さな自分の思い・願いを捨て切って、すべてを神さまの御心のままにと全託すれば、本心の自分に戻れるのです。

 宇宙絶対神の御心を生きようと一大決意するのは、本心の自分です。本心の自分であれば、常にすべてを神さまの御心のままにと、全託することができるのです。喜び勇んで、神さまの導きに従えるのです。神さまの導きは、常に今新たに出て来るものです。今「右へ行け」と指示があれば、それに素直に従い、次の瞬間に「左へ行け」と指示があれば、間髪をいれずそれに従うのです。一瞬一瞬自由自在に変化するのが、神さまの最高の知恵の働きです。移り変わるすべての状況に、最高最善の対処をするには、神さまの導きに100パーセント従うのが最良なのです。その為には自分の心を常に、謙虚な・素直な・澄み清まった状態にしておく必要があるのです。そして常に心を澄まして、神さまの導きに耳を傾けていなければならないのです。




 欲しいものを手に入れても、幸せにはなれないのです。したいことをしても、幸せにはなれないのです。本当に必要なものを手に入れたら、幸せになれるのです。本当に必要なことをしたら、幸せになれるのです。業想念の心をいくら満足させても、本当の幸せは得られないのです。本心(神さまの御心)の願いが叶えられた時に、本当の幸せが得られるのです。本心の願いは、ただ一つです。本心の自分を大きく輝かせることです。即ち真理を学び、お祈りを深めて、愛他行を実践し、神さまの御心をこの世に実現してゆくことです。

 自分にとって何が一番必要なのか? それを手に入れる為には、どうすればよいのか?先ず自分自身でしっかりと考えて、自分の進むべき正しい道を、自分で定めなければならないのです。業想念の心や他人の思い・願いに影響されていては、本心の自分の願いを生きることはできないのです。常に本心の心で一大決意して、勇猛邁進しなければならないのです。奴隷のような生き方では、決して幸せにはなれないのです。

 自分に必要なものを、神さまから直接に手に入れる為には、神さまへの絶対奉仕が必要なのです。神さまの御心を実現する為に、世界の平和とみんなの幸せの為に、自分のすべてを捧げ尽くさなければならないのです。真剣に祈り続け、真理を伝え、愛他行を実践しなければならないのです。神さまに与えたら、必要なものは確実に与え返されるのです。神さまに与えたら、必要なものは豊かに与え返されるのです。神さまに与えたら、必要なものは確実に受けられるのです。神さまに与えたら、必要なものは豊かに受けられるのです。神さまを相手にするのが、一番得策なのです。何故なら神さまは、自分に必要なすべてを、豊かに持っているからです。

 もしこの世のものから、自分に必要なものを、手に入れたいのであれば、自分の必要としているものを、豊かに持っている人へ、自分を与え尽くしてゆかなければならないのです。自分が必要としているものを持っていない人に、いくら求めても、与え返されることは決して無いからです。物々交換がこの世の習わしです。自分が必要としているものを持っている人に、相手が必要としているものを与えて、物々交換が成立するのです。直接の交換ができない場合は、他の人を介して、間接的に交換してもらえばよいのです。自分に必要なものを手に入れる為には、知恵が必要です。また他の人に必要とされるものを、沢山持っている自分にならなければならないのです。求めるばかりの業想念の心では、決して幸せにはなれないのです。与え尽くす本心の心をしっかりと生きて、本心を大きく輝かせ、与えるものを沢山持っている自分になることが、幸せへの道です。




 何をする場合でも、とことんやり抜けば、もやもやしたものが抜け落ちて、何かを掴めるものです。中途半端では、何も掴めないのです。お祈りの練習も、祈って祈って祈り抜けば、何かを掴めるのです。寝食を忘れる程に、とことん祈り続ければ、業想念の厚い壁も抜け落ちて、天空と一つに繋がるのです。誰でも一度は通過しなければならない関門です。周りからどんなに反対されても、妨害されても、馬鹿と言われても、気違いと言われても、一度はお祈りに没頭して、天の自分と地の自分とを、一つに繋がなければならないのです。本当の幸せ・無限の無限の幸せは、天と地の自分が一つになった時に、実感できるのです。チャンスは常に、『今』しか無いのです。『今』のチャンスを逃せば、二度とそのチャンスは巡って来ないのです。

 渦巻く濁流に翻弄されている木の葉が、表面に浮かび出るチャンスは、滅多に訪れて来ないものです。それと同じように、業想念の渦巻く濁流に呑み込まれたら、本心の自分に戻るチャンスは、二度と訪れては来ないものです。神さまの救いの御手(祈り言葉)を、しっかりと握り締めていなければ、業想念の渦巻く濁流に呑み込まれてしまうのです。そうなると苦しさの余りに、神さまの救いの御手(祈り言葉)をも、離してしまうことになるのです。泳ぎの達人でも、渦巻く濁流の中を泳ぐのは、大変なのです。命綱に支えられていてこそ、安全と言えるのです。だから祈り言葉を唱えることを、決して忘れたり、おろそかにしてはならないのです。

 溺れる者は藁をも掴むのです。業想念の渦巻く濁流に翻弄されている、世の中の大半の人々は、一寸でも自分の助けになると思ったら、何にでもしがみつこうとするものです。しがみつかれたら、泳ぎの達人でも、一緒に溺れてしまうものです。人を救うということは、業想念の渦巻く濁流の中から、その人を引き上げることです。その為には自分自身が安全な立場にいなければならないのです。岸にいるか、救命艇の上にいるか、命綱にしっかりと繋がっているかを、しっかりと確かめてから、救いの手を差し延べなければならないのです。我を忘れて飛び込んだら、自分も溺れてしまうのです。岸にいるというのは、本心の悟りの境地にいるということです。救命艇(如来の願船)の上にいるというのは、神さまの人類救済の働きに、自分のすべてを捧げ尽くして奉仕しているということです。命綱にしっかりと繋がっているというのは、いついかなる時にも、祈り言葉をしっかりと唱え続けているということです。どんな場合も先ず、自分自身が神さまの救いの御手を、しっかりと握り締めていなければならないのです。常に神さまに助けてもらえる自分でなければならないのです。




 マイホーム主義的な小さな生き方をしていては、神さまの大きな助けを受けることはできないのです。だから業想念の重みに押しつぶされて、七難八苦の状態に陥るのです。大きく全体の為に奉仕しなければ、神さまに大きく守ってもらえないのです。癌細胞のような利己的な生き方をしていては、反対に切り捨てられるのです。業想念の心のままでは、いずれは七難八苦に見舞われるのです。地獄のどん底に叩き込まれるのです。その覚悟ができているのなら、いつまででも業想念の心の奴隷になっていたらよいのです。神さまは本心の心に戻れと言って、決して無理強いはしないのです。各自の自由な選択に任されているのです。神さまの助けというものは、常に業想念の心を消し去って、本心の心に戻す為の働きです。業想念の心を満足させる為の助けでは無いのです。神さまは常に、業想念の心で自分の思い通りに・願い通りに生きようとするのを、止めようとして下さっているのです。何故なら自我の心を生きていては、本心の自分に戻ることができないからです。自我の心を主張すれば、業想念の心ばかりを引き寄せることになるのです。そして本心の自分を見失ってしまうのです。

 業想念の心というマイナスの泥沼に落ち込んだら、自力での脱出は不可能なのです。もがけばもがくほど、深みに沈んでゆくのです。そこから脱出する為には、神さまの大きな助けが必要なのです。謙虚に謙虚に、素直に素直に、神さまの救いの御手(守護の神霊)に縋らなければならないのです。守護の神霊にひたすら感謝し続けて、全託することが大事なのです。自分勝手なことをしていては、守護の神霊の働きを邪魔するだけです。守護の神霊の導きに素直に従う心を起こさなければ、その導きを自分から拒絶することになって、受けることはできないのです。守護の神霊の導きというものは、自我の心にとっては都合の悪いことばかりです。「良薬は口に苦し」であって、厳しく苦言を呈してくるものです。神さまの導きに従えば、必ず根本から万事が善くなって来るのです。

 高慢になるな! 他をマイナスに観てはいけないのです。他を責め裁いてはいけないのです。無知な浅知恵で、神さまを・真理の言葉を・正しい信仰者を悪く言っては、永遠に救ってもらえないのです。欲を出すな! 金儲けに走れば、大きく業想念を背負うことになるのです。贅沢をすれば、徳を失い、業想念を殖やすことになるのです。欲しいものを手に入れようとしてはいけないのです。必要なものだけで、満足しなければならないのです。決して借金をしてはならないのです。どんな貧乏・逆境・試練にも耐え抜かなければならないのです。人に物に金に頼らないで、内なる神の力を発揮して、その苦境を打開しなければならないのです。そうすれば本心の自分に戻れるのです。




 自分の蒔いたマイナスの種を、責任をもって刈り取ろうとしてこそ、本心の自分です。無責任に放置していては、マイナスはどんどん大きく殖え続けるのです。過去世からのマイナスの身口意の三業は、無限に大きくなっているのです。各自の蒔いてきたマイナスの種は、地球上の全ての樹木の数以上に、大きく育っているのです。そのすべてを切り倒して、焼き尽くすほどの、一大決意をもって取り組まなければ、マイナスを消し去ることはできないのです。無限の無限のプラスの祈り言葉を駆使して、死に物狂いで・命懸けで・真剣に・一心不乱に祈るのは、短期間に処理しなければ、マイナスを減らすことはできないからです。悠長なことをしていては、マイナスは大きく殖える一方です。

 永遠に業想念(五欲・煩悩)の奴隷となって、七難八苦や地獄の苦痛を味わっていたいのであれば、どんな生き方をしていても、その人の自由です。しかし七難八苦や地獄の苦痛から逃れたいのであれば、真剣に真祈りの道を歩まなければならないのです。『天(守護の神霊)は自ら助くる者を助く』というのは、自分自身が真剣に努力し続けてこそ、その願いが天に通じて、守護の神霊の御心を動かし、大きく助けていただけるようになるということです。自分の力だけでは、マイナスの全てを消し去ることは、不可能なのです。だから守護の神霊の助けを大きく受けるということが、マイナスの全てを消し去る為の絶対条件なのです。それ以外に救われる道は無いのです。

 守護の神霊の助けを受ける為には、(1)謙虚さ (2)素直さ (3)真剣さが必要です。自分の生き方の間違いを反省し・お詫びし・正して、真剣にその償いをする為に努力し続けることが大事なのです。甘く考えて、楽な生き方を願っていたら、落第です。守護の神霊の愛は、甘えかす愛では無く、峻厳な愛です。業想念の心を叩き潰し、本心の心を錬磨する為に、守護の神霊は付き添っているのです。本心の心を輝かす為の手助けをしてくれるのです。自分自身が本心の心を生きようと努力しなければ、守護の神霊の本当の大きな助けを受けることはできないのです。

 本心の自分を生きるということは、感謝報恩の道を真剣に実行することです。自分の思い通りに・願い通りにしたいという、一切の求める心を消し切って、与えられるままに感謝一筋に受け続けることです。贅沢をしないで、質素に生きることです。神さま以外の何ものにも頼らないことです。どんな借金もしないことです。そして一切の報いを求めることなく、報恩の心で、全力を尽くして、世の為・人の為に、神さまの御心のままに、奉仕することです。そうすれば神さまの加護を大きく受けて、本心の自覚は深まり、本心の自分は大きく輝いて来るのです。



 業想念の心の奴隷状態から、本心の心の自分に戻るチャンスは、滅多に訪れて来ない貴重なチャンスです。そのチャンスを活かして、本心の心の自分に戻れるかどうかは、真剣に取り組むかどうかで決まるのです。本心の自分に戻るということは、真祈りのできる自分に成るということです。その為には、真祈りとは何かを、正しく理解することが大切です。間違った先入観で、祈りを理解しているつもりでいたら、いくら祈りの練習を積み重ねても、逆効果になるのです。マイナスの言葉を使ったり、願いごとに思ったり、目的が御利益を得ることであっては、間違った先入観で観ているのです。

 真祈りとは、宇宙絶対統一神・天照大御神を、一瞬一瞬新たに、感受することです。新たなる全徳の無限の無限の輝きを、感受することです。だからこそ真祈りには、無限の無限の絶対価値があるのです。真祈りと比較したり、真祈りに追随できるものは、何一つも無いのです。真祈りは絶対であり、すべてなのです。真祈りのできる自分になる為には、自己のすべてを捧げ尽くして、真剣に取り組まなければならないのです。

 先ずは本心と業想念の違いを明確にすることです。譬えれば本心は太陽であり、業想念は雲です。業想念の雲をすべて消し切らなければ、本心の太陽を感受して一体化することはできないのです。業想念の雲を掴んで、その中に沈潜しているようでは、永遠に本心の自分には戻れないのです。それでは常に七難八苦や地獄の苦痛が付きまとうのです。業想念を自分と錯覚しないで、業想念の雲を消し去る立場に立つことが大切です。業想念を消し去る為には、祈り言葉を駆使して、守護の神霊の加護を受けることが必要です。それには過去世から積み重ねて来た、無限とも言える業想念(マイナスの想念行為の集積)を、自分自身が全責任を持って消し去るのだという、一大決意を示すことが大事なのです。自分自身が何の努力もしないで、助けを待つだけでは、守護の神霊の加護は無いのです。真祈りの練習・訓練・修行によって、始めて祈れる自分に成るのです。だから守護の神霊の加護を信じて、先ず自分自身が全力を尽くして、真剣に行じることが大切です。

 真祈りの練習・訓練・修行は、死に物狂いで・命懸けで・脇目も振らず・一心不乱に・真剣に取り組んでこそ、目に見えて効果が挙がるのです。熱湯を加え続けてこそ、片栗粉も透明になるのです。芯から燃え盛ってこそ、すべてを焼き尽くせるのです。寝食を忘れて、24時間ぶっ続けで祈れるようになれば、プラスアルファー(神さまの加護)を感受できるようになるのです。そのような自分にいつ成るかが、最も重大な課題です。先へ先へと先送りして、この世で祈れる自分に成らなかったら、折角のチャンスを無駄にして、捨ててしまったことになるのです。あの世では、二度とチャンスは無いのです。




 人には完全な自由が与えられているのです。だから何を選択しても、その人の自由なのです。何を目的にしても、どの方向に進んでも、誰と共に歩んでも、各自が自由に選択すればよいのです。神さまは相対の両極のすべてを用意して、人の選択の自由に任せているのです。神さまは人の自由を決して縛らないのです。地獄に向かって進んでいても、止めようとはしないのです。何故なら人が地獄に落ちるのでは無いからです。人(本心)は神さまの中に本住していて、苦しむことは決して無いのです。地獄界の体験も、テレビ番組を見ているように、ただ楽しんでいるだけなのです。神さまが与えて下さっている相対の両極のすべてから、自分自身が何を選び、何を受けるかの問題なのです。光一元に表現されている全ての中から、自分の味わいたいものを選ぶだけなのです。一瞬一瞬新たに新たに、選び直すだけなのです。

 本心の心を輝かせて生きるのも、業想念の心の奴隷となって生きるのも、各自の自由な選択の結果です。本心の心(謙虚・素直・喜び・感謝・奉仕・明るさ・自由・・)を生きれば、極楽の法楽を体験できるようになるのです。業想念の心(傲慢・頑固・悲しみ・不足・強奪・暗さ・縛り・・)を生きれば、地獄の苦痛を体験できるようになるのです。どちらの場合も、心行くまで十二分に味わい尽くせばよいので

 本心の心は感謝一筋に、無限の無限のプラスを受け続けてゆくだけです。業想念の心は自分の思いで自分自身を縛って、無限の無限のマイナスの状態にしてゆくだけです。どちらの生き方も、自分自身が自由に選択して、決定しているのです。自分自身が本当に願っている通りになるのです。悟り・神我一体・無限の無限の幸せを本当に願っていたら、必ず本心の心を生きようとするものです。本心の心は他人の生き方を縛ろうとは、決してしないものです。他人を自分の思い・願いで縛るのは、業想念の心です。自分自身が業想念の心を生きているから、地獄への道を歩むことになるのです。一瞬でも他を縛れば、自分は業想念の心を生きているのです。一瞬でも自分の所有だと思えば、業想念の心に陥っているのです。自分の親も子も妻も夫も、自分の所有だと思えば、業想念の心を生きているのです。神さまが今の一瞬間だけ、自分の親・子・妻・夫と現れて下さっているのだと、感謝一筋の心になれば、本心の心を生きているのです。一瞬でも自分の所有物(財産・物・お金・等々)を掴めば、業想念の心に陥っているのです。自分の所有物など微塵も無いと思える心が、本心の心なのです。すべてを神さまから、一瞬一瞬新たに受け直せる自分に成らなければ、未だ本心の自分を生きていることにはならないのです。





 正しい祈りとは、本心の心でする祈りです。間違った祈りとは、業想念の心でする祈りです。業想念の心(自我の心・五欲の心・煩悩の心)で、何でも自分の思い通りにしたいという、御利益を目的にする祈りは、間違った祈りです。この間違った御利益信仰の祈りでは、どれほど熱心に何万年続けようとも、業想念を積み重ねるだけで、何の役にも立たないのです。逆に自我が強くなって、マイナスになるのです。正しい祈りは、先ず業想念の心(自我の心・五欲の心・煩悩の心)を消し去る為に、正しい祈り言葉を唱えることから出発するのです。祈り言葉を唱えることによって、守護の神霊の加護を受け、業想念の心を消し去っていただくのです。業想念の心を微塵も残してはならないのです。そして本心の心の自分になって、自分の心を神さまの御心に合わせ切ってゆくのです。本心の自分の心を、神さまの御心に合わせてゆくのが、正しい祈りなのです。神さまの御心を顕現してゆく為に、自分のすべてを捧げ尽くして、謙虚に・素直に、神さまの御心に帰一・随順・奉仕してゆくのが、正しい祈りの根本なのです。業想念の心を消し去る為に、祈り言葉を唱えるのは、正しい祈りに入る為の準備段階です。業想念の心を消し去り・死に切った時から、正しい祈りの第一歩が始まるのです。
正しい祈りは、本心の心でする祈りです。
正しい祈りは、謙虚な心でする祈りです。
正しい祈りは、素直な心でする祈りです。
正しい祈りは、感謝の心でする祈りです。
正しい祈りは、明るい心でする祈りです。
正しい祈りは、喜びの心でする祈りです。
正しい祈りは、愛(一体感)の心でする祈りです。
正しい祈りは、幸せな心でする祈りです。
正しい祈りは、安らぎの心でする祈りです。
正しい祈りは、光の心でする祈りです。
 祈りを正しく理解し、祈りを正しく把握し、祈りを正しく実行することが大切です。正しい祈りは、本心の自分を最高に輝かせる為のものです。正しい祈りは、神さまと本心の自分との交流です。正しい祈りは、神我一体感を無限に無限に深める為のものです。正しい祈りは、本心の自分にとっては、すべてのすべてです。正しい祈りは、無限の無限の絶対価値有るものです。正しい祈りを祈れる自分になれば、神さまの全徳の無限の無限の輝きを感受できるのです。だから正しい祈りを祈れる自分になることが、唯一無二の・最高・最大の目的・目標・課題・願いでなければならないのです。

 祈りの修行のチャンスを逃すのは、無限の無限の価値有るものを捨てることです。祈りの真価値を少しでも信じられる者は、すべてを捨ててでも、祈りの修行に没頭するものです。三界のすべてを捨ててでも、出家するのは、この絶対価値有る祈りを、自分のものとして体感体得する為なのです。




 神さまに自分のすべてを捧げてこそ、神さまの大きな助けが受けられるのです。自分のすべてを捧げるといっても、神さまに捧げるのと人に捧げるのとでは、天地懸隔の差があるのです。神さまは全徳の無限の無限の輝きの持ち主です。人の持っているものは千差万別です。神さまに自分のすべてを捧げたら、神さまの全徳の無限の無限の輝きが与え返されるのです。人に自分のすべてを捧げたら、その人の持っているものが与え返されるのです。その人にプラスが多ければ、プラスのものが与え返されるのです。その人にマイナスが多ければ、マイナスのものが与え返されるのです。好きな人に自分のすべてを捧げる場合も、困っている人に自分のすべてを捧げる場合も、大きなプラスのお返しは期待できないものです。その覚悟はしておく必要があるのです。自分の自由意志で選んだ限りは、その責任はすべて自分自身に在るのです。

 自分の運命のすべては、自分の自由意志で決定したものばかりです。どんな不都合も自分が選んでいるのです。何事も自分が本当に決定したら、それを邪魔するものは何も存在しないのです。目標を立てて何かをする場合も、自分の心が本当に定まっていたら、不都合が生ずることは絶対に無いのです。もし邪魔するものが出て来るとすれば、それは自分の心が未だ定まっていないからです。一大決意をして進めば、鬼神もこれを避けて通るのです。目的・目標を本当に定めたら、必ずその通りに実現するのです。人の自由意志による決定は、絶対なのです。自分の決めた通りに、すべては成るのです。自分の決めた通りに、すべては成っているのです。

 自分の心を定めるのは、自分の使う言葉であり、自分の心に受け入れた言葉なのです。自分の使う言葉の通りに、自分の心に受け入れた言葉の通りに、自分の心は定まって来るのです。プラスの方向に進みたいのであれば、プラスの言葉を使うことです。マイナスの言葉を使えば、マイナスに進まなければならなくなるのです。プラスの言葉を使えば、プラスが実現するのです。マイナスの言葉を使えば、マイナスが実現するのです。すべては言葉の通りに成るのです。すべては言葉の通りに成っているのです。プラスの言葉を使えば、プラスが実現するのです。マイナスの言葉を使えば、マイナスが実現するのです。プラスの言葉を心に受け入れたら、プラスが実現するのです。マイナスの言葉を心に受け入れたら、マイナスが実現するのです。

 神さまに自分のすべてを捧げる一大決意をして進めば、神さまの無限の無限の加護を受け続けて、本心の心は最高に輝き、常に新たなる全徳の無限の無限の輝きで一杯の自分になれるのです。自分自身が何を選び、何を決意するかが大事なのです。




 本心の心に戻って自由自在に生きているのも、業想念の心の奴隷となって不自由に生きているのも、自分自身が選択して決定した結果なのです。極楽も地獄も、自分自身の運命として現れてくるのです。自分の運命は、自分自身が決定しているのです。神さまが与えてくる無限の無限の段階の運命の中から、自分自身がその一つを選んで、自分の運命として味わっているのです。だから他の誰の責任でも無いのです。自分自身に全責任があるのです。だから自分の運命の悪さを、他の所為にすればするほど、自分の運命はどんどん悪くなってゆくだけです。何故なら自分がマイナスを選んで、自分の心にマイナスを加えてゆくからです。他に責任を転嫁するような甘ったれた生き方では、自分の運命をプラスに改善してゆくことはできないのです。

 自分の運命をプラスに改善する為には、その為の正しい生き方を真剣に探し求め、それを実行しなければならないのです。運命を改善する為にはどうすれば良いのかを、苦労に苦労を重ねて、自分で探さなければ、自分の身に付かないのです。他から安易に教えられても、自分のものにはならないのです。自分の払った代償分だけが、自分のものになるのです。どんな真理の教えも、自分の命と引換えにするほどでなければ、自分のものにはならないのです。正しい祈りを教えてもらっても、その代償として何百生分もの生涯を捧げ尽くす覚悟をしなければ、正しい祈りを体得することはできないのです。この一生すらも捧げ尽くすことができない者に、無限の無限の価値有る正しい祈りが、自分のものになる道理は無いのです。無限に近い長歳月を難行苦行して、体得された阿弥陀様の悟りを、もし自分も得たいと願うならば、その同じ歳月を阿弥陀様に捧げ尽くすほどの覚悟がなければ、余りにも厚顔無恥な狡い奴と罵倒されても仕方が無いのです。

 業想念の渦巻く濁流の中から、浮かび出るチャンスは、無限億万分の一の確率です。その貴重なチャンスを与えてもらっても、神さまからの命綱(祈り言葉)にしっかりと縋って、本心の自分に戻り切らなければ、その折角のチャンスを捨てたことになるのです。中途半端な生き方では、本心の自分に戻り切ることは不可能なのです。自我の心を死に切って、徹底して本心の自分を生きようとしなければ、正しい祈りの練習もできないのです。正しい祈りの練習を、真剣に・命懸けで・一心不乱に積み重ねなければ、正しい祈りのできる本心の自分に戻ることは不可能なのです。何事も真剣さが大事なのです。救う側の守護の神霊は、真剣さを求めてくるのです。真剣さが無ければ、救われる側の自由意志がはっきりしないからです。真剣さがあれば、守護の神霊の大きな加護を受けて、短期間に自由自在な・無限の無限の幸せで一杯の本心の自分に戻してもらえるのです。




 祈りには無限の無限の段階があるのです。マイナスの祈りに無限の段階があり、プラスの祈りに無限の段階があるのです。その両方の祈りを合わせると、無限の無限の段階の祈りになるのです。間違った祈りに無限の段階があり、正しい祈りに無限の段階があるのです。その両方を合わせると、無限の無限の段階になるのです。人は誰もが祈り続けているのです。この世であっても、あの世であっても、絶対の世界であっても、自分というものが存在する限りは、どの段階かの祈りを祈り続けているのです。

 祈りとは、言葉の実現力のことです。祈るとは、言葉を駆使して、言葉通りの運命を実現してゆくことです。人は皆、自分の使う言葉通りの運命を実現して、それを享受しているのです。マイナスの言葉を使えば、マイナスの運命が必ず実現するのです。プラスの言葉を使えば、プラスの運命が必ず実現するのです。自分の使う言葉通りに、運命は必ず実現してくるのです。

 祈りの実現力、言葉の実現力にも、無限の無限の段階があるのです。一心不乱に祈り続ければ、その実現力は大きくなってくるのです。一途に思い詰めれば、その実現力は大きくなってくるのです。その実現力は、マイナスにもプラスにも働くのです。人を責め裁いたり、怒ったり、憎んだり、恨んだり、悲しんだりすれば、マイナスの運命を大きく実現することになるのです。褒め讃え、感謝し、喜べば、プラスの運命を大きく実現することになるのです。神さまの全徳の無限の無限の輝きを、褒め讃え、感謝し、喜べば、無限の無限のプラスの運命が実現してくるのです。

 理想と現実の違いは大きいものです。神さまを直視すれば、理想は現実化するのです。神さまを無視すれば、理想は遠くなるのです。現実を直視すれば、現実を繰り返すことになるのです。現実のマイナスを見つめれば、そのマイナスを繰り返すことになるのです。現実のプラスを見つめれば、そのプラスを繰り返すことになるのです。現実を掴んで言葉にすれば、現実以上の進歩は無いのです。現実を心から放し、理想を言葉にすれば、大きく進歩するのです。人類の歴史を振り返って見ても、理想を夢を言葉にした者が、それらを現実化しているのです。

 神さまの世界を、極楽世界を、無限の無限の幸せを、この世に現実化する為には、最高のプラスの言葉を駆使して、祈り続けなければならないのです。正しい祈り・最高のプラスの祈りをマスターする為には、正しく学び、正しく練習を積み重ねることが大切です。正しい・力の有る祈りの先達の助けを受けて、祈りの練習を積み重ねれば、自力の練習の何万倍以上の成果を得ることもできるのです。我流の自力では進歩は遅いのです。



 自分の見ている世界というのは、鏡に写すように、自分の心を写し出してくれているのです。自分の心の中に何があるのかを、教えてくれているのです。自分の見ている世界が地獄であれば、自分の心の中は七難八苦の業想念の心で一杯なのです。自分の見ている世界が極楽であれば、自分の心の中は常楽我浄の本心の心が輝いているのです。人は業想念の心を消し去って、本心の心を輝かすことによって、無限の無限の幸せで一杯の自分になれるのです。だから幸せになる為には、すべての心の汚れ(業想念の心)を消し去って、本心の心を立派に磨き出さなければならないのです。自分の心を立派に磨き出す為には、自分の心の状態を的確に知る必要があるのです。そしてその心の汚れのすべてを消し切らなければならないのです。

 自我の心(業想念の心・心の汚れ)を自分と思っている間は、心の汚れを消そうとは思わないものです。また『環境は自分の心を写す鏡』であるということにも気付かないものです。だから何の反省も無く、業想念の心を積み重ねて、いつまでも七難八苦の業想念の心の状態が続くのです。人は真理の言葉に触れて、本心の自分に気付いた時から、自我の心(汚れ)を消し去ろうとし始めるのです。本心の心をダイヤモンドに例えると、自我の心はその表面に付着している汚れです。本心の心は、神さまの全徳の無限の無限の輝きで一杯!の心です。自我の心は、業想念の心・五欲の心・煩悩の心です。本心の心が本当の自分なのだと判れば、無限の無限の幸せで一杯!になれるのです。自我の心が自分なのだと錯覚していたら、誰でも七難八苦の業想念の心に陥るのです。

 自我の心を満足させようとしていては、永遠に七難八苦の業想念の心の奴隷状態です。それでは本心の自分に戻ることはできないのです。本心の自分に戻れなければ、本当の幸せは絶対に掴めないのです。本心の自分に戻って、自我の心(業想念の心)を消し去ることによってのみ、七難八苦は消えてゆくのです。七難八苦を無くす為には、自我の心を消し去ることが必要なのです。本当の幸せを掴む為には、本心の自分に戻ることが必要なのです。それ以外に方法は無いのです。このことに気付いた者のみが、本当の幸せを掴むことができるのです。

 環境に写し出された姿を見て、自分の心の状態を知り、そこへ祈り言葉(無限の無限のプラス)を加えることによって、的確にマイナスを消し去って、心の内外共に無限の無限の幸せで一杯!の状態に改善してゆけるのです。先覚者・先達の助けを、自分勝手に拒絶していては、永遠に本心の自分に戻れないのです。いつまでも自分を欺いていては、誰の人生か判らなくなってしまうのです。



 『朱に交われば赤くなる』という諺は、環境の持つ影響力の凄さを示しているのです。どんなに強い人でも、少しは環境からの影響を受けるものです。弱い人はもろに影響を受けて、環境の奴隷になってしまうものです。『孟母三遷の教え』のように、より良き環境を選ぶことも、時には必要なことなのです。本心の輝いている人は、強い人です。本心の輝いている人は、一瞬一瞬新たに、神さまからすべてを受け直せるのです。だから環境に影響されないで、環境を自在に改変してゆけるのです。反対に本心の隠された人は、弱い人です。執着心が強くなって、環境からの影響を受け易くなるのです。執着の心が積み重なると、業想念の心が厚くなり、自我が強くなるのです。自我の強い人には、業想念を消し去る力が無いのです。だから益々業想念を積み重ね、業想念の奴隷に陥ってしまうのです。業想念を消し去って、運命を改善することができないので、いつも七難八苦が影のように付きまとうのです。

 人は本心の自覚を深めることによって、運命・環境の支配者に成れるのです。人は本心の自覚を失った時に、運命・環境の奴隷に成り下がるのです。本心の輝くところに、幸せは自然に集まって来るのです。本心の心は磁石のように、幸せだけを引き寄せるのです。業想念の心は磁石のように、七難八苦を引き寄せるのです。真実の幸せを願う者は、本心の自覚を深め、本心を輝かせる道を歩まなければならないのです。その為には本心の心を輝かせている人に接して、その感化を受けるようにするのが最善なのです。本心の自分に戻り切るまでは、環境を選ぶことも大切なのです。しかし利己的に助けを求めるばかりでは、本心の自分には戻れないのです。与える心を起こすことが大事なのです。だから神さまへの奉仕を心掛ける必要があるのです。世界の平和の為に、人類の幸せの為に、大きく生きることが、本心の自分の生き方なのです。

 人は同じ目的・目標を持って、同じ方向に進む場合にのみ、共に助け合うことができるのです。目的・目標が異なって、反対の方向に進む場合には、足の引っ張り合いになるのです。だから共通の目的・目標を見出せなければ、別々に歩む方が良いのです。一つの家庭・グループ・団体・組織等においても、一人反対の方向に進む人が居るだけで、大きなマイナスの要因になるものです。お互いに目的・目標を、心にしっかりと確認し合って、歩調を合わせることによって、大きな成果をあげることができるのです。人の自由意志というものは、最高に尊重されなければならないのです。人は自分の自由意志を殺して、他の犠牲になる必要は無いのです。また他に犠牲を強いるのも、大きな間違いです。自分の人生は、自分の責任なのです。他に責任を転嫁するのは、筋違いなのです。



 本心の心が輝いていたら、いつも新たなる無限の無限の幸せで一杯なのです。業想念の心の奴隷に陥っていたら、いつも七難八苦に見舞われるのです。新たなる無限の無限の幸せの本源は、神さまなのです。一切の幸せは、神さまから与えられるものなのです。心を神さまに向けることによって、すべての幸せを感受することができるのです。ありがとうございますと感謝の心を起こすことによって、神さまの働きをしっかりと認めることができるのです。無限の無限の幸せを、神さまは新たに新たに、与え続けて下さっているのです。無限の無限の幸せを、神さまはみんなに平等に、与え続けて下さっているのです。人にとって本当の自分とは、本心の心なのです。本心の心に対して、神さまは無限の無限の幸せを与えて下さっているのです。だから人が幸せになる為には、先ず本心の心の自分に戻ることが大切なのです。本心の心を自覚し、本心の心を輝かせることが大事なのです。本心の心をしっかりと生きていたら、いつも無限の無限の幸せで一杯に成れるのです。本心の心とは、謙虚な心・素直な心・明るい心・喜びの心・感謝の心・等々です。神さまの御心と一体のプラスの心です。本心の心(光の心)さえ輝いていたら、決して業想念の心(闇の心)に陥ることは無いのです。

 本心の心は、本物の世界に生きるのです。業想念の心は、偽物の世界に生きるのです。本心の心にとっては、神さまだけがすべてなのです。業想念の心にとっては、自分の心という色眼鏡を通して見る世界がすべてなのです。本心の心は、実物と鏡に写る姿の区別ができるのです。本心の心は、実物に真価値を見出すのです。だから現実(鏡に写る姿)に囚われることが無いのです。業想念の心は、実物を見失っているのです。だから現実(鏡に写る姿)に囚われることになるのです。本心の心は、大海を見渡せるのです。業想念の心は、井の中の蛙です。

 真実の幸せ(新たなる無限の無限の幸せ)を願う者は、本心開発の道を歩まなければならないのです。本心の自分に戻らなければ、真実の幸せを得ることは不可能なのです。現実の七難八苦から、真実に解放される為には、本心の心に戻る以外に方法は無いのです。現実の世界でどんなに逃げ回っても、現実の楽を追い求めている限りは、七難八苦からは逃げきれないのです。現実の世界という同じ場に居る限りは、捕まってしまうものです。現実の世界から抜け出て、神さまの世界に住むことです。現実に執着しなければ、神さまの世界に入れるのです。現実の姿(鏡に写っている姿)は、自然に移り変わり、自然に消え去ってゆくのです。実体の無い・儚い・空しいものを追い回さないで、永遠不滅の神さまにしっかりと心を据えることが大切なのです。





 自我の心を生きようとしていては、過去世からの業想念を引きずることになるのです。だからすべてにおいて行き詰まり、七難八苦に見舞われることになるのです。それは自業自得なのです。自我の思い・願いを生きようとすることは、神さまを利用しようとしているだけなのです。それでは少しも神さまの為になっていないのです。与えたものが与え返されるというのが、厳然たる法則です。神さまに対して何も与えていないから、神さまの大きな助けを受け損なうことになるのです。神さまの助けを受け損なうということは、自我の心を消し去ってもらえないということです。だからますます自我の心が強くなるのです。そして自我の心が積み重なって飽和状態になると、自壊作用を起こして、七難八苦の状態になるのです。それを永遠に繰り返すことになるのです。

 自分のすべてを捧げ尽くして、神さまの為に生きようとすれば、神さまの大きな助けを受けることができるのです。本心の心は、自分のすべてを神さまに捧げ尽くして、神さまからすべてを受け直すのです。本心の心を生きようと前向きに努力すれば、神さまの大きな助けを受けて、自我の心を消し去ってもらえるのです。自我の心が七難八苦の元凶なのです。だから自我の心を微塵も残してはならないのです。自我の心が消え去って、本心の心が輝けば、いつも無限の無限の幸せで一杯なのです。純粋に神さまの為だけに生きるようになれば、自我の心を速やかに消し去ってもらえるのです。自分の為で無くても、他の人の為にというのも、未だ自我の心の生き方なのです。

 人は二人の主に仕えることはできないのです。自我の心を生きるか、本心の心を生きるか、そのどちらかを選ばなければならないのです。自我の心を生きようとすれば、業想念の心と一体化して、その奴隷になってしまうのです。本心の心を生きようとすれば、神さまと一体化して、神さまに成れるのです。業想念の心の奴隷には、いつも七難八苦が待っているのです。神さまに成れば、いつも無限の無限の幸せで一杯なのです。自我の心を少しでも掴んで、その自我の心を自分の心として生きようとすると、謙虚な本心の心の方は引っ込んでしまうのです。幸せに成りたいのであれば、幸せに成る為には、自我の心を徹底的に切り捨て、消し切ることが必要なのです。そして本心の心をしっかりと生きるように努力し続けることです。本心の心を生きるということは、神さまの為だけに生きることです。神さまの為だけに生きるということは、神さまに心を向けて、ひたすらに神さまに感謝し続けることです。そうすれば自然に、神さまの御心に帰一・随順・奉仕できて、いつも無限の無限の幸せで一杯に成れるのです。自我の心(五欲の心・業想念の心・煩悩の心)の巧妙な誘惑に、絶対に負けてはならないのです。





 自分の運命は、自分自身の作品です。自分自身の心を表現しているのです。自分の心がプラスであれば、必ずプラスの運命になるのです。自分の心がマイナスであれば、必ずマイナスの運命になるのです。自分の運命は、自分の心を鏡に写し出すように、現れて来るのです。自分の運命の責任は、すべて自分自身に在るのです。それを他の所為にしているのは、大きな間違いです。自分の心が変化すれば、運命は必ず変化するのです。自分の心がプラスに変化すれば、必ず運命は好転するのです。自分の心がマイナスに変化すれば、必ず運命は悪化するのです。自分の運命をプラスに変える為には、自分の心をプラスに変える以外に方法は無いのです。自分の心の調律を怠っていては、現実にどんなに足掻いても、運命が善くなる道理は無いのです。

 現実に執着する心は、環境の影響を大きく受けてしまうものです。だから業想念の心では、運命を支配することはできないのです。運命を自由自在に支配できるのは、本心の心の自分です。本心の心の自分は、一瞬一瞬新たに、神さまの全徳の無限の無限の輝きを受け直せる心です。だから短期間に、自分の心をプラスに置き変えることができるのです。神さまは、輝く身と鏡という、二面性を持っているのです。神さまに心を向ければ、全徳の無限の無限の輝きとなって現れるのです。神さまに背を向ければ、鏡となって、人の心を写し出して下さるのです。だから神さまに心を向ける時間の多い人ほど、運命は速く良くなるのです。

 神さまを正しく信じて、正しくお祈りを実行すれば、必ず無限の無限の幸せで一杯!に成れるのです。神さまを忘れ、神さまを無視すれば、必ず幸せから遠ざかることになるのです。神さまの全徳の無限の無限の輝きを感受できる自分になれば、いつも無限の無限の幸せで一杯!なのです。その為には先ず、お祈りの練習を積み重ねて、本心の自分に戻ることです。そうすればいつも、神さまの全徳の無限の無限の輝きを感受できるのです。また現実に執着することなく、移り変わる運命を楽しむこともできるのです。

 自我の心を死に切って、本心の心を生きようとすれば、すべての問題は一挙に解決するのです。自我の心にしがみついているから、いつまでも七難八苦が付き纏うのです。現実ばかりを見ていないで、神さまに心を向けることが大事なのです。神さまに心を向けさえすれば、すべての問題は既に解決しているのです。神さまに心を向け続ける為には、神さまに自分のいのちを捧げ、神さまの為に生きようとすることが、必要不可欠なのです。自分の為に生きても、他人の為に生きても、業想念の心に陥るのです。神さまの為だけに生きてこそ、本心の心の自分に戻ることができるのです。




 神さまに自分のすべてを捧げ尽くすことが、神さまの大きな助けを受ける為の必須条件なのです。人は自分の信念に相応しい運命を感受しているのです。他に対して求めるばかりの心では、他から求められるばかりの運命になるのです。他に対して与えたものの代償を求める心では、自分の与えたもの以上のものを与え返されることは決して無いのです。だから一切の報いを求めないで与え尽くす心にならない限りは、神さまの無償の愛の助けを大きく受けることはできないのです。『与えたものが与え返される』という因縁因果の法則は、常に厳然と働いているのです。人に対しても、神さまに対しても、同じです。この世においても、あの世においても、自分の与えたものが、他から与え返されるのです。先に与えた者は、利息を付けて返して貰えるのです。先に借りた者は、利息を付けて返さなければならないのです。

 神さまへの感謝報恩行を実行してゆくことが、本心開発の道です。神さまの大きな助けを受けて、過去世からの無限の業想念を消し去り、本心を開発していただく為には、ひたすらなる神さまへの感謝と報恩行が必要なのです。マイホーム主義的な生き方では、神さまの大きな助けを受け損なってしまうのです。利己的な小さな生き方に固執していては、業想念の心を消し去って、本心の自分に戻ることはできないのです。自我の心を生きている限りは、過去世に積み重ねた業想念を背負い続けなければならないのです。過去世の借金返しに追われるのは当然のことなのです。本心の自分に戻ってこそ、一瞬一瞬新たに、無限の無限の幸せで一杯の運命を、神さまから感受できるのです。

 この世においても、あの世においても、移り変わる姿に執着することは、消え去ろうとするシャボン玉にしがみつくようなものです。しがみつけば、必ず壊れるのが道理です。執着の心では、本当の幸せを掴めないのです。神さまから吹き出されて来る無限の無限のシャボン玉を、新たに新たに受け直してこそ、本当の幸せを掴んだことになるのです。永遠の幸せを掴む秘訣は、執着の心を捨てて、本心の自分に戻ることなのです。

 神さまへの奉仕は、神さまの助けを受け易くする為に必要なだけです。神さまの助けを必要としないのであれば、自分の好き勝手に生きればよいのです。その人は業想念の心のままで終わるのです。本心の自分に戻りたいのであれば、何が何でも、神さまへの奉仕に生きなければならないのです。最初はマイナスの奉仕であっても、自分の背負っているマイナスを大きく消し去っていただけるのです。その内にだんだんとプラスの奉仕に変化してきて、プラスを大きく殖やしていただけるようになるのです。そうすれば本心の心が大きく輝くようになるのです。




 因縁因果の法則は、常に厳然と働いているのです。他に対して何を与えて来たか、他から何を受けて来たか、その貸借関係は、必ず清算されることになるのです。他に対して、プラスを与えた者は、必ずプラスを与え返されるのです。マイナスを与えた者は、必ずマイナスを与え返されるのです。他にプラスを与えて来た者は、心にプラスが蓄積されるのです。他にマイナスを与えて来た者は、心にマイナスが蓄積されるのです。心に蓄積されたプラスは貯金です。心に蓄積されたマイナスは借金です。貯金の多い者は、利息が付いて、独りでに貯金が殖えてゆくのです。借金の多い者は、高利が付いて、みるみる借金が膨らんでゆくのです。心に蓄積された借金というのは、七難八苦の心となるのです。心が七難八苦の状態になれば、マイナスばかりを撒き散らすことになるのです。だから益々借金が殖えてゆくのです。

 他にプラスを与えるということは、他を幸せにするということです。幸せを与えるということは、自我の欲望を満足させることでは無いのです。幸せな心にすることなのです。換言すれば、感謝されるものを与えることなのです。感謝の心が湧き出て来るような与え方をすることです。業想念の心の付着したものでは、それがどんなに高価であっても、感謝の心を起こさせることはできないのです。不労所得の業想念で一杯のお金で買ったものは、毒饅頭と同じものであって、決して相手を幸せにすることは無いのです。また報いを求める心で与えたものも、業想念で一杯なので、マイナスを与えたことになるものです。本心の心が必要としているものを与えれば、必ず感謝されるのです。自我の心で欲しがるものを与えても、決して感謝されることは無いのです。本心の心が必要とするものは、神さまが与えようとしているものです。それには神さまの光が籠もっているのです。だから誰を通して与えられても、神さまの光を感じて感謝できるのです。

 心をプラスにする一番の方法は、お祈りを深めて、神さまから直接に、無限の無限のプラスを受けることです。心がプラスに成れば、必ず現実の運命もプラスになるのです。お祈りに自分のすべてを捧げるようになれば、神さまから常に、無限の無限のプラスを受けることができるのです。次には借金を一日も早く返そうとすることです。過去世から積み重ねた無限の借金は、七難八苦を喜んで喜んで受け続けることによって、速やかに消し去っていただけるのです。七難八苦は借金取りの姿です。借金取りを大恩人として、喜んで喜んで迎えれば、その借金を軽くしていただけるものです。一切の求める心を捨てて、与えられるままに感謝を深めて受けることが、また報い求めず与え尽くす心に成ることが、神さまへの感謝報恩行を生きることになるのです。




 神さまへの感謝報恩行に生きるようになってこそ、本心の自分に戻れるのです。自我の欲望を満足させる為に生きていては、いつまで経っても業想念の心の奴隷のままです。何事も徹底しなければ、本物は掴めないのです。中途半端では、右往左往するだけです。自分のすべてを神さまに捧げ尽くすようになれば、神さまを感受できるのです。そうすれば自分の心はいつも、無限の無限の幸せで一杯になるのです。自分の見ている世界は、自分の心の投影です。自分の心が幸せであれば、現実の運命も必ず幸せになるのです。自分の心と現実の運命は、全く一つのものなのです。自分の心が変化すれば、必ず自分の運命も変化するのです。自分の心を変えることによってのみ、自分の運命を変えることができるのです。

 自分の心をプラスに変えてゆく為には、守護の神霊の大きな加護が必要なのです。業想念の心・マイナスの心では、自分の心をプラスに変えてゆくことはできないのです。守護の神霊に縋って、その助けを受けるようにしなければならないのです。謙虚な心・素直な心・真剣な心を奮い起こして、先ずは祈り言葉を唱え続けることが大切なのです。現実のマイナスを見ていては、自分の心をマイナスに変えてゆくだけです。現実を見るのであれば、マイナスの極から光一元に眺めて、すべてをプラスに見直して、褒め讃え・感謝し・喜ぶことが大事なのです。

 自分のすべてを神さまに委ねる全託行によって、自我の心を本心の心に置き換えていただけるのです。自我の心を生きようとしていては、神さまの助けを拒絶し続けていることになるのです。自我の心を主張している限りは、神さまの出番は無いのです。自我の心を大事に掴んでいるのに、無理やり本心の心と置き換えることはできないのです。玩具の自動車で満足している子供は、本物の自動車を与えようとしても、受け入れないようなものです。自分自身が本物を必要とするようにならなければ、本物を受け入れることはできないのです。自我の心は偽物・玩具なのです。本心の心が本物なのです。現実の世界は偽物なのです。神さまの世界が本物なのです。だから自我の心は現実に執着し、本心の心は神さまの世界に向くのです。

 飢え乾く者のように真剣に、本心・神さまの御心を捜し求めるようにならなければ、未だ本心の心を本当に必要としていないのです。本心の力を発揮しなければ解決できない問題が山積して来てこそ、本心の力を捜し求めるようになるものです。心も現実も七難八苦の状態で一杯になってくれば、必然的に本心の心を必要とするようになるものです。マイナスの極に立って謙虚になりさえすれば、神さまの助けが受けられるのです。




 自我の心を死に切って、謙虚に謙虚になることが、正しい信仰の第一歩なのです。宇宙絶対神と一体の自覚を得る為には、自我の心を完全に死に切らなければならないのです。自我の心を生きていては、絶対神と出会うことは永遠に不可能なのです。自我の心は自分を主張する心です。絶対神の心は無限に無限に謙虚な心です。絶対神は絶対の力の持ち主ですから、自分の力を誇示する必要は全く無いのです。反対にその無限の無限の力を極力隠そうとするのです。絶対神の真の姿を見せていただく為には、どこどこまでも謙虚に、どこどこまでも素直に、どこどこまでも真剣にならなければならないのです。思いやりの心で、自分の心境に合わせてもらった姿は、絶対神の真の姿では無いのです。自分の心境が低ければ、その低い波長に合うものしか感受できないのです。絶対神に出会う為には、自分の心の波長を、自分の方から絶対神の心に合わせてゆかなければならないのです。自分に合わせてもらって喜んでいるのは、自我の心の生き方です。本心の心の生き方は、自分の方から絶対神に合わせてゆかなければならないのです。

 絶対神の心は無限の無限のプラスの心です。無限に無限に謙虚な心の中へ、絶対神の無限の無限のプラスが流れ入って来るのです。無限に無限に謙虚な心とは、過去の一切の掴みを放して、一瞬一瞬新たに、絶対神の全徳の無限の無限の輝きを、マイナスの極から受け直そうとする心です。無限に無限に素直な心になれば、絶対神の無限の無限のプラスを感受できるのです。無限に無限に素直な心とは、自我の願い・思いの一切を捨て切って、一瞬一瞬新たに、無条件ですべてを感謝一筋に受け続ける心です。無限に無限に真剣な心になれば、すべてに絶対価値を見出せるのです。無限に無限に真剣な心とは、自我を完全に死に切ってマイナスの極に立ち、人に物に他の一切に頼らないで、絶対神から直接に、今の一瞬に、すべてを受ける心です。即ち時間を今の一瞬に絞り込んで、心を絶対神のみに一点集中することです。

 絶対神の無限の無限の愛を本当に信じていたら、本当に信じたいのであれば、絶対神から直接にすべてを受けるようにすることが大切です。一瞬一瞬新たに新たに、すべてを絶対神の愛の現れとして、絶対神から直接に受け続けるのです。絶対神と自分との間には、何一つとして介在する余地の無いほどに、絶対神のみを思い続けるのです。絶対神の全徳の無限の無限の輝きだけを、祈り言葉(無限の無限の幸せが一杯! 無限の無限の喜びが一杯! 無限の無限の安らぎが一杯! 無限の無限の平和が一杯! 無限の無限の調和が一杯! 無限の無限の恵みが一杯! 無限の無限の健康が一杯! ・・・・・・・・・・)を駆使して、感受し続けようとすることです。




 鼎(カナエ)(古代中国で食物を煮るのに用いた金属製の容器。普通は三本脚。)の三脚は、三本とも長すぎることもなく、短すぎることもなく、バランスがとれていてこそ、その役目を完全に果たすことができるのです。三本の脚の中で一本でも高慢になると、即ち自分は他の二本の脚より偉いんだとばかりに、自分の足を長く伸ばしたとすれば、全体のバランスが崩れて、鼎はひっくり返ってしまうのです。また卑下慢になって、自分は駄目なのだ駄目なのだと、自分の足を短く縮めたとすれば、これもまた全体のバランスが崩れて、鼎はひっくり返ってしまうのです。我(自分)を出すということは、全体のバランスを崩すだけではなく、大事な仲間にも嫌われて、仲間を失うことにもなるのです。鼎の三脚は、その中のどの一つを失っても、全体の破滅に繋がるのです。

 家庭においても、会社においても、一人でも我の強い人が居ると、その家庭の幸せも、その会社の調和も破壊されてしまうものなのです。例えば高慢な父親が、自分が働いているから、お前たちは生きていけるのだ、などと恩着せがましく言ったとすれば、家族の全員から反発を食らうのは必至です。真実は一人一人の守護霊守護神が、必要なものを与えて生かして下さっているのです。父親は単にそのパイプ役となったに過ぎないのです。それを自分の力でしてやったのだと強弁すること自体、大変な間違いなのです。一人一人の本心は、このことを良く知っているのです。ちょっと我を出すだけでも、反発し合い・いがみ合いになって、みんなの幸せは大きく破壊されてしまうのです。会社においても、給料を払って雇ってやっているのだ、と言う傲慢な社長が居ると、会社全体の和が崩れるものです。仕事も嫌々するから、生き甲斐も喜びも無くなって、暗い不調和な雰囲気で一杯になるものです。高慢になれば、人の短所欠点を責め裁くようになるのです。卑下慢になれば、人の長所美点を羨んで陰口(悪口)を言うようになるのです。どちらも大きな災いを撒き散らすものなのです。

 幸せな家庭、調和した会社にする為には、お互いに“褒め讃え合い・感謝し合い・喜び合う”ということが絶対に必要なのです。家庭が幸せなのは、家族みんなのお蔭です。お互いの長所美点を褒め讃え合い、真心からお互いの存在・働きに感謝し合い、みんなのお蔭で自分はこんなにも幸せなのだと、喜びを表現し合わなければならないのです。会社が繁栄しているのも、社員みんなのお蔭です。お互いに褒め讃え合い、感謝し合い、喜び合わなければならないのです。『褒め讃え・感謝し・喜ぶ』ということは、神さまの御心・全徳の無限の無限の輝きを、顕現する為の必須条件なのです。このことはまた三大根本神力による宇宙創造の根本神律でもあるのです。




 偽我(五欲・業想念・自我)の生き方を捨てて、真我(本心・神我)の生き方を徹底してゆくことによって、本当の幸せ(無限の無限の幸せ)を掴むことができるのです。偽我はマイナスの心なので、マイナスを大きく引き寄せるのです。真我はプラスの心なので、プラスを大きく引き寄せるのです。偽我の欲望を満足させる為に生きていては、業想念を積み重ねるだけです。結局は大きな苦渋を味わうことになるのです。求める心(不平不満不足の心)というものは、常にマイナスを多く吸収して、どんどん大きなマイナスの心に陥ってゆくのです。心の向きが、心の波長が、マイナスに合うからです。マイナスの心は同じマイナスの波の感応を受けて、マイナスの多い状態になってゆくのです。本当にプラスの救い(助け)を受ける為には、救い(助け)を与える心になることが必要なのです。心の波長を神さまの御心に合わせてゆくことが大事なのです。真我(本心・神我)の立場に立つ時に、始めて本当の助けを受けることができるのです。プラスの心になれば、同じプラスの波を感受できるのです。

 真我の生き方になる為には、神さま(全徳の無限の無限の輝き)に心を向けて、神さまから必要なものを受けなければならないのです。感謝を徹底し、感謝を深めてゆくことが大事なのです。感謝の祈り(真祈り)に時間(生命)を懸けなければならないのです。心の向きが、プラスの方へ向いていなければならないのです。現実ばかりを見ていては、マイナスに心を向けることになって、マイナスを心に吸収するだけでは無く、プラスを吸い取られてゆくのです。マイナスの心に傾けば傾くほど、感謝の祈りができなくなって、益々マイナスの多い心に陥ってゆくのです。悪循環になるのです。

 自分にとって本当に必要なものは何か、しっかりと識別しなければならないのです。本当に偽我のままで良いのか、それとも真我に戻りたいのか、自分自身がしっかりと選ばなければならないのです。偽我のままでは、業想念を積み重ねるだけで、必ず七難八苦の極・地獄のどん底に落ちてゆくのです。その道理が判らなければ、判っている人の助言を参考にすれば良いのです。自分自身で体験しなければ納得できないというのであれば、その生き方を徹底すれば良いのです。ここでも偽我を生きるか、真我を生きるかの選択を迫られているのです。偽我は我の主張が強いのです。真我は謙虚に他の助言を受けるのです。自分に必要なものは、神さまに感謝して、神さまから直接に受けることが大事なのです。神さまを無視し、神さまを忘れて、現実世界から幸せを得ようとしても、無理なのです。この道理に早く気付いて、生き方を正しくしてゆかなければ、真我(本心)に戻るチャンスも虚しく消え去ってしまうのです。



 本当に幸せを得たいのであれば、一切の報いを求めずに、与えて与えて与え尽くす生き方を実践することです。報いを求めずに与え尽くす心にならなければ、神さまのバック・アップ(応援)は受けられないのです。求める心(奪う心)に波長の合うものは、業想念の心・七難八苦です。すべて自分の心に波長の合うものを感受することになるのです。常に本心の心(感謝の心・報恩の心・愛他の心)をしっかりと生きることによって、神さまの完璧な護りの中に自分を置くことができるのです。神さまから直接に、一瞬一瞬新たに新たに、すべての幸せを受け直せるようになってこそ、本当の幸せを得ることができるのです。一切の幸せを得る秘訣は、神さまに波長を合わせることなのです。自分の心を神さまの御心に合わせて、神さまとして生きることです。神さまの御心を実現する為に、神さまに成り代わって、全力を尽くして働くことです。粉骨砕身して、新たに新たに生まれ変わることです。そうすれば常に極楽世界に住むことができるのです。

 少しでも求める心を持っていたら、七難八苦の状態に陥るものです。求める心というものは、瞬時に七難八苦に波長があって、それを引き寄せるからです。また他からの援助を受けるということは、それに付着してくる求める心をも引き受けることになって、それを自分の心として持つことになるのです。一切の報いを求めることの無い、神さまから直接に受けない限りは、どんなものにも業想念(求める心)が付着しているのです。求める心に陥らないようにする為には、受ける量よりも与える量を多くしてゆくことです。他から受けるばかりでは、借り(業想念)を増やすだけです。他から受ける量よりも、他に与える量を多くしてゆかなければ、借り(業想念)を減らすことはできないのです。甘い生き方をしていては、借りを返すどころか、借りを増やすだけです。報いを求めずに与え尽くす心(本心の心)に戻る為には、すべての借りを一日も早く返し切ることです。

 不労所得には大きな業想念が付着して来るのです。儲け過ぎ・貰い過ぎにも注意が肝要です。実質的に他に与える量を多くしてゆくことが大事なのです。他から受ける時は、心の中の借金を増やしているか、心の中の貯金を引き出しているのです。他に与える時は、心の中の借金を返しているか、心の中の貯金を増やしているのです。心の中の借金が多い間は、業想念の心に陥り易いのです。心の中の貯金が多くなれば、本心の心を生き易くなるのです。報いを求めずに与え尽くす生き方は、心の中の借金を減らし・貯金を増やす最短コースなのです。無報酬で働くことは、決して損をすることにはならないのです。心の中の借金を早く返す方が、現実的にも早く幸せになれるのです。本心の心に早く戻った人が、無限の無限の幸せを自分のものにできるのです。



 神さまの言葉をそのまま受け入れて、自分の言葉として駆使するのが本当の祈りです。神さまの言葉は無限の無限のプラスの言葉です。一瞬一瞬新たに、全徳の無限の無限の輝きの言葉となって、絶対より湧き出で・迸り出て・満ち溢れているのです。絶対神の御心は、全徳の無限の無限の輝きとなって、全大宇宙のすべてを、新たに新たに創造し続けているのです。絶対神の無限の無限のプラスの表現は、一切のプラスを一大包容している無限の無限のプラスの表現です。マイナスの極からプラスの極に至る、光一元の完璧な、無限の無限のプラスの表現です。人の使命・人生の目的は、神さまの言葉を真似て、神さまの表現の世界を、この世にまで具体化することです。神さまの世界(本物)を真似て、どれだけ多くのプラスをこの世に再現できるか、一人一人の芸術家としての真価が問われるのです。

 神さまも人も、創造(表現)を楽しんでいるのです。神さまの表現は完璧です。人の表現は、どれだけ神我一体の自覚を深めるかによって、千差万別なのです。本心の自覚が深まるにつれて、完璧な神さまの表現に近づくのです。プラスの言葉を沢山使えば、本心の自覚は深くなるのです。本心の自覚が深くなれば、プラスの言葉を自在に駆使できるのです。プラスの言葉を自在に駆使できるようになれば、神さまの世界をこの世に具体化できるのです。すべては言葉によって、言葉通りに表現されるのです。プラスの言葉を駆使すれば、プラスが実現するのです。マイナスの言葉を駆使すれば、マイナスが実現するのです。プラスの表現を願うならば、決してマイナスの言葉を使わないで、プラスの言葉のみを使い続けることです。

 無限の無限のプラスの言葉を駆使し続けることによって、必ず神さまの世界をこの世に具体化できるのです。肚の底から、心の奥から、神さまの中から、無限の無限のプラスの言葉を、断定的に使うことによって、言葉に威力が備わるのです。無限の無限のプラスの言葉を、新たに新たに加え続けることによって、現実のすべては好転してゆくのです。現実のすべては、人の使う言葉の表現なのです。マイナスの姿に怯える必要は無いのです。マイナスの言葉をプラスの言葉に置き換えてゆけば、必ずマイナスの姿は消え去って、プラスの姿が現れて来るのです。無限の無限の幸せが一杯! 無限の無限の喜びが一杯! 無限の無限の安らぎが一杯! 無限の無限の平和が一杯! 無限の無限の調和が一杯! 無限の無限の恵みが一杯! 無限の無限の健康が一杯! 無限の無限の愛が一杯! 無限の無限の知恵が一杯! 無限の無限の美しさが一杯! 無限の無限の素晴らしさが一杯! 無限の無限の清らかさが一杯! 無限の無限の明るさが一杯! ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




 他に対してプラスを与えた者は、必ず他からプラスを与えられるのです。他に対してマイナスを与えた者は、必ず他からマイナスを与えられるのです。これは厳然たる因縁因果の法則なのです。だから幸せ・喜び・安らぎ・プラス等を他から得たい人は、他に対して幸せ・喜び・安らぎ・プラス等を与えなければならないのです。他に対して自分の与えたものだけが、他から自分に返って来るのです。こんな簡単な道理に気付かないようでは、本当の幸せを掴むことはできないのです。

 お金さえ有れば、幸せになれると思っていたら、大間違いです。お金は道具なのです。お金は幸せそのものでは無いのです。他に対して幸せを与えて来た人は、お金が有っても無かっても、他から必ず幸せを与えられるのです。お金が有る時には、それを幸せを得る為の道具として、使うこともできるというだけです。もし他に対して少しも幸せを与えて来ていない人が、お金を使って幸せを得ようとしても不可能なのです。何億円のお金を持っていても、幸せを得る為の道具として使うことはできないのです。その何億円のお金はすべて、不幸せを得る為の道具になってしまうのです。お金自体には、何の価値も無いのです。お金にプラスの価値を与えるのも、マイナスの価値を与えるのも、自分が他に対して何を与えて来たかに因るのです。

 土地成り金のような生き方では、決して幸せになれないことは、バブルの崩壊で明白になったのです。安い土地を高く売って、安易に儲けたお金は、他からの借金なのです。借金というものは、必ず利息を付けて返さなければならないのです。同じ生き方(働き)をするのであれば、借金をしない方が、より堅実な生き方になるのです。どんな借金をするのも、自分の生き方が甘いからです。どんな苦境にあっても、自分の内在の力を最大限に発揮して、他に与え尽くす生き方を実行することが、より早く幸せを掴む為の秘訣なのです。他からより大きな幸せを与え続けてもらう為には、他に対して常に新たな幸せを与え続けてゆかなければならないのです。過去の貯金(徳)の上に胡座をかいていては、使い果たせば無くなるのです。他から安易に借金をすれば、利息で借金が膨らんで、必ず行き詰まることになるのです。

 過去世からのマイナスの想念行為による、無限に大きな本当の借金は、自分だけの力では、その利息すらも返せないのです。謙虚に謙虚になって、過去の間違った生き方を、衷心から反省し・お詫びし・償いをしてゆこうとしなければならないのです。その上で真剣に、守護の神霊の加護を願えば、大きく助けていただけるのです。他をマイナスに観て、責め裁く生き方が、最大の借金を積み重ねているということに早く気付くことです。




 一瞬一瞬新たに新たに、絶対から新生し続ける自分が、本当の自分・本心の自分なのです。過去の蓄積の上に立つ自分は、偽物の自分・業想念の心の自分なのです。絶対神に立脚する自分は、絶対神のすべてを受けて、常に無限に無限に輝くのです。過去を掴む業想念の心の自分から、新生する本心の心の自分に戻る為には、過去の自分・現在の自分のすべてを、神さまに捧げ尽くすことが必要なのです。神さまに自分のすべてを捧げ尽くす時に、新生する本心の自分が復活して来るのです。神さまへの絶対奉仕に生きる時に、自我の心・業想念の心が消し去られて、神我の心・本心の心に戻ることができるのです。神さまの御心を自在に表現してゆこうとする本心の自分と、過去の未熟な表現を自分自身と錯覚する業想念の自分との間には、天地懸隔の差があるのです。本当の幸せをしっかりと掴む為には、業想念の心を消し切って、本心の自分を深く自覚しなければならないのです。いつまでも業想念の心に惑わされていては、正しい生き方はできないのです。

 自分の思い通りに生きようとする自我の心の生き方は、間違った生き方なのです。間違った生き方からは、決して本当の幸せは生まれて来ないのです。徹頭徹尾神さまへの感謝報恩行に生きる本心の生き方のみが、正しい生き方なのです。過去の掴みを放して、すべてを神さまから、新たに新たに受け直す感謝の生き方と、一切の報いを求めないで、絶対奉仕する報恩の生き方のみが、本当の幸せ・無限の無限の幸せを体感体得する唯一の道なのです。幸せになれるかどうかは、自分自身の生き方によって決まるのです。他に対して何かを求めたり、他の所為にしたり、他に責任を転嫁する、甘ったれた生き方では、本当の幸せを掴むことはできないのです。そのような業想念の心のままでは、本当の幸せを掴むことは永遠に不可能なのです。

 『一切の責任は自分自身に在るのだ』という本心の立場から出発しなければ、自分の世界を改善することは不可能なのです。自分の世界は、自分の心の投影・言葉の作品です。自分の世界を光輝いた世界に改善してゆく為には、自分自身の心の状態を、業想念の心から本心の心へと、置き変えてゆかなければならないのです。自分自身の駆使する言葉を、マイナスの言葉からプラスの言葉へと、切り換えてゆく必要があるのです。自分の世界に登場するすべての人も物も事も、本心の自分の立場から眺めれば、自分自身の言葉による作品なのです。自分の世界(舞台)に登場するすべては、本心の自分(監督)の言葉通りに、忠実に演じてくれるのです。本心の自分(監督)が何を表現したいのかを、先ずはっきりさせることが大事なのです。そしてそれを言葉で伝えることによって、宇宙のすべてが、素晴らしい名演技を見せてくれるのです。



 一瞬一瞬新たに新たに、絶対から新生し続ける自分が、本当の自分・本心の自分なのです。過去の蓄積の上に立つ自分は、偽物の自分・業想念の心の自分なのです。絶対神に立脚する自分は、絶対神のすべてを受けて、常に無限に無限に輝くのです。過去を掴む業想念の心の自分から、新生する本心の心の自分に戻る為には、過去の自分・現在の自分のすべてを、神さまに捧げ尽くすことが必要なのです。神さまに自分のすべてを捧げ尽くす時に、新生する本心の自分が復活して来るのです。神さまへの絶対奉仕に生きる時に、自我の心・業想念の心が消し去られて、神我の心・本心の心に戻ることができるのです。神さまの御心を自在に表現してゆこうとする本心の自分と、過去の未熟な表現を自分自身と錯覚する業想念の自分との間には、天地懸隔の差があるのです。本当の幸せをしっかりと掴む為には、業想念の心を消し切って、本心の自分を深く自覚しなければならないのです。いつまでも業想念の心に惑わされていては、正しい生き方はできないのです。

 自分の思い通りに生きようとする自我の心の生き方は、間違った生き方なのです。間違った生き方からは、決して本当の幸せは生まれて来ないのです。徹頭徹尾神さまへの感謝報恩行に生きる本心の生き方のみが、正しい生き方なのです。過去の掴みを放して、すべてを神さまから、新たに新たに受け直す感謝の生き方と、一切の報いを求めないで、絶対奉仕する報恩の生き方のみが、本当の幸せ・無限の無限の幸せを体感体得する唯一の道なのです。幸せになれるかどうかは、自分自身の生き方によって決まるのです。他に対して何かを求めたり、他の所為にしたり、他に責任を転嫁する、甘ったれた生き方では、本当の幸せを掴むことはできないのです。そのような業想念の心のままでは、本当の幸せを掴むことは永遠に不可能なのです。

 『一切の責任は自分自身に在るのだ』という本心の立場から出発しなければ、自分の世界を改善することは不可能なのです。自分の世界は、自分の心の投影・言葉の作品です。自分の世界を光輝いた世界に改善してゆく為には、自分自身の心の状態を、業想念の心から本心の心へと、置き変えてゆかなければならないのです。自分自身の駆使する言葉を、マイナスの言葉からプラスの言葉へと、切り換えてゆく必要があるのです。自分の世界に登場するすべての人も物も事も、本心の自分の立場から眺めれば、自分自身の言葉による作品なのです。自分の世界(舞台)に登場するすべては、本心の自分(監督)の言葉通りに、忠実に演じてくれるのです。本心の自分(監督)が何を表現したいのかを、先ずはっきりさせることが大事なのです。そしてそれを言葉で伝えることによって、宇宙のすべてが、素晴らしい名演技を見せてくれるのです。



 正しい信仰の目的は、心の錬磨にあるのです。自分の心を立派に磨き上げることによってのみ、自分の見ている世界を幸せ一杯にできるのです。心を立派に磨くということは、心をプラスにプラスに変えてゆくことです。神さまの全徳の無限の無限の輝きで一杯!という状態にしてゆくことです。自分の見ている世界は、自分の心の投影された世界なのです。自分の心にマイナスが多ければ、自分の世界に多くのマイナスが見えるのです。自分の心にプラスが多ければ、自分の世界に多くのプラスが見えるのです。自分の見ている世界のすべては、自分の心を鏡に写すように写し出してくれているのです。自分の心の状態が、自分の肉体に・自分の環境に・自分の世界に、的確に表現されているのです。心の中のマイナスを消し去り、本心(無限の無限のプラス)を磨き出せば、立派な心・高い魂・本心の自分になれるのです。

 自分の心の中のマイナスをプラスに置き換えてゆく為には、無限の無限のプラスを加えてゆく真祈りが必要なのです。現実のマイナスに対して、真祈りの無限の無限のプラスを加えることによって、心の中のマイナスを消し去って、プラスに置き換えることができるのです。現実の世界を見るということは、自分の心の状態を知る為に必要なのです。現実の姿と心の状態とは、表裏一体なのです。人の幸不幸というものは、その人の心の状態で決まるのです。心がマイナスの状態・業想念の心になれば、七難八苦の苦痛を味わうことになるのです。心がプラスの状態・本心の心になれば、無限の無限の幸せで一杯になるのです。心に本心が輝いていたら、形の地獄も苦にはならないのです。直ぐに地獄を極楽に置き換えてゆけるのです。心に業想念が一杯になると、形の極楽も苦になるのです。そして形も地獄になってゆくのです。

 本心の力を発揮することによって、心も形も善くなるのです。本心の自分は、言葉を支配し、心を支配し、運命を支配するのです。本心の自分は、運命の支配者・環境の創造者・世界の中心者なのです。本心の自分を忘れ、本心の力を発揮することを怠ると、必然的に心も形もプラスの無い状態・マイナスの多い状態に陥るのです。業想念の心の奴隷に陥っているのは、自分のマイナスの言葉に酔い痴れているだけです。言葉をプラスにプラスに変えてゆけば、マイナスの言葉の呪縛から自由に解放されるのです。本心の自分は常に今、プラスの言葉を駆使することによって、最大の力を発揮することができるのです。だから本心の自分に戻る為には、本心の自覚を深める為には、本心の自分をしっかり生きる為には、本心の力を発揮する為には、プラスの言葉を・プラスの言葉だけを、数多く使い続けることが大事なのです。




 神さまへの感謝と奉仕が、神さまの助けを受ける為の必須条件なのです。神さまの助けを幾ら願っても、幾ら求めても、神さまへの感謝と奉仕が無ければ、神さまの助けを受けることはできないのです。自分の心の波長が、神さまの御心と合わなければ、神さまの助けを感受することは不可能なのです。自我の心・業想念の心・五欲の心・煩悩の心では、神さまの御心と波長が合わないのです。どんなに絶叫しても、神さまの御心に波長を合わせなければ、徒労に終わるだけです。神さまの助けは、求めなくても、宇宙一杯に満ち満ちているのです。心の波長さえ合えば、叫ばなくても、求めなくても、神さまの助けは受けられるのです。

 神さまへの感謝と奉仕の程度に比例して、神さまの助けを受けることができるのです。神さまへの感謝を深めれば深めるほど、神さまの助けを大きく受け入れることができるのです。神さまへの奉仕が多ければ多いほど、神さまの助けを沢山受け入れることができるのです。自我の心・業想念の心は、現実にばかり心が向いていて、神さまの方に心が向いていないのです。だから神さまの助けを受け入れることができないのです。神さまへの感謝と奉仕に生きる本心の心は、神さまの方にしっかりと心を向けているのです。だからいつも神さまの助けを受けることができるのです。

 神さまへの感謝とは、神さまの御心を感受することです。神さまの全徳の無限の無限の輝きを、祈り言葉を駆使して、感受することです。神さまへの奉仕とは、神さまの御心を現実化してゆく為に、全力を尽くすことです。本物の芸術家は、心に感受したインスピレーションを、具体的に表現する為に、日夜刻苦精励して、どこまでも完璧を目指すものです。本物の発明家は、すべての場合を尽くして、最高の発明品を生み出すものです。そのようにすべてにおいて、神さまの御心を現す為に、完璧を期することが、神さまへの奉仕なのです。神さまの助けとは、自分の内奥から湧き出てくる無限力のことです。神さまへの感謝と奉仕の生き方になれば、自然に湧き出て来るものなのです。神さまの御心を現実化する為に必要な、努力・知恵・能力・貫徹力等が、自分の内奥から無限に無限に湧き出て来るようになるのです。

 棚からぼた餅のように、他からの助けを待っているのは、間違った御利益信仰の生き方です。正しい本心開発の生き方は、内在の無限力を発揮して、神さまの御心を現実化することです。祈りに祈って、神さまの御心を正しく把握し、それを具体化する為に、粉骨砕身して努力することが、神さまの本当の助けを受ける為には、絶対に必要なのです。そうすることによって本心は開発され、理想は現実化するのです。




 人生における優勝劣敗は、神さまの御心(最高表現)をこの世に具体化する為の、本心の心の自分と業想念の心の自分との間の、戦いの歴史のドラマなのです。本心の無限力を発揮した者のみが、最後の勝利を得ることができるのです。弱肉強食の生存競争は、怠惰な者に課せられた、本心の無限力を引き出す為の試練なのです。本当の戦いは、自分自身の心の中で行われているのです。本心の心と業想念の心との熾烈な戦いなのです。本心の心が業想念の心に打ち勝った時に、始めて『我世に勝てり』という真の勝者になれるのです。本心の心が業想念の心に打ち負かされた時には、常に敗北感が付きまとうのです。何故なら本心の心の自分のみが、真の自分であるからです。

 本心の自分を無限に無限に輝かせることが、人生の真の目的なのです。その為に高い目標を掲げ、困難(不可能)に挑戦し、本心(無限力)を引き出そうとしているのです。常に勇敢に雄々しく前進する者のみが、本心を輝かせることができるのです。常に全力を振り絞る者のみが、速やかに本心を輝かせることができるのです。常に本心開発の修行に、真剣に取り組む者のみが、真の人生の勝利者となるのです。『今』の一瞬一瞬を、本心開発の為に大切に生きる者のみが、そのチャンスを活かすことができるのです。

 本心の輝きの程度に比例して、真実の幸せは増大してくるのです。真実の幸せというものは、五欲(名誉欲・財産欲・色欲・食欲・睡眠欲)を満足させても得られないのです。真実の幸せ(無限の無限の幸せ)というものは、本心の自覚を深めることによってのみ得られるのです。神我一体・我即神・神即我の自覚を深めることによって、真実の幸せを実感できるのです。その幸せの実感が、現実世界をも幸せ一杯に創造してくれるのです。本末転倒した生き方では、どんなに努力しても、すべては徒労(無駄)に終わるものです。正しい真実の生き方とは、先ず祈りに祈って、神さまの御心を正しく把握することです。そして神我一体の自覚を深めて、神さまの御心(全徳の無限の無限の輝き)を現実化する為に、神さまの為にのみ絶対奉仕することです。

 五欲の心に負けた敗者の弁解等は、全く必要無いのです。業想念の心に打ち勝った勝者(本心の自分)の生き方が、必要なだけです。これからの時代は、神の国(理想世界)を建設する為の、明るい自信に満ち溢れた勇者を必要としているのです。本心の心の自分をしっかりと生きる者のみが、必要とされて生き残れるのです。業想念の心の奴隷に陥った人の役割は、これからの地球の舞台では、お払い箱になるのです。プラスの言葉を駆使して、神さまへの絶対奉仕に生きる、本心の無限に無限に輝いた人のみが登場する時代になってくるのです。



 神さまに自分の願いを叶えてもらう為には、自分も神さまの為に奉仕することを約束して、その約束を果たすことが必要なのです。自分の願いを一方的に並べ立てるだけでは、神さまの助けを受けることはできないのです。自分の与えた程度に比例して、神さまの助けを受け入れることができるのです。神さまの為に自分を大きく与えれば、神さまの助けを大きく受け入れることができるのです。自分のどんな願いも、大きければ大きいほど、自分を大きく与えなければ、その願いは叶えられないのです。過去世からの無限の業想念を消し切ってもらう為には、それに見合うだけのものを与えようとしなければならないのです。無限の業想念(借金)を背負って、何万年以上も地獄の責め苦を受けなければならないとしたら、その無限の業想念を肩代わりしてもらう為には、少なくとも何万年以上の神さまへの絶対奉仕が必要なのです。この世の七難八苦は、地獄の責め苦と比較すれば、万分の一以下の軽いものです。だから七難八苦が何万年以上連続しても、喜んで喜んで、甘んじて受ける覚悟が必要なのです。その中で神さまへの絶対奉仕に生きなければならないのです。自分勝手な甘い考えは通用しないものです。

 自分の本当の願いをハッキリさせて、その願いを叶えてもらう為に、それに見合った奉仕の約束をして、その約束を果してゆくということが大事なのです。神さまとの約束事を守るということは、神さまの助けを受ける為の必須条件なのです。人と人との約束事も、守らなければ信用を失って、相手にしてもらえないのです。神さまへ自分が与えることのできるものと比較すれば、神さまの助けはその何万倍・何億倍以上のものなのです。その神さまに対する約束事は、命懸けで守らなければならないものです。神さまに自分のすべてを捧げて奉仕するということは、神さまの願い(大きな目標)を掲げて、勇猛邁進するということです。神さまの願いを実現する為に、自我の心を死に切って、粉骨砕身して、全力を尽くすということです。

 自我の心を消し切る為には、懺悔の涙を流して、命懸けで縋らなければ、神さまの助けは受けきれないのです。本心開発の為には、神さまへの絶対帰一・絶対随順・絶対奉仕が必要なのです。真剣に! 真剣に! 神さまへ心を向け続けなければならないのです。神さまの為だけに生き続けなければならないのです。そうすればすべての幸せは、求めなくても与えられるのです。すべての願いは、願わなくても叶えられるのです。先ずは神さまだけを相手に、神さまとの約束事を果たす為に、命懸けで全力を尽くすことです。人を相手にして一喜一憂するような、愚かなことをしている暇は無いのです。神さまへの感謝と神さまへの奉仕に徹底することが大事なのです。





 悟りへの道を歩むということは、業想念の心を捨てて・捨てて・捨て切って、本心の心を大きく大きく輝かせてゆくことです。悟りへの段階には、無限の無限の段階があるのです。今の自分はどの段階にあるのかを判断するには、今の自分の心の状態を観れば判るのです。業想念の心が少しでも残っていたら、マイナスの段階です。本心の心だけが輝いていたら、プラスの段階です。マイナスの中にも無限の段階があり、プラスの中にも無限の段階があるのです。自我が強いと、マイナスの中でも下位にあるのです。自我が少なくなって、謙虚になれば、マイナスの中でも上位にあるのです。感謝一筋の心になれば、プラスの段階です。感謝が大きく深くなればなるほど、プラスの中でも上位にあるのです。業想念の心は、過去を掴む心です。本心の心は、新たに受け直す心です。感謝を忘れたら、業想念の心に陥るのです。感謝し続けたら、本心の心が輝くのです。

 神さまに師事する段階にも、無限の無限の段階があるのです。何でも自分の思い通りに・願い通りにしたいという、自我の心が少しでも残っていたら、神さまの働きの邪魔をして、迷惑をかけているだけです。自我の心を滅却して、謙虚に・素直になれば、少しは神さまのお役に立たせていただけるのです。自我の心でする奉仕は、自分はこれだけのことをしたのだと主張して、報いを求めるのです。神さまの働きの邪魔をして、大きな迷惑をかけていることにも気付かないのです。本心の心でする奉仕は、どんな大きなお手伝いをさせていただいても、万分の一・億分の一の恩返しにもなっていないと気付くものです。神さまの為にと純粋に願って奉仕すれば、自我の心でする奉仕でも、その何万倍以上の負債を消してもらっているのです。本心の心でする奉仕ならば、その働きが大きくなればなるほどに、神さまからその何万倍ものプラスのお返しをもらっているのです。だから本当は少しも恩返しにはなっていないのです。真実の奉仕は、神さまの全徳の無限の無限の輝きを、受け易くして受けているだけなのです。

 業想念の心(負債)を消してもらう為にも、本心の心(貯金)を大きくする為にも、神さまへの奉仕が必要不可欠なのです。神さまの助けを受けなければ、自分の力だけではどんなに頑張っても、遅々として進まないのです。神さまのお役に立ちたいと、殊勝な心を起こすから、神さまも助けずにはおれないのです。どんなに業想念の心が厚くても、どんなに過去世の負債が多くても、その無限とも言える大きな業想念(負債)を引き受けて、消し去って下さるのです。マイホーム主義的な生き方では、一段階進むにも、長い年月を要するのです。神さまへの絶対奉仕に生きてこそ、無限の無限の段階をも、速やかに通過させて下さるのです。





 現実の自分の未熟さ・至らなさにも気付かないのが、高慢な心・無知なる心・業想念の心です。現実の自分の未熟さ・至らなさに気付いていても、それにしがみついて、神さま(天の自分・守護神・守護霊)の助けを受けようとしないのが、卑下慢の心・後ろ向きの心・マイナス思考の心・業想念の心です。どちらも業想念の心の奴隷であって、業想念の心に負けているのです。業想念の心に負けない自分・本心の心の自分というものは、他からどんなに褒められようとも、決して有頂天になることは無いのです。現実の自分の未熟さ・至らなさをひしひしと感じて、謙虚に謙虚に、どこまでも謙虚になるのです。そして神さまの助けを受けて立派になろうと、真剣に精進努力し続けるものです。本心の心が輝けば輝くほど、理想と現実の違いが大きく感じられるのです。何故なら本心の心は理想の姿を十二分に知り尽くしていて、現実との違いがはっきりと判るからです。本物を知る者のみが、本物と偽物の区別ができるのです。偽物しか知らない者は、偽物を本物と思い込もうとするものなのです。

 他から褒められたい・他から良く思われたいと願う心は、業想念の心なのです。他から褒められて有頂天になるのは、業想念の心なのです。虚栄心をくすぐられて喜んでいるのは、業想念の心なのです。謙虚な本心の心は、どんなに褒められても、決して現実の自分を褒められたのだとは思わないものです。どんな褒め言葉も、理想を現実化する為の種蒔きの言葉であると、謙虚に謙虚に受け止めて、その種をしっかりと育て上げようとするものです。自分の心という畑にしっかりと蒔いて、大事に大事に育て上げるものです。褒められたことを自慢げに他人に言い触らすのは、自分の心に蒔かれた種をほじくり返して、棄てたことになるものです。折角蒔かれた大事な種も、他からの逆念によって、消滅してしまうことになるのです。

 他からどんなに貶されても、他からどんなに悪く思われても、感謝し・喜んでいたら、自分の心の中のマイナスの種を、どんどんほじくり出して消し去ってもらえるのです。本心の心の自分は、他から貶されるほど大きく喜び、他から褒められるほど謙虚に反省するのです。同じ本心の心の自分であっても、天の自分と地の自分とは役割が異なるのです。天の自分は、新たな全徳の無限の無限の輝きとなって、大きく広く与え尽くす役割です。地の自分は、謙虚に謙虚に、どこまでも謙虚になって、感謝を無限に無限に深めて、天の自分の助けを受け入れる役割です。天の自分の与えて来るものを、地の自分が受けることによって、理想が現実化されるのです。真の感謝は、天の自分と地の自分の働きを同時に行うものであり、天の自分と地の自分を一つに繋ぐものなのです。




 人の噂は決して信じてはいけないのです。自分の本当に信頼している人が、実際に確かめたものであれば、自分の全責任の下に、その人を信じて受け入れるのも良いことです。もし間違っていても、その責任を喜んで取れるからです。しかし大事なことであれば、自分自身が直接に確かめるべきなのです。人の噂というものは、その出所の元を辿っても、誰一人としてその責任を明確にできる人がいないものです。人の噂として流せば、何を言っても、自分には責任が降りかかって来ないのだと思っているのです。だから自分勝手な考え・思いを、噂を隠れ蓑にして、表現しているのです。ところが実際は、自分の口から出た言葉に対する責任は、必ず自分自身に降りかかって来るのです。仮に噂として流しても、自分自身がその噂を正しいものとして受け入れ、自分の考えとして他に伝えていることになるからです。噂に同調したということは、その噂を流した者と同罪になるのです。正しく白を白と言っても、黒を黒と言っても、反対に白を黒と言っても、黒を白と言っても、自分の言った言葉が引き起こす結果に対しては、その責任はすべて自分自身に降りかかって来るものなのです。

 人からの伝言を聞く場合も、そのまま鵜呑みにしては間違うものです。自分自身が直接に聞く場合でも、相手の意向を正しく汲み取ることは難しいのです。ましてや他人が間に入って、間接的に聞く場合には、相当なずれが生じるものなのです。Aからの伝言をBを通して聞く場合は、Aの伝言を聞いているのでは無く、Bの考えを聞いていることになるのです。もし自分にとってBが信頼できるのであれば、Bの考えとして受け入れたら良いのです。受ける側の自分に、すべての責任があるのです。何故ならAがBに伝言を依頼していない場合もあるからです。もしAの伝言として受け入れるのであれば、自分で直接にAに確かめる必要があるのです。

 仏教に如是我聞という言葉があるのです。お釈迦様の真理の説法を、弟子達はそれぞれに、自分はこのように聞いたというように、謙虚に他に伝えているのです。お釈迦様がこのような説法をされたというのは、間違った表現なのです。お釈迦様の説法を自分はこのように聞いたというのが、正しい表現なのです。人の言葉を他に伝える場合も、あの人はこのように言った、というのは間違いなのです。あの人の話を自分はこのように聞いた、というのが正しいのです。どのような話を伝え聞く場合も、直接に対話している人の考えだけを、自分は聞いているのだということを、肝に銘じておく必要があるのです。直接に伝える必要があれば、必ず自分で直接に伝えるべきなのです。直接に聞く必要があれば、必ず自分で直接に聞くべきなのです。



 マインド・コントロールの是非が云々されているのですが、心の波長の合う者同士は、常にお互いにマインド・コントロールし合っているものなのです。もし心の波長が合わなければ、お互いに影響を与え合うことは絶対にできないのです。だからどちらからも一方的には、マインド・コントロールはできないものなのです。人の自由意志を縛って、他人の心を支配することは、本当は誰にもできないものなのです。それが例え宇宙の大神さまであっても、大天使であっても、悪魔であっても、同じなのです。人は誰からも、自分の自由意志を縛られることは、決して無いのです。自分の自由意志を縛るのは、常に自分自身なのです。それでは人の自由意志とは何かと言えば、その人の信念・心全体から発する波長がそれです。人は自己の信念をもって、自由な意志表示をしているのです。人の心全体の中には、色々な異なる願い・考えが包含されているのです。その部分的な異なる願い・考えをもって、その人の意志として定めることは不可能なのです。だからその人の心全体の願い・考えを総括した信念をこそ、その人の意志として定めるしか無いのです。人の信念というものは、その人が過去から現在にかけて、自由に選択して心に取り入れて来たもの、想念感情の集積の全体を指すのです。即ちその時その時に、その人が自由に願い・考え・思い・感じたものの、集積集合体です。だからこそ人の自由意志は、その人の信念をもって代表されるのです。

 人は自己の信念に波長の合う、チャンネルの番組をキャッチして、その番組の中に住む自分を見出すのです。そしてその番組の世界の主人公として生きているのです。その番組の世界においては、自己の信念・自由意志が全体に伝わり、全体の心を支配して、自己の信念・自由意志通りのストーリーを現出するのです。このことは自分が全体の心をマインド・コントロールしていると言っても良いし、逆に全体によって自分の心がマインド・コントロールされていると言っても良いのです。信念の波長の合う者同士は、お互いにマインド・コントロールし合って、その番組通りのストーリーを、お互いが協力し合って、助け合って、演出していることになるのです。心の波長の合う者同士が寄り集まって、一つの生命体としての世界を構成しているのです。心の波長の合う者同士は、お互いの願い・考えが一致しているので、自分が他を支配しても、他が自分を支配しても、結果は同じものになるのです。心の波長が地獄に合っている者は、お互いに助け合って、地獄世界を作り上げているのです。心の波長が極楽に合っている者は、お互いに助け合って、極楽世界を作り上げているのです。地獄と極楽とは心の波長(自由意志)が異なっているので、お互いが影響し合うことは決して無いのです。




 『正しい』ということは、宇宙絶対神の本質です。宇宙絶対神から切り離されたものはすべて、間違っているのです。宇宙絶対神のみを信仰の対象にしなければ、その信仰は間違っているのです。それがどんなに素晴らしいものに見えても、宇宙絶対神以外のものを中心に置けば、全体の調和を乱す元凶になるのです。癌細胞の一時的な栄えは、本当の栄えでは無いのです。自分を癌細胞の中に置けば、必ず滅び去ることになるのです。癌細胞とは自我の心の象徴です。一宗一派にとらわれた信仰は、自我の心の強い信仰です。宗派争い・宗教戦争等、必ず全体(世界)を滅ぼす元凶になるのです。

 正しく本心の心を生きる者は、無限に無限に謙虚なのです。微塵も自我の心を主張することは無いのです。すべての栄光・力を、宇宙絶対神にお返しするものです。すべての栄光・力を宇宙絶対神に帰す、無限に無限に謙虚な者が、本当の指導者としての資格を与えられているのです。人や教団や組織等の他から与えられたどんな資格も、本当の指導者としての資格では無いのです。自分を正しく導いてくれる本当の指導者を選ぶ為には、先ず自分自身が本心の心を生きる本物でなければならないのです。自我の心で選ぶ指導者は、偽物ばかりです。自我の心を生きる者は、本当の指導者を目の前にしても、外見や枝葉に囚われて、本当の指導者としての真の価値を見出すことはできないのです。

 無限に無限に謙虚な心の中に、必要に応じて、宇宙絶対神は現れるのです。本物の指導者から、絶対神の指導を受けたい場合も、受ける側の心の姿勢が問われるのです。『謙虚さ・素直さ・真剣さ』が無ければ、宇宙絶対神は現れては下さらないものです。常日頃から、宇宙絶対神を唯一無二の真実の師と定め、至悌(絶対神を師と仰ぎ、絶対帰一・随順・奉仕すること)の心を養っていなければならないのです。宇宙絶対神への感謝と報恩の至誠を示す必要があるのです。飢え渇く者のように、宇宙絶対神を渇仰していなければ、宇宙絶対神のみを真実に慕っているとは、認めてもらえないのです。他へ少しでも心を向けていたら、無限に無限に謙虚な宇宙絶対神は、他へ出番を譲って奥へ引っ込んでしまうものです。

 正しい信仰を深めて、本心の心を無限に無限に輝かせてゆく為には、宇宙絶対神の正しい指導を仰がなければならないのです。どうすれば受けられるかは、各自の心次第なのです。自我の心を生きたい者にとっては、宇宙絶対神の指導は邪魔になるだけです。宇宙絶対神の指導は、本心の心をしっかりと生きて、絶対神の御心を現す為に、身命を捧げ尽くす覚悟をした者にのみ、必要不可欠のものなのです。宇宙絶対神の導きに従えば、生き方は正しくなり、必ず無限の無限の幸せで一杯!になるのです。



 『正しい信仰とは何か?』今一度、自分自身の手で、その答えを『早急に』見出す必要があるのです。何故なら間違った信仰を続けていては、自分を滅ぼす結果に終わるからです。また自分自身の手で、その答えを見出さなければ、その生き方も甘くなるからです。『最後の審判』は近づいているのです!『最後の審判とは何か?』『正邪の判定の尺度は何か?』『生き残る為の条件とは何か?』正しい答えを早急に見出して、それに対処してゆかなければ、自分を滅ぼす結果に終わるでしょう。自分の運命は、自分が決定するのです。自分の運命は、自分しか決定できないのです。他の何者も代行できないのです。

 『正しい信仰とは、宇宙絶対神への絶対帰一・絶対随順・絶対奉仕です。宇宙絶対神への至忠・至孝・至悌です。』宇宙絶対神から受けたものは、宇宙絶対神にお返しするのが根本の道理です。宇宙絶対神への感謝・報恩です。宇宙絶対神への回帰が無ければ、すべて邪道に陥るのです。宇宙絶対神から受けたものを、宇宙絶対神にお返しすれば、古いものは消えて、新しいものと置き変わるのです。古いものをお返ししなかったら、古いものが順次蓄積されてゆくのです。そして新しい受け直しができなくなるのです。

 宇宙絶対神は、無限に無限に謙虚なのです。だから強制的に押しつけるようなことは、絶対に無いのです。感謝と報恩の対象も、宇宙絶対神だけに絞り込んでゆかなければ、宇宙絶対神は奥へ奥へと隠れてしまうのです。宇宙絶対神は常に、無限億万分の一秒で、新しい最高表現の宇宙を創造し、それを与え続けているのです。もしそれを受けるのを強制してきたら、どんなことになるか、その一つを考えるだけでも、神さまの強制は絶対に無いということが判る筈です。これを逆の立場から眺めると、宇宙絶対神への感謝と報恩を実行する為には、自分の生命・心・すべてを、宇宙絶対神のみに捧げ尽くすのだという、一大決意とひたすらさが必要だということになるのです。

 宇宙絶対神に自分のすべてを捧げ尽くせば、古い自分を消し去って、新しい自分に置き換えて下さるのです。業想念の心の自分を消し去って、本心の心の自分に変えて下さるのです。偽物を消し去って、本物を現して下さるのです。宇宙絶対神に自分のすべてを捧げることが、すべてをお任せすることが、感謝し続けることが、自分を立派にする一番の道なのです。今! 今! 今! 宇宙絶対神に、心を一点集中して、仕え奉ることに専念すれば、本心の自分は無限に無限に輝きを増して来るのです。正しい道はただ一つです。宇宙絶対神から受けたものは、すべて宇宙絶対神にお返しすることです。そうすれば古いものが蓄積されるということが無くなるのです。常に天照大御神(新たなる全徳の無限の無限の輝き)を直接感受できるように成るのです。




 過去の伝統・風習・遺産を守ろうとするだけでは、過去を掴む業想念の心の縛りの中に自分を置くことになるのです。それでは絶対神の助けを受ける所までは行けないのです。絶対神の助けを大きく受ける為には、絶対神の立場に立って、絶対神の御心を現し続けるという生き方が必要なのです。絶対神の御心は、自由自在な立場から、必要なプラスを新たに与え続ける生き方です。だから人・時・所の三つの要素に相応しい、今みんなを幸せにできる理想の姿を自由に表現できるのです。『ねばならぬ』という心は、過去に縛られた心です。『思いやりの心』は、みんなを幸せにする自由な心です。

 絶対の神の御心のみが、すべての人に・すべての時に・すべての所に、最高のものを与え続けることができるのです。過去のどんな素晴らしい伝統・風習・遺産も、絶対神が今与えようとしている最高のものと比較すれば、雲泥の差があるのです。だから過去の素晴らしい伝統・風習・遺産を守ろうとするのでは無く、また過去の素晴らしいものの上に、更にプラスを加えてゆくのでも無く、全く新しく絶対神の御心(最高のもの)を現そうとすることが大事なのです。その結果として、過去のどんな素晴らしい伝統・風習・遺産よりも、更に素晴らしいものが現実化しているというのが、理想の生き方なのです。過去のものを守るというのは、過去の繰り返しになるのです。絶対神の御心を現すというのは、全く新しいものを表現してゆくことです。過去のどんな素晴らしいものも、人・時・所が変化すれば、ピッタリとは合わなくなっているのです。みんなに最高の幸せを与えることができなくなっているのです。

 同じものは何一つとして無く・同じことは二度と繰り返さないというのが、絶対神の宇宙創造の鉄則です。それ故に人も絶対神の御心に従って、常に新たなる最高表現を現実化する為に、至誠をもって奉仕することが大切なのです。人には絶対神の分霊魂魄として、絶対神の代わりに、絶対神の最高表現を、現実化してゆくという使命があるのです。絶対神の創造に成る最高表現(第一表現の世界)を、人の信念の投影によって成る現実(第二表現の世界)に、どれだけ忠実に表現できるかによって、無限の無限の段階の世界が存在しているのです。人は皆、絶対神の御心を表現する芸術家なのです。芸術家の卵や雛の段階では、自我の心による落書き程度の未熟な表現に終わるのです。段々と進歩向上して、本心の心による完成度の高い表現に変化してくるのです。絶対神の最高表現をお手本に、忠実に模写すれば、本物の芸術作品になるのです。絶対神の最高表現は、各自の心の一番奥底に、厳然と実在しているのです。心の奥底を凝視し続ければ、即ち絶対神へ感謝し続ければ、絶対神の最高表現は明らかになってくるのです。




 絶対が相対に分かれ、その組み合わせによって、表現が生まれるのです。神さまの宇宙創造は、絶対(唯一なるもの)が相対の両極に分かれ、その両者の与え尽くし合いによって、完璧な組み合わせが行われ、最高表現が生み出されているのです。本来一つのものが二つに分かれ、その両者が神聖恋慕の愛の牽引力によって、両者のすべてを与え尽くし合うところに、融合一体化した最高の美的表現が生まれるのです。神と人とは、絶対においては一つのものです。その本来一つのものが、相対の両極(神と人)に分かれたのです。そして神と人とが交流し・融合し・一体化することによって、神人一如の最高の美的表現を生み出そうとしているのです。

 神さまは常に、新たなる全徳の無限の無限の輝きを、無限億万分の一秒で、次から次へと与え続けているのです。そして人が、感謝の心で受け、報恩の心で与え返して来るのを待っているのです。神さまからの一方通行では、新しい表現は生まれないのです。呼吸の原理と同じように、吸うだけでは、呼吸はストップするのです。先ず吐き出すことによって、新しい空気を自然に吸うことができるのです。神さまの絶対の愛は、思いやりの心で与え尽くし、寛容の心ですべてをプラスに受けて下さるのです。後は人が、感謝の心で受け、報恩の心で与え返すことだけが必要なのです。

 神さまから受けたものを、神さまにお返しすることによって、古いものは消し去られ、新しいものと置き変わるのです。新旧の置き換えが速くなるほど、神さまの最高表現に近づくのです。感謝を深めてゆくということは、この新たな受け直しを、より短い時間でしてゆくことなのです。感謝が深くなればなるほど、神さまと人との間隙が少なくなって、神さまと人とは一体化してゆくのです。

 神さま(全体)から受けたものを、人(部分)がお返しすることによって、神さまと人との交流が行われるのです。樹木においても、根幹と枝葉が与え尽くし合って、密に交流するほど、早く大きく成長するのです。全体は部分の為に、部分は全体の為に、自分を与え尽くし合うことによって、融合一体化して、生き活きと光輝くのです。神さまと人との与え尽くし合いによって、物質文明・精神文明・霊的文明の三つが、一大調和した最高の美しい華を開かせることになるのです。

 自分のすべてを与え尽くす対象は、常に宇宙絶対神(無限の無限のプラス)でなければならないのです。謙虚に省みれば、人の持っているものはマイナスばかりなのです。そのことにも気付かないようでは、その人は高慢な自我の強いマイナス人間です。マイナスの人や人類にマイナスを与えながら、プラスのお返しを期待しても無理だからです。




 自我の心(業想念の心・五欲の心)を生きる時代は終わり、本心の心(神さまの御心)を生きる時代が始まるのです。人の心に合わせて、神さまが助けて下さる時代は終わり、神さまの御心に合わせて、人が神さまのお手伝いをする時代になったのです。地球人類も凡夫から神人へと移行するのです。人は誰でも、神さまのお手伝いをすることによって、凡夫から神人に生まれ変われるのです。自分を立派にしてゆく一番の方法は、古い自分を速やかに消し去っていただくことなのです。古い自分が新しい自分の出現を妨げているのです。古い自分を神さまに捧げ尽くして、消し去っていただくことを怠って来た為に、自我の心が強くなり、本心の自分から遠ざかることになったのです。誰でも神さまの御心の中に飛び込みさえすれば、清らかな自分にしていただけるのです。その為には自分の方から、神さまの御心に合わせてゆくことが必要なのです。

 宇宙絶対神に古い自分を捧げ尽くしてゆくことが、古い自分を速やかに消し去っていただく一番の方法です。古い自分を捧げ尽くす対象が、清めの力の無い人であれば、相手に古いものを蓄積させて、益々自我の心を増強させるだけです。古い自分が他の人に与えるものは、すべてマイナスばかりなのです。古いものを沢山与えれば与えるほど、奥から出て来る新しいものを受け難くしているのです。他の人の幸せを大きく妨害しているだけなのです。人は謙虚になって、この事実に気付かなければならないのです。人は誰でも宇宙絶対神に奉仕した程度に比例して、古い自分を消し去っていただけるのです。古い自分が消し去られるのに比例して、新しい自分がどんどん奥から押し出されて来るのです。新しい本心の自分が出て来ることによって、新たなる全徳の無限の無限の輝きで一杯の自分に成るのです。宇宙絶対神は、無限億万分の一秒で、新しい置き換えをして下さっているのです。新しい本心の自分は、次から次へと新生し、出番を待ち続けているのです。古いものを消し去ることだけが、自他共に幸せにしてくれるのです。

 宇宙絶対神に自分を捧げ尽くしてゆく場合にも、自分にとって一番大切な最高のものを捧げ尽くす心でなければ、受け取っていただけないかも知れないのです。自分の立場を相手の立場に置き換えてみれば、良く判る筈です。宇宙絶対神にとって古いものは全く必要ないのです。自分の一番大事なものを与えようとする、そのいじらしい心を受け止めて下さるのです。そして大きなマイナスを消し去って下さるのです。無限の無限のプラスは元より与え続けて下さっているのです。古いものが消え去ったら、後は自然に受けられるのです。宇宙絶対神への絶対奉仕(絶対神だけに・無条件で奉仕すること)だけが、自他共に幸せになる唯一無二の道なのです。




 人の幸せを大別すれば、物質的幸せ・精神的幸せ・霊的幸せに分かれるのです。その質と量の両方において、物質的幸せよりも精神的幸せの方が無限に高く無限に多く、精神的幸せよりも霊的幸せの方が無限に高く無限に多いのです。物質的幸せの価値を有限とすれば、精神的幸せの価値は無限であり、霊的幸せの価値は無限の無限なのです。人は霊魂魄の集合体です。この霊魂魄の三つをバランス良く自覚してこそ、物質的・精神的・霊的のすべての幸せを享受できるのです。

 物質的幸せとは、必要なものが必要な時に必要なだけ与えられることです。食物の量も腹八分目が理想です。満腹も食べ過ぎも、健康に良くないものです。衣食住のすべてにおいて、贅沢は禁物です。大自然との調和が大切なのです。大自然が喜んで与えてくれるものだけで、満足しなければならないのです。大自然から無理やり奪い取ったら、必ずその報いを受けることになるからです。因果応報です。大自然から何でも奪い取る生き方は、自分の首を絞めるようなものです。大自然に与えたものが、与え返されるのです。

 物質的幸せを追い求めるのに汲々として、精神的幸せ・霊的幸せを見失うのは、愚の骨頂です。特に贅沢が物質的幸せのように錯覚して、物質欲の奴隷に陥れば、その人の末路は悲惨です。物質欲で魂を堕落させ、魂を汚してゆくと、餓鬼道に落ちた者のように、必要な物も手に入らなくなってしまうからです。上流の汚染源を無くせば、下流は自然に清まるように、魂が清まれば、肉体界も清まるのです。先ず精神的幸せを確保すれば、自然に物質的幸せも確保できるのです。

 人の運命というものは、心の奥から順次投影されて来るのです。心の一番奥に霊的幸せを確保すれば、後は自然にすべての幸せは整って来るのです。人の先ず成すべきことは、本心の自覚を深めることです。無限の無限の幸せで一杯!の本心の自覚を深めれば、後は求めなくても自然に、精神的幸せも物質的幸せも確保できるのです。これを逆にして、先ず物質的幸せを確保してから、次に精神的幸せを確保しようとすれば、労多くして効少なしの状態に陥るのです。

 本心の自覚を深める一番の方法は、宇宙絶対神への感謝を徹底的に実行することです。朝から晩まで、寝ても醒めても、1日24時間ひたすらに『ありがとうございます』と感謝し続けることです。『ありがとうございます。天照大御神 今ここに 在します。新たなる全徳の無限の無限の輝きが一杯!』と唱え続けるだけで、古い自分が消し去られ、新しい自分に置き変わって来るのです。後は自然にすべて正しく導かれて、本心は無限に無限に輝き出て来るのです。



 天岩戸開きの神聖行事に至誠をもって参画せよ! “今”そのチャンスを逃すようでは、無限の悔いを残すことになるでしょう。神より選ばれた者が、神の呼び掛けに応えなければ、誰がその役目を果たすのでしょうか?自我の心(業想念・五欲)を生きる時代は、もう終わりに近づいたのです。自我の心にしがみついていては、自我の心の消滅と共に、自分も滅んでしまうのです。青虫も蝶になって飛び立たなければ、蛹のままで死んでしまうのと同じです。業想念の心から本心の心へと、生まれ変わらなければ、滅んでしまうのです。業想念の心は自壊作用を起こして、大轟音を発して崩壊するのです。業想念の心から抜け出して、本心の心の立場に自分を置かなければ、身の安全も保てなくなるのです。勇気をもって、新しい生き方を選ばなければならないのです。

 本心の心の自分を生きる為には、自我の心の自分を死に切らなければならないのです。自我の思い・願いをすべて捨て切らなければならないのです。神さまに自分のすべてを捧げ尽くして、『どうか神さまの御用にお役立て下さい』と、自分の方から神さまにお願いしなければならないのです。自分の一大決意が神さまに通じたら、その時から本心の心の自分を生きることができるように、神さまの大きな加護が加わるのです。自我の心を生きて、神さまを利用するだけの御利益信仰では、何万年信仰しても、業想念を積み重ねるだけです。神さまが今必要としているのは、自分の生命を捧げて、神さまのお役に立ちたいと願う真の信仰者です。本心の自分を徹底して生きようとする、不惜身命の勇者です。

 本当に本心の自分を生きたいのであれば、清貧に甘んじ、艱難辛苦を喜んで受ける覚悟をすれば、容易になるのです。誰でも過去世の借りを徹底して清算してゆけば、五欲の誘惑が少なくなって、本心の自分を生き易くなるのです。今からでも遅くは無いのです。他から受ける量よりも、他に与える量を多くしてゆくことが大事なのです。反省もしない、償いもしないでは、誰も助けてくれないのです。謙虚に・素直に・真剣に生きなければ、神さまの助けとも波長が合わないのです。

 天岩戸開きの為に、命懸けで、共に助け合って、神さまのお手伝いをさせていただきましょう、という真の同志だけが必要なのです。神さまの為に生命を捧げて生きようとする人を、神さまが大事に守って下さるのは当然です。自分や自分の家族の小さな幸せを、何も願わなくても、神さまの為に生きていれば、必要なものはすべて与えられるのです。どれだけ真剣に神さまの為に生きようとしているかが、本心開発のバロメーターになるのです。本心開発が進めば進むほど、幸せは無限に無限に大きくなってくるのです。天岩戸開きの為には、何が必要か? 何をなすべきか? 真剣さが求められているのです。



 繁栄の為の黄金律とは、最高の種子をできるだけ沢山種蒔きに使うことです。稲作においても、種籾は最高のものを選ぶのです。古い虫食いの種籾では、発芽もしないのです。種蒔きに使った量に比例して、収穫も多くなるのです。こんなことは誰にも判る明白な道理です。ところが実際の人生においては、種籾まで食べ尽くして、種蒔きを忘れている人が多いのです。貧しい者は益々貧しくなり、富める者は益々富むようになるというのは、貧しい者は種蒔きの量が少なく、富める者は種蒔きの量が多くなるからです。貧しい者が豊かになる為には、歯を食いしばってでも苦労に耐えて、種蒔きの量を多くしてゆくしか方法は無いのです。富める者も益々豊かになる為には、種蒔きの量を多くしてゆく必要があるのです。もし種蒔きを怠ったら、どんどん貧しくなってゆくのです。

 全力を尽くして、世の為・人の為に働いて、喜んで与え返されたものが、種蒔きに使える最高の種籾になるのです。不労所得の泡銭のようなものは、実の無い籾殻のようなもので、種蒔きには使えないのです。他から借りてきたようなものも、大抵は古い種子に違いないので、種蒔きには適さないものです。自分の収入のすべてを、過去の借金返しに取られてしまう、哀れな者もいるのです。自分の贅沢の為に、種籾まで食い潰す、愚かな者もいるのです。種蒔きをしなければ、どんどん貧しくなり、借金を増やすだけなのに。

 同じ種蒔きであっても、やり方によっては、その収穫に大きな差異が生ずるものです。どれだけ多くの幸せを与えたかに比例して、その収穫の量が決まるのです。多くの収穫を得る為には、世の為・人の為に、多くの幸せを与える使い方をする必要があるのです。最高の収量を得る為には、神さまの御心を現す為に使うことです。一粒何億倍以上の効果が期待できるのです。次に人の本心開発の手助けになるような使い方をすることです。一粒何万倍以上の効果が期待できるのです。次に「この御恩は一生忘れません」と言われるような使い方をすることです。少しは効果が期待できるのです。

 自分の一番大切なものを、報いを求めないで与える布施行においても、最高の価値あるものは無畏施であり、次が法施であり、その次が財施なのです。自分のいのち(時間)を真祈りに捧げるのが、無畏施です。神さまの御心を現す為に、天照大御神を現す為に、感謝の真を捧げる(天照大御神 今ここに 在します。新たなる全徳の無限の無限の輝きが一杯! ありがとうございます。)のが、無畏施であり、最高の種蒔きです。次に絶対神の言葉・真理の言葉に無限の価値を見出すことによって、真理を体得することが、心で真理を伝える法施です。次に自分の持っているすべてを駆使して、真理の言葉を伝えてゆくのが財施です。布施行は、悟りから来る無限の無限の豊かさを与えてくれるのです。