古神道(こしんとう)

 この小論文(しょうろんぶん)の内容(ないよう)は,各(かく)ページ毎(ごと)に独立(どくりつ)しています。どのページから読()み進(すす)んでも、少(すこ)しは参考(さんこう)にしていただける、真理(しんり)の言葉(ことば)の断片集(だんぺんしゅう)です。真理(しんり)をどの程度(ていど)指()し示(しめ)せているか、点数(てんすう)を付()けて見()て下(くだ)さい。読者諸賢(どくしゃしょけん)には、もっと素晴(すば)らしい真理(しんり)の言葉(ことば)を世()のため人(ひと)のために、沢山(たくさん)生()み出()して下(くだ)さることを、心(こころ)から期待(きたい)しています。 トップヘ

無限の無限の知恵が一杯!
No. 1  ■真の中心は、天照大御神です。全大宇宙のすべてのすべてに、
No. 2  ■本心の心の自分は、自己内在の神の力に信頼して、常に限界破りに
No. 3  ■与える心を生きる者は、弥栄に栄え、極楽に住むことができるので
No. 4  ■本心開発を願う者は、決して惰性に流されてはいけないのです。惰
No. 5  ■悟りを開く為には、本心の自分を引き出す為には、真剣さが必要な
No. 6  ■幸せに成る為に、本当に必要なことは、神さまに対し、神さまの現
No. 7  ■神さまと自分との間の、循環・交流を促進してゆくことが、神我
No. 8  ■感謝する人・感謝される人は、本心の心が光輝くのです。感謝しな
No. 9  ■真の人生の目的とは、神さまの御心である最高表現を、自分の世
No.10  ■謙虚と傲慢は、相対の両極です。謙虚な人は、極楽への道を歩み、
No.11  ■業想念とは、執着の心で、過去を掴む、想念感情のことです。神
No.12  ■虚栄心の業想念を消し去ることが、一番難しいのです。自分自身
No.13  ■七難八苦(業想念)を背負っているということは、恥ずかしいこと
No.14  ■謙虚な本心の自分の立場に立てば、すべてをプラスに感受すること
No.15  ■本心の心の自分に成れば、無限の無限の幸せで一杯になるのです。
No.16  ■借りを返すことによって、幸せは増大して来るのです。借りを殖や
No.17  ■どんな借りも、業想念の心(マイナスの心)となって、自分の心に
No.18  ■与える心と与える心の交流は、プラスの交流となって、お互いの
No.19  ■無限に無限に輝くことが、神さまからの至上命令です。輝くものの
No.20  ■今の一瞬一瞬に、何を選んで生きるかが、大事なのです。肉体の
No.21  ■『神さまへの全託』と一言で言っても、無限の種々様々な全託が有
No.22  ■無限の無限の幸せ一杯に生きる為には、神さまの大愛を、しっかり
No.23  ■真の信頼関係は、お互いの『いのち』を捧げ尽くし合う所に、成り
No.24  ■神さまが幸せの本源です。神さまへの感謝に比例して、幸せの程度
No.25  ■『ありがとうございます』という言葉は、宇宙絶対統一神の究極の
No.26  ■『ありがとうございます』と感謝することは、宇宙絶対統一神・
No.27  ■神さまが与え尽くし・与え続けて下さっている、すべてのすべての
No.28  ■神さまの最高表現に波長を合わせる為には、『スピード化する』と
No.29  ■古い自分のすべてを、神さまにお返しして、新しい自分に置き換え
No.30  ■神さまの本当の助けというのは、一瞬一瞬新たなる全徳の無限の
No.31  ■運命改善の秘訣は、プラスの言葉を駆使することです。プラスの
No.32  ■『求める心』を積み重ねると、『執着の心』に変化するのです。
No.33  ■運命を自由自在に支配できる、本当に正しい生き方をする為には、
No.34  ■『ありがとうございます』の中には、『無限のありがとうございま
No.35  ■『与える心』と『求める心』は相対の両極です。『与える心』を生
No.36  ■心に業想念(想念感情)を蓄積すると、その奴隷に陥り易いのです
No.37  ■真実の自分というのは、神さまと一体なのです。一瞬一瞬新たに、
No.38  ■この世とあの世との大きな違いは、この世はあの世の縮図になって
No.39  ■本心の心(感謝の心)をしっかりと生きていれば、業想念の心(
No.40  ■自分のすべてを捧げ尽くして、神さまへの絶対奉仕に生きることが
No.41  ■正しい信仰とは、本心開発(悟りを開く)の為の信仰です。例え
No.42  ■聖地というのは、神人を養成する為の場です。沢山の高級神霊が
No.43  ■感謝には、無限の無限の段階があるのです。無限の虚の感謝と
No.44  ■『働く』ということが、神さまの助けを大きく受け入れていること
No.45  ■神さまの願いを生きることが、神さまのお手伝いに生きることが、
No.46  ■心を向け続けたものに、心は同化してゆくのです。心はその対象物
No.47  ■本心の心の自分が本当に目覚めた時に、神さまを・神さまの世界を
No.48  ■全託・空・無為の極致に、御稜威(みいづ)・絶対神の御威光を
No.49  ■皇(すめら)の道・惟神道(かみながらのみち) ・古神道とは、真
No.50  ■自腹を切る覚悟が無ければ、本当の責任ある生き方はできないの
No.51  ■因縁因果の法則(因果律)は、厳然と存在しているのです。光の
No.52  ■真実に無限の無限の幸せで一杯である為には、真の神さまに、
No.53  ■真の信仰でなければ、本当のお蔭は受けられないのです。偽りの
No.54  ■『君が代は 千代に八千代に さざれ石の巌となりて 苔のむすま

 真の中心は、天照大御神です。全大宇宙のすべてのすべてに、新たなる全徳の無限の無限の輝きを、永遠無窮に与え続けることのできるのは、天照大御神御一神のみなのです。その天照大御神の御稜威の輝くところが、それぞれの中心となるのです。(1)一切の責任を自己に帰すところに、(2)大犠牲精神を発揮するところに、天照大御神は最優先して、助けに降りて下さるのです。その天照大御神の助けを、感謝を深くして受けることによって、すべての問題は根本から解決されるのです。すべての問題を解決して、調和をもたらすのが、それぞれの中心の役目なのです。

 天照大御神から、一瞬一瞬新たに、全徳の無限の無限の輝きを感受して、無限に無限に輝いている本心の自分であっても、真の中心にはなれないのです。天照大御神の助けが無ければ、自分自身は全く無に等しいからです。真に無限に無限に輝いている本心の自覚があればあるほど、無限に無限に謙虚になるしか無いのです。ただただ天照大御神の御稜威を讃えるのみなのです。

 自分は偉いのだと微塵でも思ったら、真の天照大御神を無視しているのです。過去を掴み、比較上の世界に自分を置いて、いかに優越感に浸ろうとも、それは本心の自分から遠ざかるだけです。過去を掴む個我の自分と比較すれば、本心の自分は無限に無限に偉大なのです。その本心の自分よりも、天照大御神は更に無限に無限に偉大なのです。だから自慢すればするほど、上に立てば立つほど、自己の程度の低さを、喧伝していることになるのです。

 無限に無限に謙虚なところへ、天照大御神は降り立って下さるのです。そしてそこがそれぞれの中心となるのです。無我無心無欲のところへ、感謝の深いところへ、天照大御神が降り立って、そこを大きく光輝かせて下さるのです。真に尊敬と信頼が向けられているのは、あくまでも天照大御神に対してなのです。そのことを微塵でも忘れたら、本心の感謝一筋の生き方から外れてしまうのです。本心の自分は常に常に、天照大御神への徹底感謝に生きるのみなのです。

 肉体の自分が偉いのでは無いのです。魂の自分が偉いのでは無いのです。本心の自分が偉いのでは無いのです。天照大御神のみが、無限に無限に偉大なだけです。惟神道では、天照大御神の御稜威を讃え、感謝するのみです。天照大御神への感謝に始まり、感謝に終わるだけです。天照大御神の全徳の無限の無限の輝きを、しっかりと認めるだけです。無限に無限に高く・広く・深く、感謝三昧の境地を極めてゆくだけです。感謝の真祈りによって、天照大御神を拝受することが、真実の無限の無限の幸せなのです。



 本心の心の自分は、自己内在の神の力に信頼して、常に限界破りに挑戦し、全力を出し尽くして、無限の能力を発揮しようとするものです。業想念の心の自分は、棚からぼた餅式に、他から助けてもらうことばかり願って、甘えて怠けて、苦労から逃げようとするものです。与える心を生きる本心の自分には、自己内在の神の力が湧き出て来るのです。だからどんな苦労も苦にならないのです。全力を出し尽くして働くことに、大きな生き甲斐と喜びを見出せるのです。他に対してより多くの幸せを与えることが、自分の無限の無限の幸せに直結しているからです。求める心を生きる業想念の自分には、自己内在の神の力は湧き出て来ないのです。だから必ず行き詰まり、七難八苦に見舞われることになるものです。

 与えて与えて与え尽くす生き方を徹底すれば、本心の自分は大きく輝いて来るのです。自己内在の神の力・無限の能力が湧き出て来て、必ず十人前以上の仕事ができるようになるのです。過去世の借金返し(恩返し)を済ませ、他に迷惑をかけないように自立して、他を助ける為の余力を、どんどん増やしてゆけるのです。ボランティア活動に生きようと願う者は、少なくとも三人前以上の仕事をこなす必要があるのです。能力を高め、スピード化して、仕事の量をこなさなければならないのです。真のボランティア(奉仕者)として、神さまに奉仕しようとする者は、十人前以上の働きをする為に、真剣に・命懸けで、全力を出し尽くさなければならないのです。

 感謝の真祈りによって、神さまへ奉仕しようとするならば、先ず本心の心の自分に戻る必要があるのです。御利益を求める業想念の心では、感謝の真祈りはできないからです。本心の心の自分に戻る為には、徹底して与える生き方を実行することが大事なのです。与えて与えて与え尽くせば、必ず本心の自分が湧き出て来るのです。与え尽くす生き方によってのみ、神さまとの交流ができるのです。求めるだけの生き方では、神さまとの交流は不可能なのです。どんな場合でも、行き詰まる根本の原因は、求める心を生きて、自己内在の神の力を発揮しないからです。

 正しい人生の目的・目標を定めたならば、粉骨砕身して働くことに、真の生き甲斐と喜びを見出せるのです。どんな苦労も厭わないのです。苦労が多いほど、喜びも大きくなるのです。大きな責任を背負うことに、大犠牲精神を発揮することに、大きな生き甲斐と喜びを味わうことができるのです。神さまの御心のままに生きるということは、自分の方から神さまの願いを汲み取って、その願いを実現する為に、必要なことに全力を尽くすことなのです。指図されたり、動かしてくれるのを待っていたら、何もできないのです。



 与える心を生きる者は、弥栄に栄え、極楽に住むことができるのです。与えれば与えるほど、幸せは大きくなって返って来るのです。報いを求めないで与えたものは、必ず利息が付いて、大きくなって与え返されるのです。この原理は、この世においても・あの世においても・神さまの世界においても、すべてに通用するものです。

 この世において、自分の与えたものが、他から与えられたものより多ければ、与える心を生きたことになるのです。与える心を生きる為には、少なくとも三人前以上の働きが必要になるのです。(1)過去(過去世)の借金返しの為に、(2)他に迷惑をかけないで自立する為に、(3)余力をもって他を助ける為に、どうしても三人前の働きが必要なのです。
(1) 過去(過去世)の借金返しとは、親孝行や子供の養育のことです。子供は過去世の恩人です。だから自分の身を削ってでも、尽くさせられるのです。

(2) 他に迷惑をかけないで自立するとは、自分の生活に必要なものを与えられたら、それに見合うだけのお返しをすることです。

(3) 余力をもって他を助けるとは、能力を高め・仕事を迅速化し・働く時間を増やし、実質的な仕事の質と量を拡大して、余力を生み出して他を助けることです。

 与える心を生きるようになれば、本心の心が輝いて来るのです。与えられる量よりも、与える量が少なければ、借金の心・業想念の心に陥るのです。業想念の心から本心の心に戻る為には、粉骨砕身・身を粉にして働くことが、本心の自覚の無い人にとっては、一番の方法なのです。世の為・人の為に、真剣に働くことが、与える心を生きる為には、絶対に必要なことなのです。

 本心の自覚が少しでも出て来れば、あの世との交流・神さまの世界との交流によって、幸せはどんどん大きくなってゆくのです。先祖供養や守護の神霊への感謝によって、あの世との交流を密にしてゆけば、大きな加護が受けられるのです。神さまの世界は、一瞬一瞬新たなる、全徳の無限の無限の輝きで一杯の世界です。神さまの世界との交流とは、一瞬一瞬、自分のすべてを神さまにお返しして、すべてを神さまから受け直すことです。

 一切の報いを求めない、純粋な報恩(恩返し)の心で、神さまに対して、自分のすべてを捧げ尽くしてゆくことが、与える心の極致を生きることになるのです。至忠至孝至悌の心で、神さまへの絶対奉仕に生きることこそが、真実に与える心を生きていることになるのです。この生き方になってこそ、無限の無限の幸せで一杯になるのです。一日も早く、一刻も早く、この真実の生き方に戻ることが大事なのです。神さまの御心をこの世に現す為に、神さまが何を願い・何を必要としているかを、しっかりと察知して、率先垂範して実践躬行することが、真実の与える心を生きることなのです。






 本心開発を願う者は、決して惰性に流されてはいけないのです。惰性というのは、過去に積み重ねた業想念の、習慣性・傾向・習性・癖・業力なのです。一瞬一瞬、本心の自分をしっかりと生きようとしなければ、一寸の油断で、直ぐに惰性に流され、業想念の奴隷に陥るものです。惰性に流され、業想念の奴隷に陥れば、自分の心は必ずマイナス(七難八苦)の状態になってゆくのです。七難八苦というのは、本心の自分を生きるのを忘れた時に、闇のように忍び寄って来るのです。本心の自分(光の自分)をしっかりと生きている限りは、決して七難八苦(闇)は近寄って来ないのです。だからマイナス(七難八苦)の状態は、本心の自分をしっかりと生きなさい、という警鐘なのです。

 本心の自分というのは、一瞬一瞬新たに、新生してくる自分です。新たなる全徳の無限の無限の輝きで一杯!の自分です。本心の自分を自覚し、本心の自分をしっかりと生きていさえすれば、常に無限の無限の幸せで一杯!なのです。本心の自分を自覚し、その自覚を深める為には、正しい祈りを、祈りに祈らなければならないのです。一瞬一瞬の真剣な祈りを忘れた時に、惰性の祈りに陥り、本心の自分の自覚が失われてゆくのです。本心の自覚を保持する為の祈りは、常に一瞬一瞬の、真剣な祈りなのです。

 本心の自分をしっかりと生きるということは、
(1) 謙虚に謙虚になること、

(2) 真剣になること、

(3) すべてを神さまから受け直すこと、

(4) 恩返しの心で与え尽くすこと、

(5) すべてを光一元に仰ぎ見ること、

(6) 常に全力を出し尽くすこと、

(7) 全体(全相)を見ること、

(8) 総責任者の立場に立つこと、

(9) 素直になること、

(10) 自由自在になること、
 等々です。

 本心を開発する(悟りを開く)為には、真の神さまの助けが必要なのです。新たなる全徳の無限の無限の輝きを、感受することが必要なのです。

 その為には先ず、
(1) 過去世に積み重ねた無限の業想念を、救済の神々(守護の神霊)に縋って、消し去ってもらうことです。謙虚な心で、真剣に努力をしていれば、大きな加護が与えられるのです。自我誇りを捨てて、捨てて、捨てきって、謙虚に謙虚に感謝することが大事なのです。
 次に
(2) 自分のすべてを神さまに捧げ尽くして、神さまへの絶対奉仕に生きることです。古い自分を神さまにお返しすれば、新しい自分を神さまから受け直すことができるのです。古い自分を捧げ尽くした程度に比例して、新しい自分(本心)が輝き出て来るのです。
 そうすれば
(3) 感謝の真祈りのできる自分になって、新たなる全徳の無限の無限の輝きを、感受できるようになって来るのです。今の一瞬一瞬を、神さまと神さまの現れに対して、感謝と報恩の心で生きることができるようになれば、既に悟っている自分(本心の自分)を生きていることになるのです。新たなる『今』を生きるのが、本心の自分なのです。



 悟りを開く為には、本心の自分を引き出す為には、真剣さが必要なのです。自己限定の思い(限界)を打ち破る為には、常に真剣に、限界破りに挑戦する必要があるのです。過去世に積み重ねた無限の業想念は、常に本心の現れるのを邪魔しているのです。悟りを開く為には、この業想念を消し去ろうとする、一大決意と一大勇猛心が必要なのです。業想念の奴隷になって、業想念に操られていては、不可能なのです。

 無限の業想念を消し去り、悟りを開く為には、神さまの大きな加護が必要なのです。どうすれば本当に、神さまの大きな助けが受けられるのか? 自分自身が自分自身で、本当に納得できる答えを、見出すことが大事なのです。どんなに苦労してでも、自分自身の答えが必要なのです。自分自身の答えであれば、命懸けで実行できるのです。他に責任を転嫁しなくなるからです。

 神さまへの絶対奉仕が、悟りへの最短コース、一番の易行道なのです。悟りを開く為には、悟りを開きたいという真剣な願いが必要なのです。自分のすべて(いのち)と引換えにしてでも、悟りを開きたいのだという、一大目的・一大決意・一大誓願を立てる必要があるのです。すべては自分自身の願い通りになるからです。

 神さまへの絶対奉仕とは、10人前の働きをすることなのです。神さまの願いを汲み取って、その為に必要なことを、全力でスピード化して、実現してゆくことなのです。本当に神さまへの絶対奉仕に生きる覚悟ができたならば、仕事を能率的に何倍もスピード化して、朝昼晩と働く必要があるのです。そうすれば願わなくても、神さまは助けに降りて下さるのです。守りに護って下さるのです。本心の自分が輝き出て来るのです。

 祈りによって神さまに奉仕したいのであれば、寝食を忘れて、祈りに祈る練習が必要なのです。一瞬たりとも、祈りを忘れてはならないのです。それだけの真剣さが必要なのです。その真剣さを引き出す為にも、普段の日常生活の中で、何事にも真剣に打ち込むことが大事なのです。一分一秒を、大事に大事に、活かし切らなければならないのです。

 神さまが守りに護って下さる自分になれば、神さまの大きな加護が受けられて、悟りが開けるのです。自分のすべてを、与えて与えて与え尽くすから、神さまから無限の助けが与え返されるのです。本当の神さまへの奉仕に生きるようにならなければ、神さまの大きな助けを受け損なうことになるのです。神さまの助けを受け損なって、神さまの守りから切り離された自分は、根の無い切り花と同じです。後は衰退し、枯れ果てるのを待つだけです。永遠不滅の・無限の無限の幸せは、悟りを開くことによって、神さまと直結することによって、完璧に保証されるのです。




 幸せに成る為に、本当に必要なことは、神さまに対し、神さまの現れであるすべてに対して、いのちがけで、感謝を深め、恩返しに生きることなのです。七難八苦の状態に陥るのは、この感謝と恩返しを忘れているからです。贅沢に生きることは、本当の幸せでは無いのです。逆に滅びへの道を歩んでいるのです。本当に必要なことだけで満足できるようにならなければ、神さまの愛を、ひしひしと実感することはできないのです。神さまは、本当に必要なものだけを、与え続けて下さるのです。欲望満足の為に、余計なものをかき集めては、幸せから遠ざかるだけです。

 一切の報いを求めないで、与え尽くす生き方が、神さまの愛の御心と波長が合って、神さまの絶対の愛を実感できるのです。神さまの愛が本当に実感できた時に、人は無上の幸せを感じるのです。神さまの愛が感じられなければ、すべての幸せは、砂上の楼閣のように、儚く崩れ去るのです。宝の山も、瞬時にして、ゴミの山に変化するのです。神さまの愛を、常に常に実感し続ける為には、与えて与えて与え尽くす生き方を、実行することが大事なのです。

 与える心を生きる者は、極楽世界に安住できるのです。求める心を生きる者は、地獄世界へ落ちてゆくのです。他の幸せを優先し、自分の幸せを後回しにする人は、極楽世界に住める人なのです。自分の幸せを優先し、他の幸せを後回しにする人は、地獄世界に落ちる人なのです。日常生活の中で、どちらの生き方を実行しているかによって、幸せの程度が定まるのです。

 お互いに必要なものを与え合うのが、極楽世界の姿です。お互いに欲しいものを奪い合うのが、地獄世界の姿です。自分に必要なものが、求めなくても、与えられるようになれば、極楽世界の住人です。そうなる為には、先ず自分自身から、与え尽くす生き方を実行することです。他の幸せだけを願って、与え尽くす人は、自分の幸せは願わなくても、必ず他から豊かに与えられるのです。自分の幸せを優先する人は、孤立無縁の孤独地獄に陥るのです。他の幸せをも自分の幸せとして、大きな幸せを実感できる人が、本当に幸せな人なのです。

 自分の心が、自分の生き方が、自分の世界を造っているのです。自分の与えたものが、周りから与え返されるのです。報いを求めないで与えたら、必ず報いを求めないで与え返されるのです。お返しを求めて与えたら、必ずお返しを求めて与え返されるのです。自分の心を鏡に写して見ているのが、この世の世界なのです。だから神さまの御心を自分の心として生きれば、この世も必ず極楽世界と成るのです。




 神さまと自分との間の、循環・交流を促進してゆくことが、神我一体への道なのです。神さまの絶対の愛の働きは、一切の報いを求めないで、自分のすべてを与え尽くす、順流の流れなのです。だから神さまと交流する為には、自分も順流の流れを起こす必要があるのです。ただ感謝一筋に、自分のすべてを捧げ尽くす、絶対奉仕の生き方が、順流の流れを起こすのです。神さまと自分とが、相互に与え尽くし合うことによって、循環・交流が起こり、融合・一体化してゆくのです。

 神さまから受けたすべてを、神さまの御心を実現する為に、与え尽くしてゆくことが、神さまと交流する為の秘訣なのです。どんな求める心も逆流を起こし、神さまとの交流を妨げるものです。『ありがとうございます』という感謝の心は、神さまの順流の流れに、自分のすべてを任せ切る、全託の心です。謙虚な心で恩返しに生きられる、最も自然な心なのです。この感謝の心こそが、本当の自分の心なのです。

 『ありがとうございます』と唱えれば、天照大御神の新たなる全徳の無限の無限の輝きが、必ず大光明燦然と降り注ぐのです。その光の流れに自分を任せれば、過去世に積み重ねた無限の業想念も、洗い清められ・消し去られて、感謝の心・本心の自分が輝き出て来るのです。感謝一筋の心・感謝三昧の心は、即ち全託の心・恩返しの心なのです。必然的に与え尽くす・捧げ尽くす・お返しする、絶対奉仕の生き方になるのです。

 悟りを開く為には、神さまへの絶対奉仕が必要なのです。与え尽くす心を起こすことが必要なのです。悟りを開きたいと、真剣に願う心が必要なのです。真剣な心・いのちがけの心・渇仰の心・与え尽くす心を起こさせる為に、真実の導師に出会えるチャンスを、何万年に一回、何億年に一回というように、少なくしているのです。また出会えても、真剣な心を起こさせる為に、真実の導師は、姿を隠し・この世から姿を消し去るのです。

 真に真に、真実の幸せは、悟りを開くことによって得られるのです。霊覚(神の自覚)を得ることによって、真実の幸せを実感できるのです。どんな霊能力・超能力を発揮しても、どんなに世の為・人の為に尽くしても、真実の悟りを開かなければ、すべては儚く・虚しく消え去るのです。人生の目的を、悟りを開くという、正しい目的に絞り込まなければ、真実の幸せへの道を歩むことはできないのです。

 業想念の心の奴隷状態から抜け出す為には、真剣な感謝行が必要なのです。真剣に感謝を捧げてこそ、業想念を消し去ってもらえるのです。無限に価値有る悟りを得る為には、その代償として、自分のいのち(すべて)を、神さまに捧げ尽くすことが必要なのです。そうすれば一瞬一瞬新たなる、神さまのすべてを、受け直すことができるのです。




 感謝する人・感謝される人は、本心の心が光輝くのです。感謝しない人・感謝されない人は、業想念の心が積み重なるのです。本心の心の輝いた人が、幸せな人なのです。業想念の心の積み重なった人が、七難八苦で一杯になって、不幸せな人なのです。人の幸不幸というものは、感謝があるかどうかで決まるのです。

 自分の立場をマイナスの極に置いて、謙虚に謙虚に成れる人は、感謝が自然に湧き出て来るのです。感謝を深める為には、自分のすべてを与え尽くして、空っぽの心になることが大事なのです。自分の物は何も無いという立場に立てば、謙虚に謙虚に成れるのです。自分の力は何も無いのだ、すべては神さまのお蔭なのだと思える人は、謙虚に感謝できるのです。自分の物は何も無いのだ、すべては神さまからの預かり物なのだと思える人は、謙虚に感謝できるのです。

 世の為・人の為に、プラスのことをしても、自分がしたのだと思えば、高慢になって、感謝できないのです。また自分がしたのだと、恩きせがましくなれば、誰からも感謝されないのです。感謝は本来、蔭で働く神さま・お蔭様に対するものなのです。人の背後で・蔭で、本当の力を振るっているのは、神さまなのです。その神さまの働きを感じた時に、感謝の心が自然に起きるのです。

 自分の背後の神さまに向けられた感謝を、自分への感謝だと錯覚するところに、大きな間違いが生じるのです。神さまへの感謝を、自分が横取りすれば、泥棒と同じです。神さまへの感謝を、自分へ向けるように強要すれば、強盗と同じです。自分への感謝だと思っている人は、いつも泥棒や強盗をしていることになるのです。神さまから見放されたら、一瞬も存在できない自分なのだということに、一刻も早く気付かなければ、大きな罪を犯し続けていることになるのです。

 神さまから与えられたすべてのものは、それを正しく活用するようにと、預けられたものばかりです。自分の所有物にして、自分勝手に使ったり、溜め込むことは、大きな間違いなのです。必要なところへ与え尽くして、正しく循環させる義務を負っているのです。正しく循環させることを怠れば、世界全体を死滅へ導く、大きな罪を犯しているのです。必要なものが必要なところへ、正しく迅速に、循環流通することによって、極楽世界が実現するのです。神さまのものを、私物化するところに、根本の間違いがあるのです。それが個人であっても、団体であっても、国家であっても、同じなのです。執着して、私物化し、死蔵すれば、そこはゴミ溜めと化し、業想念で一杯に成るのです。すべてのものを活かし切るようにならなければ、感謝の深い自分には成れないのです。




 真の人生の目的とは、神さまの御心である最高表現を、自分の世界に実現し、心行くまで味わうことなのです。その為には先ず、神さまの御心を、新たなる全徳の無限の無限の輝きを、心にしっかりと感受する必要があるのです。正しい祈りを祈りに祈って、感謝を深めて、神さまの御心を、しっかりと心に受け入れることが、何よりも何よりも必要なのです。心に受け入れたものが、自分の世界となって現実化して来るからです。

 言葉通りに、思い通りに、すべては実現して来る、というのが法則なのです。神さまの御心を表す、善き言葉を駆使して、神さまの御心に波長を合わせてゆけば、後は自然に、神さまの御心は現実化して来るのです。自分の駆使する言葉通りに、自分の心に受け入れた通りに、すべては現実化して来るのです。自分の見ている世界のすべては、自分自身が駆使して来た言葉の通りに、現実化しているのです。

 自分の駆使する言葉が、自分の世界のすべてを決定しているのです。自分自身に全責任が有るのです。自分の世界のマイナスを、他人の所為にしたら、大きな間違いなのです。もし他人の所為にする言葉を使ったら、自分の世界に、無責任な自分が現実化して来て、マイナスが増えるだけです。自分の駆使して来たマイナスの言葉が、自分の世界に、そのマイナスの言葉通りの姿を、現実化しているのです。

 プラスだけの運命・世界を味わいたいのであれば、プラスの言葉だけを駆使することが必要なのです。今の自分の運命・世界が、無限のマイナスで一杯であっても、プラスの言葉だけを駆使し続けるならば、必ずプラスの運命・世界が現実化して来るのです。すべては言葉通りに現実化するのです。プラスの言葉を使えば使うほど、プラスは増えて来るのです。マイナスの言葉を使えば使うほど、マイナスは増えて来るのです。

真の神さまに対して、感謝すればするほど、無限の無限のプラスが、必ず現実化して来るのです。だから逆に言えば、真の神さまに対して、真の感謝が足りない分だけ、マイナスが現実化しているのです。感謝が無いから、プラスが現実化しないのです。それがマイナスなのです。感謝すれば、プラスが増えて来るのです。感謝を忘れたら、マイナスが増えて来るのです。自分自身でしっかりと確かめて見れば良いのです。

 真の神さまへの感謝が無ければ、マイナスで一杯の運命・世界を、永遠に味わい続けなければならないのです。理屈では無いのです。実行すれば、即座に判ることです。マイナスをプラスに変えたいと幾ら願っても、マイナスの言葉を使っている限りは、マイナスは現実化し続けるのです。感謝できない・感謝したくないなどと、神さまへの感謝を拒絶している限りは、永遠に救われることは無いのです。




 謙虚と傲慢は、相対の両極です。謙虚な人は、極楽への道を歩み、傲慢な人は、地獄への道を歩んでいるのです。謙虚になればなるほど、感謝と報恩の心が湧き上がって来て、幸せが大きくなるのです。傲慢になればなるほど、不平不満不足の我欲の心に陥って、苦しみが大きくなるのです。

 謙虚な心は、すべてを光一元に仰ぎ見て、プラスに感受するのです。ただただ有り難くて、恩返しに生きるのです。神さまへの感謝と報恩の心が、自然に湧き上がって来るのです。神さまに生かされ、神さまからすべてを与えられ、感謝・感嘆・感激・感動・感涙で一杯になるのです。無限の無限の幸せを与えられていることに気付き、自分のすべてを捧げ尽くして、恩返しに生きるのです。すべてを神さまからの預かり物として、自分の所有(もの)とは思わないのです。

 傲慢な心は、高慢も卑下慢も、我の主張が強いのです。高慢な心は常に、自分が自分がと、のさばり出るのです。神さまの所有(もの)を、自分の所有(もの)だと主張し、神さまの働きを、自分の働きだと主張するのです。徹底的に神さまを無視し、神さまの働きを否定するのです。神さまが居なければ、神さまの働きが無ければ、何一つとして存在することは無いのに、こんな簡単な道理も判らないのです。卑下慢の心も、徹底的に神さまの働きを否定し、神さまの助けを拒絶するのです。神さまの助けを受けたら、何でもできるのに、また無限に素晴らしくなれるのに、できない・できない・駄目だ・駄目だと、強く主張し続けるのです。

 謙虚な心で、感謝と報恩に生きてこそ、幸せは大きくなって来るのです。この簡単な道理も判らないのは、無限の業想念を積み重ね、その奴隷に陥っているからです。換言すれば、感謝と報恩の生き方を、実行して来なかったからなのです。少しでも感謝と報恩の生き方を実行していたら、ここまで落ち込むことは無いのです。本心の自分が、何の力も発揮しなかったら、善きものは何も生まれないのです。本心の自分を呼び覚まし、本心の自分を叱咤激励し、その力を発揮しなければ、決して幸せにはなれないのです。

 神さまへの真の感謝が無ければ、神さまの所有(もの)を、無断で盗み・奪い・傷つけ・殺しているのです。強盗殺人の大罪を犯し続けているのと同じなのです。このことに気付かないで、何の反省も・お詫びも・償いも無ければ、地獄での無限の刑期が待っているのです。盗み取った物を他に与えても、貰った者も同罪になり、大きなマイナスを与えたことになるのです。感謝を深めて、神さまから受けた物で無ければ、業想念(マイナス)で一杯なのです。本当に『無知』ほど恐ろしいものは無いのです。





 業想念とは、執着の心で、過去を掴む、想念感情のことです。神さまへの感謝を深めてゆけば、業想念は自然に消滅するのです。神さまと人との間の縦の交流が、古いものと新しいものの置き換えになり、業想念の心から本心の心に戻る生き方なのです。神さまへの感謝を深めて、一瞬一瞬新たに新たに、すべてを神さまから受け直せば、常に本心の心が最高に輝くのです。神さまへの感謝を忘れ・怠った分だけ、古いもの・業想念の心が残るのです。

 感謝一筋・感謝三昧の生き方になれば、業想念の心とは無縁になるのです。もし自分の心の中から、業想念の心が少しでも出て来るとしたら、まだまだ自分の心の中には、無限の業想念が残っているのだと、反省しなければならないのです。そして感謝を徹底して、すべての業想念を消し去らなければならないのです。自分自身の積み重ねた業想念は、自分自身で消し去ることが原則なのです。

 人と人との間の横の交流にも、留意する必要が有るのです。本心の心の輝いた人との交流は、業想念を消し去る生き方です。業想念の心で一杯の人との交流は、業想念を積み重ねる生き方です。業想念を少なくして、感謝のし易い自分になる為には、交流する人を選ぶことも大事なのです。感謝のできる自分になる為には、他の助けも必要なのです。業想念の心で一杯になったら、感謝の心は出て来ないからです。

 業想念の心を持った人と人との貸し借りは、業想念のやり取りなのです。他からの借りは、他の業想念を貰う・被ることになるのです。他への貸しは、自分の業想念を貰ってもらう・被ってもらうことになるのです。受ける量よりも、与える量の少ない人は、いつも直接・間接的に、他から業想念を被る状態になるのです。だから世の為・人の為に、しっかりと働いて、借越にならないようにすることが大事なのです。

 自分の積み重ねた無限の業想念の上に、他からの業想念を沢山貰ったら、感謝の心は奥深く隠されてしまうのです。感謝のできない自分になってしまったら、取り返しがつかなくなるのです。質素に質素に生活して、世の為・人の為に、全力で与え尽くす生き方を徹底することによって、感謝できる自分になって来るのです。

 業想念を被る・苦を背負うだけでは、決して業想念も苦も消え去ることは無いのです。業想念(七難八苦)を背負ったままで良いから、全力で働くことによって、本心の自分が出て来て、業想念(七難八苦)も消え去り、楽になって来るのです。感謝を無限に無限に深めて、神さまの全徳の無限の無限の輝きを、無限の無限の光のシャワーを感受することによって始めて、大きく業想念(七難八苦)を消し去ることができるのです。





 虚栄心の業想念を消し去ることが、一番難しいのです。自分自身が気付かなければ、消し去ろうともしないし、逆に増長させて、業想念を積み重ねることになるのです。本当の栄えとは、本心の自分を輝かせることです。一切の業想念を消し切って、本心の自分を無限に無限に輝かせることです。それ以外は、虚の栄えを喜ぶ、虚栄心の業想念なのです。本心の自分を無限に無限に輝かせる為には、新たなる今の一瞬を、無限の無限の感謝一筋に生き切ることです。過去の残像に囚われないで、神さまの新たなる全徳の無限の無限の輝きを、しっかりと感受し続けることです。

 本心の自分の無限の無限の輝きと比較すれば、どんな過去の足跡・残像も、無に等しいものなのです。肉体の自分・魂の自分が、どんなに素晴らしいからと言っても、自慢できるようなものでは無いのです。目くそ・鼻くそ・爪の垢が、自慢しているのと同じです。自慢すればするほど、程度の低さを露呈し、恥ずかしい限りです。

 自分を出したい・認められたい・褒められたい、自分の名を・働きを・足跡を・業績を残したい、等々の願いは、虚栄心から来るものなのです。何事も本当に必要最低限のもので満足できなければ、深い感謝が無ければ、一寸した贅沢な生き方をするだけで、虚栄心の奴隷に陥るものです。他と比較して、今の自分がどんなに素晴らしくても、それを自慢したい心では、本心の自分を見失うことになるのです。一瞬でも感謝を忘れ、本心の自分を見失った時は、虚栄心という業想念の奴隷なのです。必ず儚い・虚しい心に陥って、本当の心の安らぎを失ってしまうのです。

 神さまの所有(もの)を自分の所有(もの)と主張するのは、大きな虚栄心です。神さまの働きを自分の働きのように主張するのは、大きな虚栄心です。他の所有(もの)を・他の働きを、自分の所有(もの)・自分の働きのように主張するのは、大きな虚栄心です。虎の威を借る狐のような生き方は、二重三重の虚栄心の奴隷に陥っているのです。虚栄心の奴隷に陥っている時は、大きく業想念を積み重ねているのです。

 神さまが自分を通して、必要な物を他に与えているのに、自分が与えているのだと言えば、大きく業想念(借り)を積み重ねているのです。謙虚に感謝して、神さまの手足(パイプ役)になっていれば、大きな神さまの助けを受けることができたのに、二重の大損をしていることになるのです。更に自分以外の人がしていることなのに、自分がしているかのように恩きせがましく言えば、三重の大損をしているのです。自我の虚栄心の主張は、どこどこまでも業想念(借り・マイナス)を積み重ねるのです。一寸でも虚栄心が顔を出したら、徹底的に叩き潰し、消し去らなければならないのです。



 七難八苦(業想念)を背負っているということは、恥ずかしいことなのです。何故ならそれは、神さまへの感謝と恩返しを、忘れ・怠った結果だからです。また何時までも七難八苦(業想念)を背負っていたら、それは神さまへの感謝と恩返しに、いのちがけで生きようとしていない、ということを証明しているのです。何故なら、いのちがけで感謝を深めたら、無限の無限の浄めの光を浴びて、浮かび出た業想念を、瞬時に消し去ってもらえるからです。またいのちがけで恩返しに生きたら、背負っている七難八苦(業想念)を、引き受けて・消し去って下さるからです。

 神さまの浄め・癒しの媒介(パイプ役)になる為には、先ず自分の心を完全に浄め尽くさなければならないのです。そして感謝を深めて、神さまの全徳の無限の無限の輝きを、いつも実感できるようにならなければならないのです。そうでなければ他人の業想念(七難八苦)を振り替えて、消し去ることは不可能なのです。他人の業想念を被るということは、自分の過去世の借金の取り立てに会っただけです。業想念の波を感じるというのは、自分の心の中に、同じ業想念の波が存在するということなのです。真の振り替えの業は、悟りを開いて、神さまだけを実感できるようになった時に、始めて可能なのです。

 高慢な心になって、他人の業想念を背負っているのだと、いい気になっていたら、大変な目に会うのです。自分の無限の業想念の上に、更に他人の業想念まで背負ったら、地獄への道を加速することになるのです。お祈りの場・奉仕の場に近づくことも邪魔されて、貴重な救われのチャンスを失ってしまうのです。謙虚に謙虚になって、いのちがけで神さまに縋らなければ、自分の業想念を少なくすることも不可能なのです。

 マイナス(業想念)を相手にしたら、マイナス(業想念)を自分の心の中に取り込むことになるのです。マイナス(業想念)に心を向けたら、マイナス(業想念)に同化してゆくのです。神さま(無限の無限のプラス)だけを相手にし、神さまだけに心を向け続けてこそ、業想念を消し去って、本心を輝かせることができるのです。徹底して、神さまへの感謝と奉仕に生きてこそ、無限の業想念も消し去られ、悟りが開けるのです。

 七難八苦(業想念)を背負うだけでは、何の役にも立たないのです。苦を背負ったままで良いから、神さまの中へ飛び込まなければならないのです。神さまの中へ飛び込むということは、いのちがけで感謝のお祈りをし、いのちがけで全力を尽くして奉仕することなのです。そうすればどんな七難八苦も業想念も消し去って下さるのです。苦を背負って働くことが、苦労なのです。働くことによって、本心が輝き、苦は楽に変ずるのです。苦労が大きければ大きいほど、早く大きな楽を手にすることができるのです。



 謙虚な本心の自分の立場に立てば、すべてをプラスに感受することができるものです。もしマイナスに感受するものが少しでも有ったら、反省し・お詫びして、高慢な心を消し去ってもらうことが必要なのです。本心の自分は常に、マイナスの極からプラスの極を仰ぎ見て、すべてをプラスにプラスに感受できるのです。本心の自分を無限に無限に輝かせようとするならば、本心の自分を真剣に生きなければならないのです。高慢な心の奴隷に陥っているのは、本心の自分の力を発揮しないで、怠けているからなのです。

 自分自身の怠慢の結果を、他人の所為にして、責任逃れをしていてはいけないのです。マイナスの極まで降りる努力をすれば、謙虚に謙虚に成れるのです。そうすればすべてを大きなプラスに感受できるのです。また感謝と報恩の心をしっかりと生きれば、すべてはプラスにプラスに置き変わって来るのです。どんなマイナスをもプラスに置き換え、神さまの最高表現を現実化してゆくことが,本心の自分をしっかりと生きているかどうかの、バロメーターになるのです。

 謙虚になる努力を、マイナスをプラスに置き換える努力を、真剣に継続することによって、本心の自分は輝きを増して来るのです。何の努力もしないで、じっとしていたら、本心の自分は奥深く隠されてしまうのです。常に常に全力を出し尽くして、感謝と報恩の真を生きることが、本心の自分を引き出し、輝かせることになるのです。そうすれば神さまの最高表現を現実化して、それを味わえる自分に成れるのです。他に責任を転嫁する怠惰な生き方に陥ったら、危険信号なのです。

 日々瞬々刻々、本心の自分の自覚を深めてゆくことが、何よりも何よりも大事なことなのです。本心の自分を見失って、業想念の奴隷に陥ったら、無限の無限の損失なのです。神さまの愛を感受できない自分になってしまったら、無限の恐怖心で一杯になってしまうのです。無限の無限の幸せを実感できないというのは、未だプラスの状態です。でも無限の無限の恐怖心で一杯になったら、取り返しのつかないマイナスの状態です。

 何事も業想念の所為にしていては、大きな間違いです。本心の自分を生きないから、業想念が我が物顔で出て来るのです。本心の自分が輝かないから、業想念が顔を出すしか無いのです。光を灯さないから、闇が出て来るしか無いのです。本心の自分を生きるかどうかは、自分自身の問題なのです。他人に言われても、他人に強制されても、自分自身が本心の自分を生きようとしなければ、決して生きることはできないのです。自分自身が本心の自分を生きようとさえすれば、他の何ものも邪魔することは不可能なのです。どんな運命も、自分自身の自由意思による作品であって、自分自身の努力の結果なのです。




 本心の心の自分に成れば、無限の無限の幸せで一杯になるのです。業想念の心の自分に成れば、無限の無限の七難八苦で一杯になるのです。本心の心の自分は、常に無限の無限の幸せで一杯なのです。無限の無限の幸せそのものなのです。業想念の心の自分は、常に無限の無限の七難八苦で一杯なのです。無限の無限の七難八苦そのものなのです。自分がどちらの心を選んで、どちらの心に成るかによって、決定されるのです。

 本心の心の自分は、幸せに波長が合って、幸せを引き寄せ、幸せを感受するのです。業想念の心の自分は、七難八苦に波長が合って、七難八苦を引き寄せ、七難八苦を感受するのです。何事もすべて、波長の合うものだけを感受するのです。波長の合わないものは、決して感受できないのです。本心の心の自分は、何時いかなる時も、幸せ一杯なのです。業想念の心の自分は、何時いかなる時も、七難八苦で一杯なのです。

 本心の心の自分とは、すべてを神さまから、新たに新たに受け直す自分です。業想念の心の自分とは、過去のものに執着し、掴み、離さない自分です。新しいものほど、新たなる全徳の無限の無限の輝きで一杯なのです。古いものほど、その輝きが消え去るのです。古いものにしがみついていたら、新しいものを受け損なうことになるのです。

 神さまに対して、古いものをお返しして、新しいものを受け直すのが、本心の生き方です。神さまに対して、古いものも返さないで、新しいものも受け直さないのが、業想念の生き方です。どちらの生き方も、自分自身が選んでいるのです。常に新鮮な空気を呼吸して、幸せを味わうのも自由なら、呼吸を止めて、苦しがるのも自由なのと同じです。

 神さまへの感謝と報恩に生きるのが、幸せ一杯の本心の自分の生き方です。それを忘れて生きるのが、苦しみ一杯の業想念の自分の生き方です。呼吸は本来、意識しなくても、自然にできるものです。自然にしているものです。それをわざわざ意識して、力んで、努力してするものでは無いのです。神さまへの感謝と報恩も、自然にできるものなのです。それを無理やりストップさせているのが、業想念の生き方なのです。

 最も自然な生き方に戻れば、本心の自分を生きることができるのです。ちょっと感謝の心を起こし、ちょっと報恩の心を起こせば、後は自然に本心の生き方になるのです。過去の長い期間を、無理な不自然な生き方をして来たから、それを変えるのは難しいというのは、道理に合わない屁理屈です。長い時間呼吸を止めていたら、呼吸せずにはおれなくなって、呼吸してしまうものです。それと同じように、神さまへの感謝と報恩の生き方を、長い期間して来なかったら、堰を切ったように、今までの苦しみから逃れる為に、神さまへの感謝と報恩の生き方に、自然に戻るのが本当なのです。



 借りを返すことによって、幸せは増大して来るのです。借りを殖やし続けていては、今の幸せも奪われ、前途多難です。自分にはどんな借りが有るのか、しっかりと見極める必要があるのです。借りが有ることに気付かなければ、返しようが無いからです。どんな借りも、放置すれば、大きくなって来るのです。一日も早く、借りを返すことが、幸せへの道なのです。

 神さまからの無償の愛のプレゼントは、感謝を深くして受ければ、ご恩であって、借りでは無いのです。だから恩返しに生きれば、万分の一の恩返しであっても、借りにはならないのです。ところが感謝をせずに、無断で自分のものにすれば、盗み・奪ったことになって、高利の借金と同じ大きな借りをしたことになるのです。感謝を忘れ・怠った期間が長ければ長いだけ、大きな借りを積み重ねたことになるのです。強奪したものほど、高利の借金と同じで、放置すれば、どんどん無限に大きくなるのです。

 根本の借りは、神さまからの無限の無限の借りなのです。その上に、無限の種類の・無限の段階の、種々様々な借りが有るのです。借りを返すに当たっては、貸主に取り立ての優先順位が有るのです。一番の大口の貸主に、取り立ての最優先権があるのです。だから小口の返済を先にしても、小口の貸主は、自分の手元に置いただけ、利息を付けて返さなければならないので、損をさせられたことになるのです。

 小口の返済から先にしようとする人は、身近の好きな人に与え尽くそうとするのです。好きな人というのは、自分にとって、借りの多い人なのです。恋人にしても、子供にしても、前生の恩人・貸主であることが殆どなのです。恩返しをする・借りを返すということ自体は、正しい善いことなのです。でも大口から返さなければ、小口の貸主に対して、大きな迷惑を掛けるだけで終わるのです。その上に大口の貸主を無視した分だけ、自分の借りも大きくなるのです。だからマイホーム主義的な生き方では、借りを減らすことはできないのです。

 神さまからの無限の無限の借りは、衷心から反省し・お詫びすれば、帳消しにしていただけるのです。そして神さまへの感謝と報恩に徹底して生きれば、その他の借りは、神さまが肩代わりして、順番に消し去って下さるのです。この神さまへの感謝と報恩の道以外には、借りを減らし、幸せに成る道は、どこにも無いのです。表面だけの・借りを殖やすことによって生み出された幸せは、本当の幸せでは無いのです。後から来る借金の取り立てによって、地獄の苦痛を味わうのでは、束の間の幸せも、幸せでは無くなるのです。本当の幸せは、神さまからのみ、与えられるものなのです。



 どんな借りも、業想念の心(マイナスの心)となって、自分の心に蓄積されるのです。自分の働き以上に、お礼を貰い過ぎたら、必ず業想念の心に陥るのです。世の為・人の為に働く場合も、神さまへの恩返しの心で、無償の愛の心で働くことが大事なのです。少しでも報いを求めたら、業想念の心を引き寄せるのです。お金を求めて働く心は、いつも業想念の心を掻き集めているのです。

 自分の力で、自分が働いて、お金を手にいれて、生活しているのだと言う人は、かなり業想念の厚い人なのです。自我の強い・傲慢な人は、いつも業想念の心(マイナスの心・七難八苦の心)で一杯なのです。その上にお金の為に働けば、業想念を一杯掻き集めて、不平不満不足の心に陥るのは、当然の結果なのです。どんな理由・理屈を付けても、賃上げ要求をすることは、大きな業想念を積み重ねることになるのです。

 どんな仕事をする場合も、神さまへの恩返しの心で、報いを求めず・喜んで・全力を尽くせば、大きく業想念(借り・マイナスの心)を消し去ってもらえるのです。更にその上に、無償の光のプレゼントを、沢山いただけるのです。自分の求める以上のものが、必ず求めなくても与えられるのです。だから求める心を起こすことは、二重三重の大損をしていることになるのです。

 神さまから直接受けるものには、すべてが光輝いていて、一切の業想念は無いのです。人から受けるものには、必ず種々様々な業想念が付着して来るのです。感謝する・感謝を深めるということは、人から受けているという心の状態から、神さまから受けているという心の状態に変化することなのです。感謝すればするほど、感謝を深めれば深めるほど、すべてを神さまから受け直せるようになるのです。人から受けるという心の状態では、大きな業想念も一緒に受け取ることになるのです。だから人から受ける時には、必ず感謝を積み重ね・感謝を深めて、神さまを通して、神さまから受け直すようにすることが大切なのです。

 人に与える時も、人に借りを返す時も、自分の業想念を付着させたままでは、大きな迷惑を掛けることになるのです。だからこの場合も、必ず感謝を積み重ね・感謝を深めて、一度神さまを通して、神さまから返してもらうことが、何よりも大事なことなのです。受ける時も、与える時も、感謝を徹底することが、本当の幸せへの道なのです。感謝の心で受け、感謝の心で与える、感謝一筋の生き方のみが、神さまの光を受け・神さまの光を与える、唯一無二の生き方です。いつも感謝の心のみが湧き上がる自分こそが、無限の無限の幸せで一杯の本当の自分なのです。



 与える心と与える心の交流は、プラスの交流となって、お互いのプラス面を増幅し合うのです。求める心と求める心の交流は、マイナスの交流となって、お互いのマイナス面を増幅し合うのです。与える心と求める心の間には、心の交流は起こらないのです。神さまと人との交流においても、人と人との交流においても、与える心をしっかりと生きるということが、幸せを増大する秘訣なのです。

 人が無限の無限の幸せで一杯に成る為には、神さまとの心の交流が、絶対に必要不可欠なのです。神さまと人との間に、心の循環・交流が行われ、融合・一体化すれば、神さまの無限の無限の幸せな心が、人の幸せな心と成るのです。その為には、神さまを永遠の恋人と定めて、愛し続けることが一番なのです。心を尽くし・思いを尽くし・精神を尽くし・力を尽くして、神さまを愛し続けることが、神我一体への最短コースなのです。

 先ず神さまを愛し続けることによって、神さまの愛の助けを受けて、その愛は本物の愛に成るのです。神さまとの心の交流によってのみ、人の愛は神さまの本物の愛にまで、高め上げられるのです。どんなに人を愛する努力を積み重ねても、本物の愛には到達できないのです。未熟な者同士が、どんなに助け合っても、本物の愛を完成させることは、永遠に不可能なのです。先ず神さまを愛することから始めるのが、一番大事なのです。そうすれば自然に無理なく、神さま以外のものを、愛することができるように成るのです。

 本物の愛は、一切の報いを求めないで、必要なものを的確に与え尽くすのです。本物の愛は、光一元に仰ぎ見て、プラスにプラスに観るのです。本物の愛は、過去の一切を消し切って、絶対より新生する、新たなる姿を見るのです。本物の愛は、自分の思惑を捨て切って、相手の自由を尊重するのです。本物の愛は、相手の本心を、全徳の無限の無限の輝きを、拝み出すのです。

 本物の愛とは、真の感謝なのです。愛するとは、感謝することなのです。神さまから与えられるものを、感謝の心で受けることによって、愛することができるのです。神さまから与えられるものの中に、愛する働き・姿が存在しているのです。同時に愛される働き・姿も、そこに存在しているのです。神さまに感謝することが、愛し・愛される働き・姿なのです。本物の愛し合う姿とは、感謝し合う姿なのです。種々様々なすべての愛の姿は、親子愛も・夫婦愛も・恋愛も・友愛も・師弟愛も・博愛も・人類愛も・生類愛も、すべて感謝し合う時に、本物の愛に成るのです。感謝一筋に生きるということは、愛を完成させること、本物の愛を生きることなのです。そうすれば全大宇宙のすべてのすべては、自分の味方となり、一切の敵は存在しなくなるのです。




 無限に無限に輝くことが、神さまからの至上命令です。輝くもののみが、存在を許されているのです。輝かないものは、闇の極に押し遣られて、消滅してゆくのです。神さまの御心は常に、全徳の無限の無限の輝きとなって、一瞬一瞬新たに新たに、最高表現としての天照大御神(無限に無限に輝いた全大宇宙)を、生み出し続けているのです。輝きを失った古い宇宙は、無限に無限に輝いた新しい宇宙によって、ところてん式に闇の極に押し遣られて、自然に消滅してゆくのです。

 過去の古いものに執着して、輝くことを忘れ、輝きを失ったら、闇に同化し、消滅してゆくのです。全大宇宙のすべてのすべては、どんなものも、輝きを失ったら、闇の極に押し遣られて、消滅してゆくのです。人も例外では無いのです。輝くことを忘れ・怠れば、七難八苦が与えられ、それでも駄目なら、地獄の苦痛が与えられるのです。何が何でも、全力を尽くして輝くことが、絶対に必要だからです。それでも怠けていたら、全くの闇の中に置かれて、自分の意識だけが存在する状態に陥るのです。そしてその意識も、存在理由を失って、消滅してしまうのです。

 無限に無限に輝く為には、一瞬一瞬新たに新たに、神さまの全徳の無限の無限の輝きを感受することが必要なのです。その為には、あらゆる方法を駆使して、感謝を深めてゆくことが大事なのです。この世への感謝だけでは、浅い感謝なのです。浅い感謝は、過去の古いものへの感謝なのです。最も新しい世界とこの世との間には、無限の段階の世界が、ところてん式に連なっているのです。だからこの世への感謝は、輝きを失った古い世界への感謝なのです。

 感謝を深める一番の秘訣は、古い自分を神さまに捧げ尽くして、どんどん消し去ってもらうことです。古い自分を消し去ってもらえばもらうほど、より新しい自分が出て来るのです。より新しい自分に成れば、より新しい世界を感受できるのです。常に自分のすべてを捧げ尽くして、全力を出し尽くして、神さまへの奉仕に生きれば、速やかに古い自分をどんどん消し去ってもらえるのです。この場合に一切の報いを求めないで、与えて与えて与え尽くす心に成ることが、神さまに引き受けてもらう為の重要なポイントです。一切の報いを求めないで、与えて与えて与え尽くす心で、感謝一筋に感謝し続ければ、必ず感謝は日に日に深まるのです。

 感謝を深める二番目の秘訣は、感謝の深い人々との心の触れ合い・交流を、大事に積極的にしてゆくことです。自分自身が、どんなものをも焼き尽くす程の、『感謝の火の玉』に成るまでは、すべてに最優先して、感謝を深める場を大切にすべきなのです。




 今の一瞬一瞬に、何を選んで生きるかが、大事なのです。肉体の自分、魂の自分、本心の自分の、どの自分を選んで生きるかが、最初の分岐点になるのです。
(1) 肉体の自分を選べば、動物的な生き方になるのです。本能のままに生きて、刹那の快楽に溺れて、儚い・虚しい一生を終えて、無に帰すのです。肉体の消滅によって、自分の意識は闇(無)の中に移行して、その意識もやがては消滅するのです。

(2) 魂の自分を選べば、精神的な生き方になるのです。輪廻転生の世界に自分を置き、自分を磨く為に努力するのです。努力して立派に成れば、極楽に住めるのです。怠けて堕落すれば、地獄に落ちて苦しむのです。努力に比例した結果が、厳然と与えられるのです。

(3) 本心の自分を選べば、神さまの御心のままの生き方になるのです。感謝と報恩の真を生きて、新たなる全徳の無限の無限の輝きが一杯の世界で、永遠無窮に遊楽できるのです。

 今の一瞬一瞬に、人生行路のどの道を行くか、その選択も非常に大事なのです。真理を学ぶということは、人生行路の地図の勉強です。大きく全体を見渡せる総図から、小さな部分の詳細な地図まで、種々様々な地図の勉強が必要です。もし地図が無ければ、未知の世界は想像も付かないのです。神さまの世界がどこに在って、どの道を行けば到達できるのか、真理を学ばなければ、知ることは絶対に不可能なのです。また正しい目的・目標に向かって進む為には、羅針盤やカーナビのようなものが必要です。それがお祈りです。常に神さまの叡智に導かれてこそ、正しい道を・安全な最短コースを歩めるのです。

 今の一瞬一瞬に、欲しいものと必要なものの、どちらを選ぶかということも、重要なポイントです。欲しいものを選べば、必ずマイナスへ転落してゆくのです。必要なものを選べば、必ずプラスへ向上してゆくのです。何故かと言えば、業想念の誘惑の波が感応して来た時に、欲しいという欲の心が引き出され、地獄への道に引きずり込まれるものだからです。また本当に必要なものというのは、神さまの御心と一致するので、必ずプラスへプラスへと、正しく極楽へ導かれるものだからです。

 人には完全な自由が与えられているのです。その自由権の行使によって、何でも選び、何でも受け取ることができるのです。本心の自分を選ぶのも自由なら、選ばないのも自由です。真理の勉強をするのも自由なら、しないのも自由です。祈るのも自由なら、祈らないのも自由です。欲しいものを手に入れて、マイナスへの道を歩むのも自由なら、必要なものを手に入れて、プラスへの道を歩むのも自由です。他に責任を転嫁して、益々マイナスへの道を加速するのも自由なら、全責任を自己に帰して、益々プラスへの道を加速するのも自由です。どんな自由の行使にも、常に全責任が伴うのです。




 『神さまへの全託』と一言で言っても、無限の種々様々な全託が有るのです。無限に小さな全託から、無限に大きな全託まで、無限に浅い全託から、無限に深い全託まで、無限の千差万別の全託が有るのです。これは今の自分をどのように捉えているかによって、その違いが生まれて来るのです。

 自分の捉え方を、雲と太陽で例えてみると、嵐の黒雲・土砂降りの黒雲・雨雲・厚曇り・薄曇り・暗雲・暗雲と白雲・大きな白雲・小さな白雲・多くの白雲・少しの白雲・一筋の細い光・沢山の太い光・太陽に遠い光・太陽に近い光・太陽のような光体・太陽というように、無限の変化が有るのです。七難八苦で一杯の業想念の自分は、土砂降りの黒雲の自分です。何でも思い通りになって幸せですという自分は、白雲の自分です。神さまの光を感受して、幸せで一杯ですという本心の自分は、光の自分です。深い感謝・大きい感謝の湧き出る本心の自分は、太陽に近い太い光の自分です。無限の無限の幸せで一杯ですという本心の自分は、太陽のような光体の自分です。

 神さまへの全託とは、今の自分を捧げ尽くして、神さまと交流することです。そして神さまの光を受けて、神さまに近づくことです。どの自分を掴むかによって、どの立場に立つかによって、全託の程度が測られるのです。真の100パーセントの全託とは、太陽なる本心の自分の立場に立って、無限の段階のすべての自分を捧げ尽くすことです。この真の全託になれば、天地を貫く光の太柱と成って、神さまの光のエレベーターに成れるのです。無限の段階の自分の中の、一つの自分を掴んで、全託したと言っても、本当は無限分の一の全託です。それでは一歩一歩螺旋階段を登るように登るしか無いのです。

 神さまへの全託、神さまとの交流によってのみ、どの自分も速やかに向上してゆけるのです。人と人との交流は、白雲と白雲の交流でも、重なり合えば黒雲に成るのです。光と光の交流であっても、古い光と古い光の交流になって、さらに古い光に成るのです。どの立場のどの自分も、神さまとの交流によってこそ、その幸せは速やかに増大するのです。神さまへの全託・神さまとの交流を、忘れ・怠れば、また否定し・拒絶すれば、必ず今の幸せも減小してゆくものです。

 神さまへの絶対感謝・徹底感謝こそが、真の100パーセントの全託になるのです。すべてを神さまから、一瞬一瞬新たに新たに、受け直すことが、真の感謝です。人の成すべきことは、この真の感謝のみで良いのです。神さまのすべてを、大きく素直に受け入れさえすれば、神さまの御心は、そのまま自然に現実化するのです。真の感謝の有る所には、必ず神さまはすべてと現れ、その姿・働きを具現化して来るのです。




 無限の無限の幸せ一杯に生きる為には、神さまの大愛を、しっかりと受ける必要が有るのです。神さまの大愛を、しっかりと受ける為には、自分の方からも神さまを、いのちがけで愛することが必要なのです。愛されることだけを求めている心では、最初の愛は受けられても、その後が続かないのです。呼吸の原理と同じように、吸うだけでは、呼吸はストップしてしまうのです。吐くことによって、また吸うことができるように、自分の方からも神さまを、いのちがけで愛することによって、神さまの大愛を、永遠に受け続けることができるのです。

 神さまを永遠の恋人として、しっかりと愛し続けることが、神さまの絶対の愛を受ける秘訣です。『恋する』とは、愛する対象に一点集中して、自分のすべてを、報いを求めること無く、捧げ尽くすことです。本心の自分・いのちの自分が、神さまに対して、いのちも心も身体も、すべてを捧げ尽くすことなのです。本心の自分と神さまが、いのちを捧げ尽くし合うことによって、真の恋人と成り得るのです。

 肉体人間同士が、お互いに求める心で、愛していますと言っても、偽物の恋なのです。例え一切の報いを求めない心であっても、肉体を捧げ合うだけでは、幼稚な恋なのです。本当にいのちを捧げ尽くし合う段階にまで、高め上げられなければ、本物の恋とは言えないのです。求める心で、ころころ変わる、この世だけの恋なんて、全くの偽物なのです。自分のいのちを、喜んで捧げ尽くせるので無ければ、本物では無いのです。

 『いのち』と『いのち』が触れ合って、「バチッ」と『喜びの火花』が飛ぶのが、本物の『恋』なのです。『いのち』と『いのち』が交流して、全く一つの『いのち』と成って生きるのが、本当の恋なのです。『いのち』の自分は、陰陽を兼ね備えた、絶対の存在です。『いのち』と『いのち』の交流によって、真の恋が生まれ、種々様々な本物の愛の表現と成るのです。それが本物の恋愛・夫婦愛・親子愛・兄弟愛・友愛・師弟愛・博愛・人類愛・生類愛・等々に成るのです。

 絶対から相対が生まれ、相対はまた絶対に戻るのです。一つの『いのち』が無限に分かれ、無限の『いのち』がまた一つに戻るのです。その間に、『いのち』と『いのち』の、無限の無限の交流が行われ、無限の無限の妙趣ある、『愛』の表現が生まれるのです。今の一瞬一瞬に、種々様々な『いのち』との出会い・触れ合い・交流を体験して、いのちの自分は、喜びの讃歌を歌うのです。神さまと本心の自分との間に、『いのち』の交流が行われ、神さまを永遠の恋人に定めてこそ、宇宙のすべてと本心の自分との間に、種々様々な『恋』『愛』が生まれ出て来るのです。




 真の信頼関係は、お互いの『いのち』を捧げ尽くし合う所に、成り立つものなのです。『いのち』と『いのち』が交流して、同じ一つの『いのち』を生きているという、強い実感が有れば、決して壊れることは無いのです。どんな信頼関係においても、壊れるのは、『いのち』の交流が無いからです。一切の報いを求めないで、自分のすべてを与え尽くすという、『いのち』の立場に立たないからです。

 『いのち』の自分・本心の自分を自覚しない者には、真の信頼関係を築くことはできないのです。相手に対して求める心が少しでも有ったら、最初から信頼関係は無いのです。最初から壊れているのに、気付かないだけの話です。自分の相手を信頼し続ける心が、変わらない限りは、永遠に壊れることは無いのです。真に信頼に値する相手とは、肉体や魂では無く、『いのち』・本心なのです。

 真の信頼関係が有れば、強い味方に成るのです。もし無ければ、みんな敵と同じです。本心の自覚の無い者を、信用する方が馬鹿なのです。業想念の心の奴隷になっていたら、必ず裏切るものなのです。本心の心が輝き出ているかどうかを、しっかりと見極めて、大事なことは任せなければならないのです。真の信頼関係を築く迄には、長歳月にわたる努力と忍耐が必要なのです。

 先ずは神さまとの信頼関係を築くことです。神さまを強い味方にすることです。神さまとの信頼関係は、自分次第で直ぐにでも築けるのです。自分の『いのち』を神さまに捧げたら、その瞬間から信頼関係が成立するのです。自分の方から裏切らない限りは、永遠に壊れることは無いのです。裏切られても傷つかない、強い大きな自分になってから、順次人との信頼関係は築いてゆけば良いのです。

 神さまとの信頼関係も、人との信頼関係も、壊れるのは、常に自分の方からなのです。本心の自分をしっかりと生きるのを忘れた時に、業想念の心の奴隷に陥って、自分の方から裏切ってしまうのです。相手の立場を思いやることを忘れて、相手を傷つけてしまうのです。どんなマイナスも、責め裁いたら、傷を大きくするだけです。また大事な秘密を暴露し、他言するのも、大きな裏切り行為です。信頼関係は瞬時に崩壊するのです。

 どんな信頼関係も、自分が裏切れば、一瞬に崩壊するのです。その信頼関係を回復するには、大変な苦労が必要になるのです。覆水盆に帰らず、手折った花は元に戻らず、なのです。『いのち』を奪った以上のことなのです。だからその信頼関係を回復する為には、その百倍の償いをする覚悟が必要なのです。大変な苦労に苦労を重ねて、回復させた信頼関係に成れば、決して壊れることの無い、強固なものになるものです。




 神さまが幸せの本源です。神さまへの感謝に比例して、幸せの程度が決定するのです。『ありがとうございます』と感謝することは、神さまの方向へ近づくことになるのです。感謝すればするほど、神さまの方向へどんどん近づいて、より大きな幸せを感受できるのです。『ありがとうございます』と感謝することは、幸せの徳を心に感受することです。沢山感受すればするほど、より幸せな心に成るのです。

 反対に感謝を忘れ・怠り・拒絶することは、神さまからどんどん遠ざかることになるのです。その上に幸せの徳を感受しなかった分だけ、心は幸せで無くなるのです。神さまから遠ざかれば遠ざかるほど、幸せは遠く小さくなってゆくのです。神さまに近ければ、同じ感謝でも、大きな幸せの徳を感受できるのです。神さまから遠ければ、同じ感謝でも、小さな幸せの徳しか感受できないのです。

 過去に沢山の感謝を積み重ねた人は、それだけ神さまに近づいているのです。そして沢山の幸せの徳を感受して、心には幸せの貯金が一杯なのです。感謝して来なかった人は、不平・不満・不足の心を起こした分だけ、どんどん神さまから遠ざかって来たのです。そしてマイナスの心を起こした分だけ、大きな借金を積み重ねて来たのです。

 人の運命・境遇・世界というものは、その人の心を反映しているのです。幸せな心の人は、幸せな運命・境遇・世界を投影して、そこに住むことになるのです。不幸せな心の人は、不幸せな運命・境遇・世界を投影して、そこに住むことになるのです。だから幸せの貯金の多い人ほど、幸せな人なのです。反対に幸せの貯金の無い人ほど、不幸せという借金が多い人ほど、不幸せな人なのです。

 幸せの貯金は、幸せな運命・境遇・世界を投影して、消え去ってゆくのです。不幸せという借金も、七難八苦の運命・境遇・世界を投影して、消え去ってゆくのです。幸せの貯金も、贅沢に使えば、早く消え去るのです。不幸せという借金も、七難八苦を耐えることによって、早く消し去ることができるのです。幸せの貯金を減らさない為には、贅沢は禁物です。また不幸せという借金を増やさない為にも、贅沢は禁物です。

 幸せの貯金を増やし、幸せな自分に成る為には、神さまへの感謝を、多く・深くしてゆくことが、一番の方法なのです。次に贅沢を慎み、質素に生きることです。更には他人の七難八苦を身代わりに背負うことによって、その分の貯金を増やすこともできるのです。また借金の多い人は、七難八苦を進んで耐えることによって、早く消し去ることが一番の道なのです。贅沢すれば、高利の借金を更に積み重ねることになるのです。借金が少なくなれば、感謝の心を呼び起こし易くなって来るのです。



 『ありがとうございます』という言葉は、宇宙絶対統一神の究極の名前です。この神名を唱えることによって、宇宙絶対統一神との交流・一体化が、加速度的に促進されてゆくのです。本来本心の自分は、神さまと一体なのです。『ありがとうございます』と感謝をし続けていたら、神我一体感が失われることは無かったのです。ところが本心の自分の呼吸である、『ありがとうございます』と唱えることを忘れた為に、本心の心が意識朦朧と気絶してしまったのです。

 本心の心の意識を覚醒させる為には、『ありがとうございます』と感謝し続けて、呼吸を取り戻して、神さまのエネルギーを一杯吸収する必要があるのです。ただひたすらに・一途に・一心不乱に・真剣に・本気に・命懸けになって、『ありがとうございます』と唱え続ければ、必ず速やかに本心の意識が蘇って来るのです。感謝が自然に湧き上がって来るようになれば、本心の自分が蘇生したことになるのです。そうなれば一瞬一瞬感謝に生きて、神我一体感・無上の幸せを味わい続けることができるのです。

 感謝の無い人生は、『無』に等しいのです。感謝が無ければ、本心の自分は気絶し、死んで、夢幻の世界を彷徨っているのです。本心の自分が蘇生し、覚醒し、本心の意識をしっかりと自覚するようにならなければ、本当に生きているとは言えないのです。新たなる全徳の無限の無限の輝きが一杯!と、感謝一筋に真実の幸せを謳歌できなければ、本当の人生を生きていることにはならないのです。

 一瞬一瞬感謝し続けてこそ、真実に生きることになるのです。一瞬一瞬新たなる感謝を忘れたら、神さまの光輝く世界を見失ってしまうのです。感謝しなかったら、必ず思いが出て来るのです。感謝は、新たなる神さまの最高表現を感受するのです。思いは、過去の残像を掴むのです。感謝は、自由に飛翔するのです。思いは、牢獄に閉じ籠もるのです。感謝に生きる者は、神さまの世界に昇るのです。思いに生きる者は、地獄に落ちてゆくのです。感謝の世界は、神さまの世界です。思いの世界は、地獄の世界です。

 自分自身が本当に感謝一筋に生きようとすれば、必ず感謝の世界に生きることができるのです。感謝に生きるか、思いに生きるか、その選択は自分自身がするのです。自分自身が『感謝に生きる』と決めなければ、過去の惰性で『思いに生きる』しか無いのです。他の何かが、他の誰かが、決めてくれるのでは無いのです。自分自身が選択し、決定した通りに、すべては成るのです。無限の無限の幸せ一杯に生きたいのであれば、『感謝に生きる』だけです。前向きに・積極的に、『感謝に生きる』ことによって、常に新たなる無限の無限の幸せが一杯の世界に、自分を置くことになるのです。



 『ありがとうございます』と感謝することは、宇宙絶対統一神・天照大御神への全託の表明になるのです。『全託』こそが、神さまの最高最大の助けを受ける為の、絶対条件・秘訣なのです。神さまは常に、一瞬一瞬新たに、全徳の無限の無限の輝きが一杯の全大宇宙を、与え続けて下さっているのです。その最高のプレゼントを与え続けていても、どれだけ受けて味わってくれるかは、人の完全な自由に任せているのです。人に対して、完全な自由を与え・保証している限りは、宇宙絶対統一神と言えども、その自由を束縛して、強制的に干渉することは、決してできないのです。人が神さまのプレゼントを受け損なって、どんなに苦しんでいても、無理やり受けさせようとはしないのです。

 『ありがとうございます』と感謝した時に始めて、人の自由意思を尊重して、神さまはその力を揮うことができるのです。幸せへの最短コースを歩む為の、すべての必要などんな助けでも、的確に与え続けることができるのです。人はただ『ありがとうございます』と感謝し続けさえすれば、神さまの完璧な守りを受け続けることができるのです。そして最短コースで、無限の無限の幸せ一杯に成れるのです。しかしながら、自我の思い・願いを強く主張する時には、人の自由な生き方を最優先して、神さまも奥へ引っ込んで、次の出番を待つしか無いのです。

 『ありがとうございます』と感謝するかしないかが、幸不幸の分かれ目なのです。感謝する時には、神さまの助けを大きく受け入れることができるのです。感謝を拒絶する時には、神さまの助けをも拒絶することになるのです。『ありがとうございます』という言葉は、神さまの助けを受け入れるかどうかの、意思表示の言葉なのです。自我の思い・願いを優先させて生きたいという間は、神さまは常に謙虚に奥で待機していて下さるのです。そして『ありがとうございます』という言葉が届けば、間髪を入れずに助けに来て下さるのです。

 今の一瞬一瞬を、『ありがとうございます』と感謝し続けるだけで、真の神さまの、真の助けを、的確に受け続けることができるのです。悟りを開く為の・本心の自分を輝かせる為の、本当に必要な助けを、神さまは的確に与え続け・受けさせて下さるのです。ただひたすら『ありがとうございます』と感謝し続けるだけで良いのです。全智全能の神さまに、すべてをお任せして、その全力を揮っていただけば、最良の結果になるのは明白なのです。自分一人の力で生きようとするのか、神さまと共に生きようとするのか、そのどちらを選ぶかの問題なのです。神さまと共に生きて、神さまと融合・一体化すれば、いつも無限の無限の法悦が湧き上がって来るのです。



 神さまが与え尽くし・与え続けて下さっている、すべてのすべての中から、何を選んで受けるかは、人の自由に任されているのです。神さまの役目は、与え尽くし・与え続けることです。人の役目は、受け尽くし・受け続けることです。一瞬一瞬新たに、神さまが与え尽くして来るプレゼントは、新たなる全徳の無限の無限の輝きが、無限に無限に一杯!なのです。それを一瞬一瞬新たに受け続ける為には、過去の一切を心から放ち去ることが重要なのです。微塵も過去を掴んではいけないのです。

 過去を掴んで、過去に執着して、これが自分だ、これは自分のものだと思うと、自我の心が生まれ、自我の主張が強くなって来るのです。自我がのさばり出ると、本心・神さまは必然的に、奥に引っ込んでしまうのです。自我の心は必ず、神さまを無視し・否定し・拒絶するようになるのです。自我の心は、傲慢(高慢・卑下慢)な心なので、神さまの助けを拒絶するのです。神さまの本当の助けは、本心を輝かせる為の助けなので、両者は相容れることは無いのです。

 自我の心は、自分の思い通りに・願い通りにしたいのです。神さまの導きなんか、糞食らえなのです。神さまの助けも、余計なお世話なのです。そういう時は、自我の心を思い存分生きて、行き詰まり・頭を打ち・七難八苦で一杯に成ることも必要なのです。そうすれば少しは謙虚に成れて、神さまに素直に成れるのです。自分の力で生きているのでは無い、神さまに生かされているのだと気付くのです。自分の所有(もの)は何も無い、すべては神さまの所有(もの)なのだと気付くのです。謙虚な心・素直な心に成れたら、感謝が湧き上がり、神さまの助けを受け入れるように成るのです。

 人は誰でも、自分の自由意志を生きているのです。周りの姿は、自分の勉強材料です。自分自身が、自我の心を死に切って、謙虚で素直な本心の心を、生き切れば良いのです。他人のことを、とやかく言う必要は無いのです。余計なお節介は、無用なのです。自分自身が神さまに対して、謙虚で素直に成れば、神さまの助けを受け入れることができるのです。そうすれば感謝が湧き上がり、神さまへの奉仕ができるのです。傲慢で頑固な心を生きている時は、利己的な・マイホーム主義的な、小さな生き方しかできないのです。必ず行き詰まり・頭を打って、反省を促されることになるのです。それがその人にとって、一番の救われの道なのです。

 神さまを・神さまの助けを、受け入れることを選べば、謙虚に・素直に成れて、感謝が湧き上がり、喜びの奉仕をさせていただけるのです。誰でも皆、本当の神さまを選び、受け入れるまでは、いつまででも彷徨うしか無いのです。




 神さまの最高表現に波長を合わせる為には、『スピード化する』ということが、大事な要点になるのです。高次元の番組は、実現のスピードが速いのです。低次元の番組は、実現のスピードが遅いのです。高次元波動は、千速振る波であって、高周波の精妙な迅速な波です。低次元波動は、荒振る波であって、低周波の粗雑な緩慢な波です。神さまの御心に近い本心の心は、何事も瞬時に、直感し・理解し・把握し・決断し・実行するのです。神さまの御心から遠い業想念の心は、何事もぐずぐずと、考え・迷い・ためらって、実行に移すのが遅いのです。同じ仕事をしても、本心の心は短時間で済むのです。業想念の心は、長時間かかって、その上に何倍も効率を悪くするのです。

 神さまへの奉仕について大事なことは、神さまが何を願い・何を必要としているかを、瞬時に把握し、瞬時に実行に移すことなのです。「後で・後から」では、必要性が無くなって、役に立たないものです。神さまの必要なことは、瞬々刻々、目まぐるしく変化するのです。今右へ行くことが必要でも、次の瞬間には、左に行くことが必要になるのです。時間がずれては、神さまの御心と反対のことをしてしまって、邪魔をすることにもなるのです。神さまの導きは、常に第一直感の中に有って、直ちに実行する時に、必要な知恵も力も与えられるのです。

 日常生活の中で、どんな仕事をする時も、『スピード化』を心掛けることが、本心開発に大きく役立つのです。
(1) 限界を破ろうとする時に、本心は輝き出て来るのです。

(2) スピード化すればするほど、高次元波動の番組に波長が合い、それが現実化して来るのです。

(3) 真剣な心に、高級神霊が感応して来るのです。

(4) 能率的に・効率的にというのは、神さまの知恵の産物であって、神さまの知恵に波長が合うのです。

(5) 全力を出し尽くす時に、神さまの力が流れ入って来るのです。

(6) 働きが増大すれば、与える量が多くなるのです。即ち借りが減り、貸しが増えるのです。換言すれば業想念の心が消され、本心の心が輝き出て来るのです。

 神さまへの奉仕には、高い能力も必要なのです。スピード化を心掛けて、高い能力を引き出すことが大事なのです。神さまの御用に使っていただく為には、あらゆる能力を磨き出す必要があるのです。真剣な特訓が必要なのです。本当に神さまのお役に立ちたいのであれば、どんな仕事も、自分が全責任をもって、迅速に果たそうと、全力を尽くすことが大事なのです。本当に神さまに好かれ、守りに護ってもらう為には、(1) 全責任を持つ (2) 全力を出し尽くす (3) 真剣になる (4) 行き届く (5) 謙虚になる (6) 素直になる (7) 全体に気を配る (8) 恩返しの心を持つ (9) 感謝を深める、ということが大切なのです。




 古い自分のすべてを、神さまにお返しして、新しい自分に置き換えてもらった時に、真実に神さまのお役に立てる自分に成るのです。古い自分が何をしても、神さまのお役に立てる道理は無いのです。古い自分では、神さまの御心のままに、動くことはできないのです。新しい自分のみが、神さまの御心のままに、動くことができるのです。一瞬一瞬新たに新生して来る、本心の自分こそが、神さまの御心のままに、動かされている自分なのです。だから本心の自分のみが、神さまの御用に使っていただき、神さまのお役に立つことができるのです。古い自分では、業想念の奴隷に陥り、神さまの御心と正反対の生き方をしてしまうものです。

 古い自分と新しい自分との置き換えは、神さまへの徹底感謝によって、始めて可能に成るのです。『ありがとうございます』と、一心に唱え続けることによって、古い自分と新しい自分との置き換えを、神さまによってしていただけるのです。『ありがとうございます』と唱えることは、『すべてのすべて』なる、唯一無二の、宇宙絶対統一神『天照大御神』を、呼び出すことなのです。そして自分のすべてを、与え尽くし・捧げ尽くし・お返しして、すべて神さまの御心のままにと、全託していることなのです。神さまに全託した時に始めて、人の自由を尊重して、神さまは全力を発揮できるのです。必要などんな助けでも、与えることができるのです。

 古い自分が、自我の心で、何を思い・考えても、神さまの御心と正反対になるのです。自我の心で何をしても、神さまの邪魔をしているだけなのです。神さまの為にとしていることが、すべて無駄になるのです。否大きな迷惑を掛けていることになるのです。だから先ず一番にしなければならないことは、謙虚に反省して、感謝行に生きることなのです。感謝に生きることによって、自我の心(業想念の心)を消し去ってもらうことができるのです。そして感謝一筋の心になってくれば、自然に神さまの御用に使っていただき、神さまのお役に立たせていただけるのです。

 感謝に始まり、感謝に終わる生き方の中に、真実の神さまへの奉仕が有るのです。真実の奉仕とは、神さまに『させていただく』奉仕なのです。自我の心でする奉仕は、偽物なのです。神さまが、自分を通して、自分を使って、働いて下さる時に、真実の奉仕に成るのです。神さまの御心を現す為の真実の奉仕とは、神さまが直接に・自由に、全力を揮える働きのことです。謙虚に・素直に、神さまへの感謝を深めることによって、神さまの使い易い自分に成れるのです。神さまに使っていただけた分だけが、真実の神さまへの奉仕の働きに成るのです。




 神さまの本当の助けというのは、一瞬一瞬新たなる全徳の無限の無限の輝きとなって、常に常に与え続けられているのです。太陽の無限億万倍以上の大光体となって、光よりも速いスピードで、大瀑布となって降り注いでいるのです。それなのにこの真実に気付かないのは、神さまに心を向けることを忘れ、古い波にしがみつき、過去の残像に浸っているからです。

 神さまに心を向ける為には、『神さま! ありがとうございます』という言葉を駆使することです。言葉は心の向きを決定するのです。言葉は心の中心核です。言葉通りに、心は定まるのです。神さまに心を向け続け、真剣に神さまを呼び続けたならば、必ず神さまは現れてくださるのです。自分自身が本当に神さまを必要とし、真剣に神さまとの対面を願っているならば、神さまは喜んで出て来てくださるのです。

 ところが人には自由意志が与えられていて、自分の思い通りに・願い通りに生きたいという時には、神さまは奥に引っ込むしか無いのです。強制的に現れることは、決して無いのです。必ず人の自由意志を尊重して、その生き方を最優先してくださるのです。少しでも自我の思い・願いを出せば、神さまは奥に引っ込むのです。神さまが奥に引っ込めば、光明が消えて、闇となるのです。明るい方から暗い方へ向く時、環境は常に自分の心を写す鏡になるのです。

 『神』とは、「カクリミ(隠り身)」絶対の神、「カゴリミ(仮凝り身)」創造の神、「カガリミ(輝り身)」統一の神、「カケリミ(翔けり身)」自在の神、「カギリミ(限り身)」限定の神、の総称なのです。唯一無二の絶対者のすべての働きを総称するのが、この『神』という言葉なのです。

 『ありがとうございます』とは、「あ」(絶対・本源・光源・光)、「り」(螺旋状に放射され組合わさる)、「が」(輝きに輝く、無限に無限に輝く)、「とう」(相対のすべてが十字に組合わさり、大調和する)、「ご」(凝り固まって、凝り固まって。物質化して、物質化して)、「ざ」(光・命がさらさらと流れる)、「い」(いのちが輝いている・躍動している)、「ま」(完全・完璧)、「す」(絶対へ戻る)、「ます」(弥増しに増す)、という意義です。だから神さまの働きのすべてを総称する言葉なのです。

 『神』と『ありがとうございます』とは、同義の言葉です。『神さま! ありがとうございます』と心に唱え続ければ、神さまのすべての働きを感受し、神さまと一体化するのです。唯一無二の、すべてのすべてなる、本物の神さまとの一体の自覚が、自然に与えられる、神秘不可思議な言葉なのです。




 運命改善の秘訣は、プラスの言葉を駆使することです。プラスの言葉を駆使すれば、必ず心はプラスの状態に変化して来るのです。心がプラスに変化して来れば、波長の合う番組は、必ずプラスの番組に成るのです。ところが今見ている番組(現実世界)にマイナスの姿が有ると、どうしてもマイナスを心に取り込んでしまうものです。それでは効果が半減するのです。だからマイナスの姿に対しては、『見ざる・聞かざる・言わざる』の練習も必要になるのです。

 神さまが無限の無限のチャンネルの放送番組を用意しているのは、人の選択の自由を縛らない為です。最高の番組だけにすれば、人の選択の自由を侵害したことになるのです。だから神さまは、人が自分の自由意志で選んで、最高の番組だけを味わってくれるのを、忍耐強く待ち続けているのです。最高のプラスの言葉を駆使して、神さまの最高表現に波長を合わせてゆけば、常に新たなる全徳の無限の無限の輝きが一杯!の世界を、感受することができるのです。

 自分の心にプラスを増やしてゆけば、運命はどんどん善くなるのです。逆に自分の心にマイナスを増やしてゆけば、運命はどんどん悪くなるのです。心の状態によって、波長の合う番組が変化するのです。自分の心の状態が、自分の運命を決定している、ということに気付かない人は、運命の奴隷です。他に責任を転嫁したり、他に甘えたりして、自分の心を変えようとしないから、運命は悪くなってゆくのです。

 本当に運命を善くしたいのであれば、真剣に努力するものです。マイナスで一杯の世界ならば、目を閉じ(目隠しして)、耳を閉じ(耳に栓をして)、口を閉じ(テープを口に貼って)て、心にマイナスを取り込まないようにするはずです。そしてプラスの言葉を駆使して、心をプラスに整えるものです。環境の所為にしていたら、環境の奴隷です。自分に全責任が在ると自覚しなければ、本当の努力はできないものです。それでは運命はどんどん悪くなってゆくだけです。

 プラス思考の人は、運命が善くなるのです。マイナス思考の人は、運命が悪くなるのです。神さまの最高表現だけを相手にする人は、大楽天主義者です。その人は必ず、最高の運命を現実化できるのです。現実のマイナスを相手にする人は、心にマイナスを取り込んだ分だけ、運命がマイナスに成るのです。他のマイナスを掴んで、責め裁く人は、必ず自分も同じマイナスを現すようになるものです。自分と他人とは、合わせ鏡となって、同じことを繰り返すことになるのです。神さま(無限の無限の輝き)を拝み出さない限りは、その鏡は永遠に消え去ることは無いのです。




 『求める心』を積み重ねると、『執着の心』に変化するのです。『執着の心』は、過去を掴み、自縄自縛してゆくのです。一切の苦しみは、この自縄自縛から来ているのです。『与える心』を積み重ねると、『自由な心』に変化するのです。『自由な心』は、移り変わる姿に囚われ無くなり、神さまの最高表現に心を向けてゆけるのです。『求める心』というのは、自分の所有(もの)を持つ心です。自分の所有(もの)を持てば持つほど、それは古い・小さな・詰まらないものに変化してゆくのです。『与える心』というのは、自分の所有(もの)を捨てる心です。自分の所有(もの)を捨てれば捨てるほど、それは新しい・大きな・素晴らしいものに置き換えられて来るのです。

 業想念の心(求める心)を生きる者は、他を自分の思い通り・願い通りにしようとするのです。だからその反動として、他の思い・願いに縛られ、七難八苦で一杯!に成るのです。結局は自分の他に与えたものが、与え返されて来るのです。本心の心(与える心)を生きる者は、神さまの御心(思いやり・寛容・赦し)を生きようとするのです。だから神さまの無限の無限のバックアップを受けて、自由自在に成り、常楽我浄で一杯!に成るのです。

 求める心・執着の心では、今見ている番組から、抜け出すこともできないのです。その上に心にマイナスを取り込んだ分だけ、番組を下げてゆくことになって、不如意なことが一杯になるのです。求める心を生きていては、決して幸せには成れないのです。このことに早く気付くことが、幸せへの第一歩なのです。七難八苦で一杯になり、地獄に落ちてから気付いても、遅過ぎるのです。気付く為の勉強材料は、周りに一杯有るのです。一日も早く、求める心から与える心に切り換えることが、何よりも大事なことなのです。

 与える心を生きようと決心したならば、決して他人の自由を縛ってはならないのです。他人の自由な生き方を、批判してはいけないのです。お節介も無用なのです。神さまでも人の自由に干渉しないのです。無知無力盲目の人間が、他人を正しく導ける道理は無いのです。本人が自分の自由意志で、本当に必要としてアドバイスを求めて来たら、相談に乗って上げれば良いのです。

 でもそのアドバイスを受け入れるかどうかは、本人の自由な選択に任せるしか無いのです。本人が自分の責任の下に、自分の生き方を決定しなければ、本当の正しい生き方にはならないのです。他の言いなりになって、他に責任を転嫁するようでは、求める心を生きていることになって、決して幸せには成れないのです。自分の生き方に、自分自身が全責任を持ってこそ、本当の与える心を生きられるようになるのです。




 運命を自由自在に支配できる、本当に正しい生き方をする為には、真理を学ぶことが必要なのです。神さまの御心とは何か? 宇宙を貫く原理・法則とは何か? 本当の自分とは何か? 人生の正しい目的とは何か? 数多くの問題に対して、自分自身が真実の答えを見出してゆかなければならないのです。無知のままでは、間違った生き方を積み重ねて、運命の奴隷に陥ってゆくのです。本当に真剣に探し求め続けなければ、それらの正しい答えを発見することは、永遠に不可能なのです。

 自分にとって本当に必要なものとは何かを、はっきりさせておくことも大事なのです。自分自身が本当に必要としているものを、はっきりさせておくことによって、目の前に与えられた時に、的確に受け取ることができるのです。折角与えられているのに、見過ごし・見逃しているようでは、他からの多くの愛念を無視し・拒絶したことにもなるのです。何度も何度も無視し・拒絶していては、必要な助けも来なくなってしまうものです。真理を学ぶに当たっても、自分のいのちと引換えても悔いは無いという程の、真剣な必要性が有れば、必ず与えられて・受け取ることができるものです。

 本当の自分は、神さまと一体・同体なのです。即ち常楽我浄そのものなのです。常(永遠不滅)楽(無限の無限の歓喜)我(唯我独尊)浄(真清浄)そのものの自分には、一切のマイナスは無いのです。無限の無限のプラスそのものなのです。その本当の自分に対して、神さまから無限の無限のチャンネルの放送番組が与えられて、自由に楽しむことができるようになっているのです。ちょうど炬燵に入って、お菓子を食べながら、テレビ番組を楽しんでいるようなものなのです。

 言葉によって、チャンネルを合わせることができるのです。マイナスの言葉は、マイナスの番組に波長が合うのです。プラスの言葉は、プラスの番組に波長が合うのです。ここで言う言葉とは、広義の言葉です。文字だけでは無く、風景・映像・絵画・彫刻等々も、音楽・自然の響き・雑音等々も含まれるのです。心に取り込んだすべての言葉は、チャンネル合わせの予約になるのです。もしマイナスの番組を見たく無いのであれば、心の中のマイナスの言葉を消し去って、予約を取り消せば良いのです。マイナスの番組での自分の役割は、悪玉や悲劇の主人公等です。プラスの番組での自分の役割は、善玉や幸運の主人公等です。どの番組でも、常に自分が主役なのです。

 番組を楽しんでいる本当の自分と、番組の中で演じている自分とは、別個なのです。このことをしっかりと自覚して、神さまの最高の番組(無限の無限のチャンネルの一番上)を楽しむことが、人生の本当の目的なのです。




 『ありがとうございます』の中には、『無限のありがとうございます』が含まれているのです。その『無限のありがとうございます』の中の一つの『ありがとうございます』の中にも、『無限のありがとうございます』が含まれているのです。そのまた『無限のありがとうございます』の中の一つの『ありがとうございます』の中にも、『無限のありがとうございます』が含まれているのです。『ありがとうございます』は、入れ子構造になっているのです。

 『ありがとうございます』の中には、『無限の無限のありがとうございます』が含まれているのです。その『無限の無限のありがとうございます』の中の一つの『ありがとうございます』の中にも、『無限の無限のありがとうございます』が含まれているのです。そのまた『無限の無限のありがとうございます』の中の一つの『ありがとうございます』の中にも、『無限の無限のありがとうございます』が含まれているのです。『ありがとうございます』は、更に複雑な入れ子構造になっているのです。

 『ありがとうございます』は、無限に無限に大きくも、無限に無限に小さくもなって、どの『ありがとうございます』も、神さまの新たなる全徳(働き)の無限の無限の輝きで一杯なのです。『ありがとうございます』は、神さまの働きの全てを指し示す言葉です。『ありがとうございます』は、神さまの全体像を指し示す言葉です。神さまの全体像の中には、無限に無限に大きいものから、無限に無限に小さいものまで、神さまの全体像の全ての模型が含まれているのです。

 一意専心に・真剣に・ただひたすらに、『ありがとうございます』と心に唱え続けることによって、神さまに融け入ることができるのです。自分のすべてを神さまに捧げ尽くすということは、『ありがとうございます』に融け入ることなのです。感謝三昧に成って、自分が消えて、『ありがとうございます』だけに成り切ることなのです。自分という小さな器・殻があっては、神さまの全てを受け入れることは不可能なのです。過去を・部分を掴む思いを、『ありがとうございます』の中で消し去ってもらうことによって、自由自在な自分に戻ってゆけるのです。

 自分の思い通りに・願い通りに生きたいというのは、過去の言葉・思い(業想念)の奴隷状態に陥っているのです。業想念の操り人形なのです。そこには本当の自由は無いのです。本当の自由を奪われた状態が、七難八苦であり、地獄の苦痛であるのです。一瞬一瞬『ありがとうございます』と、神さまの中に融け入ることによって、本当の自由自在を得て、神さまの全体像を把握することができるのです。




 『与える心』と『求める心』は相対の両極です。『与える心』を生きる者は、本心が輝き、『求める心』を生きる者は、業想念の奴隷に陥るのです。『与える心』を生きている者は、本心が輝いているのであり、本心の輝いている者は、『与える心』を生きているものなのです。『求める心』を生きている者は、業想念の奴隷に陥っているのであり、業想念の奴隷に陥っている者は、『求める心』を生きているものなのです。それ故に『与える心』を生きる者は、益々本心が輝き、『求める心』を生きる者は、益々業想念の奴隷に陥ってゆくのです。

 『与える心』を生きるとは、身を粉にして『働く』ことです。『求める心』を生きるとは、楽をして『怠ける』ことです。身を粉にして『働く』(側を楽にする)(他に幸せを与える)ことによって、貸し(貯金)が増えるのです。楽をして『怠ける』ことは、貸し(貯金)が減り、借り(借金)が増えるだけです。働かなければ、みんなのお世話になった分だけ、借りが増えているのです。自分が与えた以上に与えられた分は、借りになるのです。どんな借り(借金)も、心に業想念となって蓄積されるのです。

 働いて貰ったお金には、貰いすぎた分だけ、業想念がくっついて来るのです。不労所得(泡銭)には、業想念が沢山くっついて来るのです。だから泡銭は、身を滅ぼして消えてゆくのです。働いて貰ったお金によって、自分の働いて与えた分だけが、厳然と与え返されるのです。自分の働きを直ぐにお金と交換したら、貸し(貯金)は無いのです。そのお金を無駄に使ったら、貸し(貯金)は0に終わるのです。そのお金を他の幸せの為に使えば、それは貸し(貯金)になるのです。

 常に借り越しの人は、心に業想念の重荷を背負い続けなければならないのです。反対に常に貸し越しの人は、心に本心が輝き、明るく軽やかになってくるのです。貸し(貯金)を大きく増やす為には、他を幸せにする働きを、報いを求めないで・無報酬で、質を高め・量を増やしてゆくことが大事なのです。他を幸せにする働きも、質が高い程、高い利息が付いて、貯金が速く増えるのです。同様に借り(借金)も、業想念が沢山くっついたものほど、高い利息が付いて、借金が雪だるま式に増えるのです。

 心の借金(業想念)は、放置すれば、忽ちにして無限に膨らんでしまうのです。過去に積み重ねた無限の無限の「心の借金」は、神さまの助けを受けなければ、返済は不可能なのです。身も心も命も、自分のすべてを捧げ尽くして、神さまへの絶対奉仕に生きることによって、無限の無限の「心の借金」も免除して貰え、無限の無限の「心の貯金」も与えて貰うことができるのです。



 心に業想念(想念感情)を蓄積すると、その奴隷に陥り易いのです。一瞬一瞬浮かび出る想念感情のままに動かされているのは、業想念の奴隷・操り人形に陥っているのです。それは渦巻く濁流や竜巻に翻弄されている木の葉のようなものです。そこには本当の自由は無いのです。想念感情を自由自在に支配できるのが、本当の自分です。更には感謝一筋に生きて、想念感情を消し去り、神さまの御心のままに生きるのが、本当の自分です。神さまの御心を自分の心として生きてこそ、本当の自由自在な生き方になるのです。

 思いに生きると、その思いが蓄積されて、その奴隷に陥るのです。思い通りに生きようとするのは、奴隷への道なのです。感謝に生きれば、思いが消し去られて、思いの縛りから解放されるのです。感謝一筋に生きようとするのは、自由自在への道なのです。感謝に生きて、神さまの御心と一体化してこそ、本当の自由自在な生き方に成るのです。自分の思い通りに成るということは、他の自由を縛り・奪うことに成るのです。これは感謝に生きて、神さまから調和した姿を受けるのとは、正反対の生き方です。思い通りに成った分だけ、他からの借りとなって、利息を付けて返さなければならなくなるのです。

 自分の思い通り・願い通りにするのは、借りに成るのです。他の思い通り・願い通りにするのは、貸しに成るのです。五欲(食欲・色欲・睡眠欲・財産欲・名誉欲)を満足させても、それが借りである限りは、必ず七難八苦の状態に陥るのです。またそれが貸しである場合も、他を七難八苦の状態に陥らせるのです。感謝一筋に生きて、神さまから必要なものを受けるのは、他との貸し借りでは無いのです。だからそこには調和が満ち渡るのです。思いは必ず、自他を縛るのです。感謝は必ず、自他を解放するのです。

 感謝(光)に生きれば、思い(闇)は消えるのです。感謝を忘れたら、思いが出て来るのです。感謝一筋に生きて、感謝三昧の境地に成れば、必ず新たなる全徳の無限の無限の輝きが一杯!を感受するのです。「われ思う ゆえにわれ有り」も「人間は考える葦である」も、感謝を忘れた世迷い言であってはならないのです。思いの自分(雲)に囚われたら、無限に無限に輝いた自分(太陽)を見失うのです。感謝一筋に生きるのは、無限に無限に輝いた自分を、神さまから受け続けることなのです。

 青空に太陽のような心境を持続する為には、雲(思い)を消し去ることが必要です。どんな思いも、神さまの助けが無ければ、消し去ることは不可能です。『ありがとうございます』と感謝して、神さまの光を受け入れた程度に比例して、心に溜まった思いは消し去られるのです。また神さまへの奉仕に生きることによって、捧げたものに一緒にくっついていった思いは、すべて消し去ってもらえるのです。




 真実の自分というのは、神さまと一体なのです。一瞬一瞬新たに、神さまの全てを受け直して、無限に無限に輝いた『神そのもの』なのです。その無限に無限に輝いた自分は、自由自在な自分です。神さまの与えて下さっている、無限の無限のチャンネルの番組に、自由に波長を合わせて、それを楽しんでいるのです。ただその一つの番組に熱中して、その中にはまりこんでしまったら、一時的に自由を失ったかのように見えるのです。そしてその番組に囚われて、順次に番組を下げてゆくかのように見えるのです。しかしそれらはすべて予定の行動なのです。楽しみたい番組を、自由にスクロールしているのです。永遠不滅の真実の自分にとっては、何万年・何億年と言えども、一瞬の移り変わりに過ぎないからです。

 空間を無限に拡大すれば、時間は一瞬の短いものに感じられるのです。空間を一点に縮小すれば、時間は無限に長いものに感じられるのです。自分の見ようとするものの、全体を視野に入れれば、一瞬で済むのです。部分を順番に見てゆきたい時は、長い時間がかかるのです。無限の無限のチャンネルの番組の中で、高い番組になればなるほど、空間が広がり、時間が短くなるのです。低い番組になればなるほど、空間が狭まり、時間が長くなるのです。楽しい時は、プラスのものが一杯で、空間が広がっているのです。だから時間の経つのも忘れるのです。苦しい時は、プラスのものが少ないのです。即ち空間が狭まって、時間が長く感じられるのです。

 『ありがとうございます』と心に唱え続けると、神さまの全体像を把握できるのです。だから空間が無限に無限に広がり、時間が無限に無限に短くなるのです。それで一瞬一瞬極楽状態に成るのです。神さまへの感謝を忘れると、思いが出て来るのです。思いは一つのものに囚われ・執着して、空間を狭めてゆくのです。思い続けると、空間はどんどん狭まり、プラスのものが少なくなって来るのです。その極に至れば、無限の苦痛が永遠に続くように感じられるのです。即ち地獄の状態に陥るのです。

 思いに生きる世界は、マイナスの番組の世界です。感謝に生きる世界は、プラスの番組の世界です。思いに生きている時は、マイナスの番組へスクロールしているのです。感謝に生きるようになった時は、プラスの番組へスクロールしているのです。そしてやがては神さまの最高番組・最高表現に波長が合って、今の一瞬一瞬を、最高の極楽世界に遊楽するようになるのです。「思いに生きる」生き方から、『感謝に生きる』生き方に変わって来れば、後は自然にすべてはプラスへプラスへと好転して来るのです。感謝一筋に生きようとする、一大決意のできた時から、プラスへのスクロールが始まるのです。




 この世とあの世との大きな違いは、この世はあの世の縮図になっている点です。あの世の無限のチャンネルが、この世という一つのチャンネルに、縮図的に現れているのです。あの世の一つ一つのチャンネルも、それぞれが無限のチャンネルに細分化されているのですが、この世のような縮図的な細分化では無いのです。この世では、無限の異なるレベルの姿を、見ることができるのです。そしてそれらを参考にして、自分の目指すレベルを選ぶことができるのです。あの世では、自分とそっくりな生き方の姿だけを、自分の周りに見ることになるのです。まるで自分の姿を鏡に写して、眺めるような世界になるのです。それ故に自分を急速に向上させる為には、この世はベストの世界なのです。

 この世に留まれる期間は、寿命で定められた有限の時間です。あの世は同じチャンネルに、無限に留まることも可能なのです。自分を意識的に変えない限り、同じチャンネルにいつまでも留まることになって、惰性に流された生き方では、進歩向上できないのです。この世では、色々な生きざまを見せてもらえるのです。
(1) 他に迷惑をかける生き方(テイク アンド テイク)

(2) 自立した生き方(ギブ アンド テイク)

(3) 他を援助する生き方(ギブ アンド ギブ)
 (1)の人があの世に行けば、同じような人ばかりでは、必然的に地獄になるのです。(3)の人があの世に行けば、同じような人が集まれば、必然的に極楽になるのです。(2)の人があの世に行けば、地獄と極楽の中間になるのです。この世で身に付けた生き方が、あの世でのチャンネルを決定するのです。あの世で極楽番組を楽しみたい人は、自分の能力を発揮して、報い求めず与え尽くすという、(3)の生き方を身に付けなければならないのです。本当の極楽世界は、働き者の住む世界であって、怠け者の住む世界では無いのです。他から助けてもらって、喜んでいるような極楽は、にせものなのです。他の幸せの為に働くことによって、内から喜びが湧き上がってこそ、本当の極楽なのです。

 感謝に生きることによって、一切の報いを求めない心に成れるのです。恩返しの心・報恩の心に成れるのです。与え尽くす心・捧げ尽くす心・奉仕の心に成れるのです。感謝を忘れたら、必ず思いが顔を出して来るのです。思いを消し去らない限りは、どんなに与え尽くしても、報いを求める心が出て来るのです。求める心では、極楽番組に波長が合わないのです。神さまへの感謝と報恩の生き方は、神さまの助けによって、大きくマイナスを消し去ってもらい、大きくプラスを与えてもらう生き方なのです。だからこそ速やかに、最高の極楽番組に波長が合うように成るのです。感謝と報恩に生きる者のみが、本当の無限の無限の幸せを体感体得できるのです。




 本心の心(感謝の心)をしっかりと生きていれば、業想念の心(五欲の心)は出て来ないのです。本心の心は光の心です。業想念の心は闇の心です。光は必ず闇に勝つのです。一瞬一瞬新たに、神さまからのプレゼントを受け直してゆけば、常に新たなる全徳の無限の無限の輝きが一杯!なのです。この無限の無限の幸せは、永遠不滅です。誰からも奪われることは無いのです。もし無限の無限の幸せから遠ざかってゆくとすれば、それは感謝を忘れ・怠っているからです。

 『ありがとうございます』の中には、すべてが実在しているのです。『ありがとうございます』と感謝することによって、新たなる全徳の無限の無限の輝きが一杯!と感受できるのです。

 『ありがとうございます』と心に唱えることは、
(1) 神さまに心を向けているのです。

(2) 自分のすべてを、神さまに捧げ尽くしているのです。

(3) 謙虚な謙虚な心になっているのです。

(4) 素直な素直な心になっているのです。

(5) 報恩の心になっているのです。

(6) 奉仕の心になっているのです。

(7) 与え尽くす心になっているのです。

(8) 神さまと交流しているのです。

(9) 神さまと融合・一体化しているのです。

(10) 神さまの御心を、神さまの全てを受けているのです。
 感謝の心の自分は、神さまと波長が合うのです。全体・全相を達観・洞察するのです。神さまは今、何を願い・何を必要としているかを、的確に把握するのです。そして瞬時に実行して、奉仕するのです。感謝を忘れ・怠ると、思いが発生するのです。思いの心の自分は、一つの物事に執着し・囚われて、自由自在を失うのです。全体にとって、今何が最も必要かを、正しく把握できなくなるのです。隣の部屋が火事であっても、自分勝手なことに没頭してしまうのです。また過去に囚われて、方針が変わっても、同じことをし続けて、全体へマイナスを与えてしまうのです。

 感謝の心の自分を生きることによって、プラスを与えることができるのです。思いの心の自分を生きていては、何を与えても、すべてはマイナスになるのです。この道理を肝に銘じておくことが大事です。何事をする場合でも、間違ったことをすれば、その手直しに何倍も迷惑をかけることになるものです。常に感謝の心で、神さまの知恵・力・助けを受けて、何事もさせてもらわなければ、本当のプラスの働きはできないのです。自分勝手な思い込みで、幾ら正しいと思っても、迷惑をかけるようではマイナスです。先ずは感謝を徹底して、感謝しながら何事もさせていただくことが大切です。一瞬一瞬神さまの知恵に導かれなければ、何一つとして正しいことはできないのです。思うことよりも、考えることよりも、感謝し続けることの方が、はるかにベストなのです。





 自分のすべてを捧げ尽くして、神さまへの絶対奉仕に生きることが、悟りへの易行道なのです。無限の無限のマイナス(重荷・借り・借金・業想念・悪因縁・煩悩)を背負った自分が、自力でそのマイナスを消し去ることは不可能です。また他の助けを受けて、プラスを補充し続けても、焼け石に水です。高利の借金は、並大抵の返し方では、殖える一方なのです。謙虚に謙虚に、自分のすべてを神さまに捧げ尽くして、神さまの力で消し去っていただく以外に、方法は無いのです。

 肉体人間として、この世の一生だけ、安楽に過ごせたら、それで満足だと言うのなら、悟りへの道を歩む必要は無いのです。他に迷惑をかけないで、生活の自立ができて、他を助けるだけの、十分な働きができれば、この一生を安楽に過ごせるかも知れないのです。しかし過去世で他に迷惑をかけたり、他のお世話になっていたら、借りが有るのです。その借りを返すまでは、借金取り(七難八苦)は付きまとうことになるのです。

 自分とはこの肉体人間なのだという、唯物的人間観では、儚い・虚しい気持ちに落ち込む時が、必ず来るのです。その根本原因は、過去世において、感謝を忘れ、思いを積み重ねたところに在るのです。思いの集積は黒雲となって、永遠不滅の太陽のような自分を、覆い隠してしまうからなのです。永遠不滅の・完全円満な・神なる自分が、本当の自分なのだという、霊的人間観に戻らなければ、厭世的無常観から脱却できないのです。すべての思いを消し去って、青空に太陽のような心境になれば、一瞬一瞬の変化を楽しむ、楽天的無常観になるのです。

 過去世に積み重ねた無限の思いは、人と人との交流だけでは、消え去るどころか、殖え続けるのです。特に他に迷惑をかけたり、他のお世話になった分は、借り(思い)となって、自分の心に他の思いが蓄積されるのです。しっかりと働かなければ、思いが蓄積されて、心がもやもやするのは、その為なのです。怠け者には、思いの黒雲が常に覆い被さって来るのです。働き者は、他に与えた分だけ、自分の思いを他に背負ってもらえるので、心がスカッと晴れて来るのです。

 極楽世界の住人は、すべて働き者ばかりです。神さまへの感謝と奉仕に生きて、神さまの知恵・能力・力をいただいて、大きな働きができるのです。常に他の幸せの為に、大きく働くことが、無上の喜びなのです。与えれば、与え返されるのが、法則です。沢山与えたら、沢山与え返されるのです。だから極楽世界に成るのです。怠け者ばかりが集まったら、そこは地獄世界に成るのです。悟りを開くということは、本心の無限力を開発して、大きな働きのできる自分に成ることなのです。




 正しい信仰とは、本心開発(悟りを開く)の為の信仰です。例え最初は御利益を得る為の信仰から入ったにしても、速やかに本心開発の為の信仰に切り換えなければ、間違った信仰を続けて、大切な時間を無駄にすることになるのです。間違った信仰では、何万年続けようと、本心(神我一体)の自覚は深まらないのです。真の安心立命は得られないのです。日々瞬々刻々、正しい信仰かどうかを、厳しくチェックする必要が有るのです。

 『ありがとうございます』と真剣に心に唱え続けてゆけば、必ず種々様々な問題が奇蹟的に解決されてゆくのです。しかしこの世的な問題が解決されただけで、満足してしまってはいけないのです。それらの奇蹟は、あくまでも感謝行を続けさせる為の、守護の神霊からのご褒美(飴)に過ぎないのです。外から・他から与えられる助けは、浅い・小さなものです。助けられて喜ぶのは、御利益信仰なのです。他を助けることに、大きな喜びを見出すのが、本心開発の信仰なのです。

 本心(神我一体)の自分の側に立って、救いに立つのが、悟りを開く為の正しい信仰なのです。救いに立つ為には、無限の救済力が必要なのです。その無限の救済力を、神さまからいただく為にこそ、『ありがとうございます』という感謝の真祈りが有るのです。本心開発とは、本心の自分の持っている、無限の能力を引き出して、大きな働きをすることなのです。世の為・人の為に、自分のすべてを、与えて与えて与え尽くしてゆくことなのです。自己限定・卑下慢の心を消し去って、何でもできる自分に成ることなのです。

 粉骨砕身・身を粉にして働くことが、先ず要求されるのです。次に世を救う為に日夜心を砕き、熱き祈りを捧げ続けることが必要なのです。そして自分のすべてを神さまに捧げ尽くして、神さまの御用に使っていただくことが、神さまの大きな助けを受ける秘訣なのです。神さまの御心(願い)を生きてこそ、救いの側に立ってこそ、神さまに守りに護っていただけるのです。いつまでも御利益信仰に留まっていたら,神さまにそっぽを向かれてしまうのです。

 求める心(五欲)を捨て切って、与え尽くす心をしっかりと生きなければならないのです。求める心を生きている時は、神さまの助けはストップしてしまうのです。呼吸と同じように、吸うばかりでは、呼吸はできなくなるのです。吐き出せば、自然に入って来るのです。与え尽くす心を生きれば、神さまの助けは内から自然に湧き上がって来るのです。与え尽くす働きの極致に、真の悟りの境地が有るのです。他を幸せにする働きを、無限に拡大してゆくことが、悟りへの道なのです。無限の働きのできる自分に成ることが、真実の悟りを開くことなのです。悟ってから働こうと言うのでは、本末転倒です。




 聖地というのは、神人を養成する為の場です。沢山の高級神霊が結集し、清め(浄め)の光が、大光明燦然と降り注いでいるのです。古い自分と新しい自分との置き換えを、自然にしてもらえる絶好の場なのです。業想念を消し去って(浄め)、感謝の心を引き出して(清め)、神人(本心)の自覚を与えてくれるのです。しかし観光気分や御利益信仰の心では、本当の大きな助けは受けられないのです。

 神さまの本当の大きな助けを受ける為には、『真剣さ』が必要なのです。『真剣』即ち『いのちがけ』即ち『全託』が必要なのです。身も心も命も、すべてを捧げ尽くして、神さまに預け切るということが、古い自分(業想念)を消し去ってもらう為の必須条件なのです。自分の自由意志で、消し去ってほしいと預けた分は、消し去ってもらえるのです。しかし掴んで放さない分、預けなかった分は、神さまも消し去ることはできないのです。高級神霊はどこまでも、人の自由意志を尊重し、真剣さが自然に出て来るように見守っているのです。

 神さまへの感謝と奉仕が、神人養成の為の柱になるのです。奉仕して与えた分に比例した、神さまの助けを受けることになるのです。他に迷惑をかけないように、他のお世話にならないように、極力心掛けることも大事なのです。折角の神さまへの奉仕も、他に迷惑をかけた分、他のお世話になった分は、マイナスされてしまうかもしれないのです。純粋な奉仕になればなるほど、効果は大なのです。

 聖地とは、神さまに奉仕して、本心開発という、大きな助けを受ける為の場なのです。求める心・五欲の心で来れば、邪魔をすることになるのです。本心開発を真剣に願う人だけが、その場を活用すれば良いのです。一日も早く、一人でも多く、神人を生み出し続けてゆくことが、神さまの一番の願いなのです。その為に必要な種々様々なことを、真剣に奉仕して果してゆくことが、今最も大切なことなのです。世界を平和にする為に、感謝の真祈りに生きる神人が、本当に必要とされているのです。

 何事にも全力を出し尽くして、真剣に働くことが、真剣な心を引き出すことになるのです。求める心で祈るのは、奉仕では無いのです。自分のすべてを与え尽くす、真剣な心で祈ることが、奉仕の祈りになるのです。祈りで奉仕したいのであれば、祈りで奉仕する為には、もっともっと真剣にならなければならないのです。身を粉にして働き、寝食を忘れて祈る位の真剣さが、神さまから求められているのです。御利益信仰の100年よりも、本心開発の為の真剣な一日の方が、遙に遙に価値の有るものなのです。大切な命を時間を浪費してはならないのです。悔いを千歳に残してはならないのです。



 感謝には、無限の無限の段階があるのです。無限の虚の感謝と無限の実の感謝が、無限の無限の段階の感謝として、感謝一元に配列されているのです。不平不満不足の心の極致が、虚の感謝の出発点です。不平不満不足の心が少なくなるにつれて、虚の感謝の段階が上がってゆくのです。不平不満不足の心が全く無くなれば、虚の感謝の最上の段階なのです。次に実の感謝が、その大きさ・深さ・高さに比例して、神さまなる感謝の極致に、どこまでもどこまでも肉薄してゆくのです。即ち無限億万分の一秒という、一瞬一瞬新たなる、神さまの全徳の無限の無限の輝きが、無限に無限に一杯!という、神さまの最高表現を感受する段階に、限りなく近づいてゆくのです。

 また感謝には、自力の感謝と他力の感謝と絶対力の感謝があるのです。自力の感謝は、自分の努力・力だけで、不平不満不足の心を少なくし、実の感謝も深めてゆこうとするのです。ところが自力は、他力や絶対力の大きな助けを無視し・拒絶する生き方なので、その力に限界があるのです。必ず行き詰まり・頭を打ち、無力感に打ちひしがれるものなのです。もし少しでも進歩向上しているとすれば、自分が気付かないだけで、他からの応援もあったからなのです。

 他力の感謝は、謙虚な素直な心で、色々な段階からの、他の助けを受け入れる生き方です。自分の認めただけの、他からの応援を受けることができるのです。マイナスの心を肩代わりしていただいている、マイナスの心を消し去っていただいている、マイナスの心を免除していただいている、と自分が認めた分だけ、マイナスの少なくなるように助けていただけるのです。また他から感謝されたり、他から祈ってもらえた分は、自分の感謝にプラスされて、大きな助けになるのです。

 絶対力の感謝は、絶対神の感謝の真祈りが、すべてのすべてに輝き渡っている、という感謝です。自力や他力という小さな部分に囚われないで、唯一無二絶対の・すべてのすべてなる本当の神さまに、すべてをお任せする生き方です。自分の身も心も命も、自分のすべてを、神さまに捧げ尽くして、神さまの御用にお使いくださいと、全託してゆけば、必ず神さまは、自分を訓練し・錬磨して、使ってくださるのです。神さまが自分を通して働いてくださる時に、すべての段階の自分が、感謝の真祈りをしていることになるのです。無限の無限の感謝が、無限に無限に一杯! さらに無限の無限の感謝が、無限に無限に一杯! さらにさらに無限の無限の感謝が、無限に無限に一杯! これが絶対力の感謝なのです。小さく掴んだだけが、自分であり、自分のものになるのです。掴みを放せば、すべてが自分であり、自分のものになるのです。




 『働く』ということが、神さまの助けを大きく受け入れていることなのです。謙虚に・真剣に・喜び勇んで、『働けば働くほど』神さまの力が湧き上がって来るのです。神さまの御用に使っていただくことが、神さまのお手伝いをさせていただくことが、本当の働きなのです。神さまは常に、すべてに無限の無限の幸せを与えようとしているのです。そのお手伝いをすることが、神さまの無限の助けを受け入れることになって、神我一体の自覚を深めていただけるのです。

 『働き』には、「肉体的な働き」・「精神的な働き」・「霊的な働き」の三つがあるのです。布施行(自分の一番大事なものを、報いを求めないで与え尽くす)にも、財施・法施・無畏施の三つがあるのです。肉体的な働き・財施は、身を粉にして働くことであり、またそれによって得たものを、他の幸せの為に与え尽くすことです。精神的な働き・法施は、真理を学ぶことによって、心の幸せ・喜び・安らぎ等を体得し、それを自然に他に波及することであり、また真理そのものを他に伝えることです。霊的な働き・無畏施は、神さまとの一体感を深める為の、『感謝の真祈り』を祈ることです。そして自他共に真実の『安心立命』が得られるように、神さまの最高のお手伝いをすることです。

 「肉体的な働き」には限界があるのです。しかし「精神的な働き」は、肉体的な働きの万倍以上の働きにもなるのです。「霊的な働き」は、肉体的な働きの億倍以上の働きにもなるのです。従って自分の働きを大きくする為には、真理の学習と祈りの実行が大切になるのです。『ありがとうございます』と感謝一筋に生きて、霊的・精神的・肉体的な三つの働きを、調和した姿で拡大させてゆくことが大事なのです。

 『働き者』は、極楽への道を歩んでいるのです。『怠け者』は、地獄への道を歩んでいるのです。働くほど貸しが増えるのです。利息が付いて、貯金が増えるのです。また神さまの無限の徳も受け易いのです。さらに働きが大きくなって、自然に極楽に近づいてゆくのです。怠けるほど借りが増えるのです。利息が付いて、借金が増えるのです。借り即ち業想念が心に蓄積されて、その重荷・縛りを受けて、益々怠けることになるのです。また業想念の奴隷に陥れば、神さまの助けを拒絶することになるのです。だからこの世でも七難八苦で一杯になり、地獄への道を転がり落ちることになるのです。恐怖心・精神的苦痛・この世の不如意を解消する為には、先ず借りを減らすことが必要なのです。

 マイナスへの傾向をプラスへ向け変える為には、神さまの助けが絶対に必要不可欠なのてす。神さまの助けを受ける為には、『真剣さ』が絶対条件です。『いのちがけ』で神さまに縋らなければ、まだ自分の自由意志はマイナスへ向いていることになるのです。




 神さまの願いを生きることが、神さまのお手伝いに生きることが、神さまの無限の護りを受ける秘訣なのです。自分のいのちを神さまに捧げ尽くして、血涙を絞り出し・いのちを懸けて奉仕すれば、神さまも護らずにはおれなくなるのです。業想念の心(五欲)の奴隷になって、自分勝手な生き方をしていては、幾ら頼み込んでも相手にされないのです。人の自由意志を尊重する神さまの立場からは、思い通りに生きようとする人に干渉することはできないのです。自分の思い通りに生きたいという人に対しては、ご自由にどうぞと引き下がるしか無いのです。神さまの助けを受けるには、未だ時期尚早なのです。

 自分の思い通りに生きるのと、神さまの御心のままに生きるのとは、全く正反対の生き方なのです。自分の思い通りにというのは、自分の立場を中心にしているのです。どうしても小さな生き方になってしまうのです。利己的に・マイホーム主義的に、求める心を生きるようになるのです。求める心を生きていては、神さまの御心と波長が合わないので、神さまの助けは受けられないのです。だから必然的に行き詰まり、万事不如意の状態に、七難八苦の状態に陥るのです。一時的に思い通りになっても、高利の借金をしたのと同じで、そのツケは後から巡って来るのです。

 自分の思い通りにというのは、神さまの計らい・他の愛念を、無視し・拒絶しているのです。調和の流れを大きく乱しているのです。どれだけ多くの恩恵を与えられて来たか、計り知れないものがあるのに、全く気付かなくなるのです。恩返しの生き方を最優先してこそ、助け続けてもらえるのに、恩を仇で返すようなことをして、逆鱗に触れてしまうのです。どれだけ神さまの願いを生きているか、どれだけ神さまのお役に立っているかが、神さまの助けを受けているかどうかのバロメーターなのです。日々の自分の生き方を厳しくチェックしなければ、正しい悟りへの道を歩むことはできないのです。

 高利の無限の借金は、完済し終わるまでは油断できないのです。ちょっと油断すれば、瞬く間に殖えて元に戻ってしまうのです。過去世の無限の業想念も同じです。すべてを神さまに預け切ってしまうまでは、安心できないのです。直ぐに業想念の奴隷に陥って、自分の思い通りに生きようとしてしまうのです。感謝と報恩の真を生きるようになる迄は、『真剣に・真剣に・どこまでも真剣に』神さまのお手伝いだけに生きようとしなければ、無限の業想念を消し切って、悟りを開くことは不可能です。真剣に神さまのお手伝いに生きてこそ、必要なものが的確に与えられるのです。そして本当に必要なものだけで満足して、求める心を起こすことは無くなるのです。感謝三昧の心で奉仕に生きられてこそ、真実に無限の無限の幸せ一杯!の生き方になるのです。



 心を向け続けたものに、心は同化してゆくのです。心はその対象物に入り込もうとすると同時に、その対象物を心に取り込もうとするのです。そしてその対象物と一体化してゆくのです。それがマイナスのものであっても、プラスのものであっても、お構い無しなのです。無差別に一体化してゆくのです。だから何に心を向け続けるのか、自分自身でしっかりと定めることが大事なのです。信仰の対象物についても、同じことが言えるのです。何を対象にして、信仰しているのか? 自分の信仰の対象物を、はっきりさせることです。ぼんやりしたままでは、何も掴めないのです。自分のものにならないのです。

 正しい信仰・本物の信仰とは、一体どのような信仰なのか? 自分自身が本当に納得できる答えを、自分自身で捜し出し、見出すことが大切なのです。他から勧められた信仰は、未だ本当の自分の信仰では無いのです。他からどんな猛反対を受けても、いのちがけで最後まで続けられる信仰でなければ、自分が選び・定めた信仰とは言えないのです。他人の信仰を一寸真似しただけでは、自分の信仰では無いのです。

 いのちがけの信仰になってこそ、本当の自分の信仰なのです。いのちがけの信仰になれば、本心の自分が出て来て、本物か偽物か・正しいか間違っているか、必ず判別できるようになるのです。今自分のしている信仰が、どのような信仰であっても、正邪の判断が付くようになるのです。もし間違っていたら、その間違いに早く気付くのです。正しかったら、本物の信仰がぐんぐん深まるのです。

 人はそれぞれに、自分を幸せにしてくれそうなものを、信仰の対象にしているのです。お金が自分を幸せにしてくれると思っている人は、お金を拝んでいるのです。薬が病気を治してくれると思っている人は、薬を拝んでいるのです。効果のあると思えるものであれば、その対象は物でも、人でも、目に見えないものでも、何でも良いのです。人によって千差万別なのです。しかし本当に効果があるかどうか、正しい本物かどうかは、結果を見て判断するしか無いのです。いのちがけで・真剣に試してみれば、その結果が早く出て、判断が付くものです。

 業想念の心(五欲)では、本物を選定できないのです。だからその対象物には、本当の力や効果は無いのです。五欲の心自体も常にエスカレートして、決して満足は得られないのです。だから次から次へと移り変わってゆくだけです。本心の心で選定した対象物は、どんなものも本源(絶対神)と直結していて、一貫性のあるものです。絶対神(すべての本源)のみが、永遠に変わらない・一貫性のある・正しい・本物の・究極の・最高の信仰の対象物であり続けることができるのです。本心のみが、本物を選定できるのです。




 本心の心の自分が本当に目覚めた時に、神さまを・神さまの世界を感受できるのです。神さまを求め、悟りを求めているのは、この本心の心の自分の目覚め前の状態なのです。本心の自分が本当に眠っている時は、夢幻の業想念の世界を彷徨っているのです。いくら揺り動かしても、起きようとはしないのです。悪夢にうなされていても、目覚めないのです。しかし目覚めの時機が来るのです。本心の自分を揺り動かし、呼び覚まそうとして、大いなる力が働きかけて来る時機が来るのです。

 ぼんやりした半覚醒状態から、もう一度眠り込む人と、すっきりと目覚める人とがあるのです。業想念の夢を見続けている人は、業想念の夢に引きずり込まれて、再び眠りに落ち入り易いのです。呼び覚まそうとする働きに、一寸でも心を向けてゆける人は、目覚め易いのです。この世への執着が強いと、業想念の夢から醒め難いのです。この世への執着が少ないと、呼び覚まそうとする、『声無き声』に心が向くのです。そして業想念の夢から醒めて、本心の自覚が出て来るのです。

 神さまの世界からは、新たなる全徳の無限の無限の輝きが、『声無き声』『形無き形』となって、降り注いでいるのです。それを『ありがとうございます』と感受すれば、本心の自分が目覚めるのです。神さまの世界に心を向けて、神さまの世界を感受すれば、本心の自分の目覚めなのです。無限に無限に輝いた神さまの世界を、本心の心にしっかりと受け入れて、その残像・余韻を楽しむというのが、この世の人生なのです。

 過去の残像・余韻というものは、だんだんと薄らいでゆくものです。いつまでも過去の残像・余韻に浸っているだけでは、感謝も感動も消え去ってゆくのです。過去を掴んで生きるだけでは、本当の幸せは味わえないのです。常に今新たに、神さまから新たなる全徳の無限の無限の輝きを感受することが、本当の幸せへの必須条件なのです。

 この世へ執着する心は、過去の残像だけを見ているのです。その残像の印象は、段々と希薄になってゆくものです。すべてにおいて、最初の輝きは無くなってゆくのです。また執着の心というのは、過去にしがみつく古い心です。感謝や感動とは無縁の心なのです。執着の心で何をどれだけ掴んでも、感謝や感動の心は湧いて来ないのです。執着の心は業想念の心であって、本心の心の感謝や感動とは、別のものなのです。この世や過去に執着する心では、真実の幸せを味わうことは無理なのです。

 『ありがとうございます』という『祈り言葉』は、真剣に・無心に唱え続けていれば、本心の心の自分を速やかに引き出してくれる、神秘不可思議な言葉です。本心の心の自分さえ出て来れば、後は自然に感謝と感動の心も、湧き上がって来るのです。




 全託・空・無為の極致に、御稜威(みいづ)・絶対神の御威光を感受することができるのです。全託(自分のすべてを捧げ尽くして、感謝一筋に生きる)・空(すべての根源をしっかりと見つめて生きる)・無為(計らい心を捨てて、神さまの御心のままに生きる)の生き方の極致に、天照大御神(新たなる全徳の無限の無限の輝き)は現前するのです。自我の心を生きようとしている時は、全託・空・無為の生き方は絶対にできないのです。だからある程度は自我の心を生きてみて、行き詰まり・頭を打ち・苦しんで、心から反省するということも必要なのです。そうすればどんなに努力しようとしても、努力すらできないという、本当の無力感を味わうことによって、謙虚に謙虚に成れるのです。

 真の全託の生き方とは、真の神へ自分のすべてを委ね切ることです。『私のすべてを神さまに捧げます。どうか神さまの御用にお使い下さい』と、自我の生き方を放棄することです。そうすれば本心の自分が出て来て、無限力を発揮し、獅子奮迅の働きができるのです。「棚からぼた餅」式の怠惰な甘い生き方とは、正反対なのです。神さまの御用に使っていただいて、神の国建設の為に、全力を尽くすことです。神さまのお役に立って、神さまに喜んでいただくことなのです。

 真の空の生き方とは、真の神を中心に置いて、真の神の働きだけを見詰めることです。すべての根源に心を向けて、枝葉に囚われない生き方です。真の神とその働きの全貌を見ることです。全体を達観し、全相を把握し、すべてを活かすことです。すべての部分を、適材適所に・秩序整然と、活用することです。神の国の秩序・最高理想の相を、現実に現してゆくことです。

 真の無為の生き方とは、真の神の働きだけを、しっかりと捉えることです。一瞬一瞬新たに新たに、真の神の働きは、千変万化自由自在に現れて来るのです。その働きをしっかりと捉える為には、自我の計らい心は邪魔になるのです。自我の計らい心を、捨てて・捨てて・捨て切って、微塵も残さない生き方です。真の神の働きを、絶対に邪魔しない生き方なのです。

 真の神が、真の神の働きが、この世に天下って来たら、地上天国・完全平和が実現するのです。地球人類は長歳月、真の神を忘れ・無視し・拒絶し続けて来たのです。その為に地球全体が滅亡寸前の瀕死の重症なのです。今こそ謙虚な謙虚な心になって、真の神の助けを受け入れなければ、救済は不可能なのです。真の神の御稜威によらなければ、地球の滅亡を防ぐことはできないのです。絶対統一・絶対他力・絶対救護の真の神(真の御親)に、真剣に・命懸けで縋らなければならないのです。



 皇(すめら)の道・惟神道(かみながらのみち) ・古神道とは、真の神の働きを拝受(光一元に礼拝し、感謝を深めて受ける)するだけです。真の神の前に立つ時、何神も何人も無に等しいのです。無限の無限の大光源の前に立つ時、いかなる光も闇も、影に隠れ・消え去るのみです。真の神の働きを拝受する、最高級神霊(古神道の神々)が、「我は名も無き、いと小さき者なり」と、謙虚に謙虚に現れるのは、この故なのです。古神道の信仰を生きる者は、徹底して自己を隠し、真の神の御稜威を顕揚するのみです。

 古神道を標榜する時、既に古神道を逸脱しているのです。一宗一派を立て、教団を組織するのは、間違っているのです。神社仏閣堂塔伽藍は不要なのです。一切の偶像・模型は無用なのです。それらが真の神を見失わせるとすれば、一切悪の元凶になるのです。世界の戦争の根本原因になっているのは、間違った信仰・信念のぶつかり合いなのです。何宗も何派も何教も、謙虚になって影に隠れなければ、正しい道は歩めないのです。自我を主張する生き方は、どんな生き方も、地球の滅亡に加担しているだけです。

 肉体自我を主張する偽の民主主義は、地球全体を滅亡へ追いやろうとしているのです。欲ぼけの狂った状態では、いくら多数決で決めたところで、滅びへの道を歩むだけです。真の自分・神なる自分・神人の自覚を取り戻さなければ、真の民主主義にはならないのです。全員が真の自分に戻れば、どんな問題も全員一致・衆議一決するのです。真の神の叡智に導かれ、常に最高の正しい決定ができるのです。

 すべての人は、真の神を御親とする、いのちの兄弟なのです。地球は一つの家庭なのです。仲良く助け合って、みんなが幸せになる家庭を、築かなければならないのです。利己主義・マイホーム主義・民族主義・国家覇権主義等々の、縄張り根性・島国根性の狭小な生き方は、地球という家庭を滅ぼす元凶になるものです。御親である真の神は、仲良く助け合えば、みんなが幸せになれるように、必要なものは豊かに与え続けて下さっているのです。どんな小さなものでも、私物化することは、真の神の御心に反しているのです。

 至忠至孝至悌の生き方は、無条件で真の悟り・幸せ・救い・平安を保証する、最高の易行道なのです。真の神を唯一無二の中心者として、無条件で帰順するのが至忠です。真の神を唯一無二の御親として、喜んでもらえるように生きるのが至孝です。真の神を唯一無二の師として、その導きに素直に従うのが至悌です。さざれ石の巌となる為には、万神万生万有の中心・御親・師は、唯一無二・絶対でなければならないのです。何神何人何物と言えども、自分勝手に中心・親・師としてでしゃばることは、真の神を無視した無礼千万な生き方です。真の調和を乱すのは、真の神を立てない、この傲慢な態度なのです。



 自腹を切る覚悟が無ければ、本当の責任ある生き方はできないのです。自分のすべてを捧げ尽くす覚悟が無ければ、どんな責任も果たすことはできないのです。自分のすべてを捧げ尽くして、一切の責任を取ろうとするところに、真の神の助けが降りて来るのです。我欲を捨てて、自我を死に切って、無欲・無我・無心の心に成った時に、真の神が現れるのです。一切の責任を自己に帰す心は、真の神の御心と一致するのです。一切の責任を取ろうとする大犠牲精神の持ち主は、真の神の座にまで引き上げられて、中心に立つ者となるのです。即ち本心の自分に戻ることができるのです。

 地球の滅亡を防ぐ為に、いのちを捧げて、全力を尽くし、その全責任を負います、という覚悟ができたら、直ぐに本心の座に引き上げてもらえるのです。そして真の神が応援に付いて、無限の能力を授け、必要な働きをさせて下さるのです。誰かがしてくれるだろうと、他に責任を転嫁していては、本心の自分に戻ることは永遠に不可能なのです。責任の重い立場に自分を置かない限りは、本心の自分を引き出すことはできないのです。いつまでも先送りしていたら、本心の自分に戻るチャンスまで失ってしまうのです。

 大自然の猛威に曝された時、人間の無力さに気付き、少しは謙虚になるものです。七難八苦の嵐に見舞われた時、自己の無力さに気付き、少しは神に縋る心が起きるものです。でもそうなる前に気付かなければ、本当の大馬鹿者です。真の神を無視した結果が、七難八苦の運命として現れているのです。真の神は、無限に無限に偉大なのです。その真の神の助けを拒絶し続けたら、運命が極端に悪くなるのは当然です。

 大自然の悠久の神秘に触れ、大自然の無償の恵みに感謝し、大自然の『声無き声』に耳を傾け、一日も早く、『万物の霊長』として、報恩の行に生きなければならないのです。人には地球の調和を守る、使命と責任が有るのです。それを逆にして、地球の調和を乱しに乱しているようでは、人の存在価値が問われることになるのです。地球の調和を乱す人間は必要無いのだと、抹殺されても、文句は言えないのです。自分さえ良ければという人間は、人類さえ良ければという人間は、もう必要が無いのです。真心から反省し、償いをしてゆこうとしなければ、真の神の助けは受けられないのです。

 物質文明を謳歌する贅沢三昧な生き方は、地球の調和を乱し、霊的精神的な幸せをも奪って来たのです。今一度、真の幸せとは何かを、しっかりと見極めなければならないのです。欲しいものと必要なものとの区別を付けて、本当に必要なものだけで満足できる自分にならなければ、人類と大自然との調和は保てないのです。自分一人の『勇気と責任』の有る生き方が、地球人類の生き方を決定するのです。




 因縁因果の法則(因果律)は、厳然と存在しているのです。光の因縁と闇の因縁が有るのです。本心の心の自分は、光の因縁に支配されるのです。光源と光線の関係、神さまと神の子の関係、本当のプラスだけの因縁です。業想念の心の自分は、闇の因縁に支配されるのです。マイナスの種を蒔けば、マイナスの実を結び、プラスの種を蒔けば、プラスの実を結ぶのです。種も蒔かなければ、生えないのです。

 光の因縁の世界では、不落因果なのです。神さまの世界に住む本心の心の自分は、決してマイナスに落ちることは無いのです。神さまから常に無限の無限のプラスを受けるだけです。それも一瞬一瞬新たに新たに、無限の無限のプラスを受け直すだけです。闇の因縁の世界では、不昧因果なのです。マイナスの種を蒔けば、結ぶのは必ずマイナスの実なのです。プラスの種を蒔けば、結ぶのは必ずプラスの実なのです。マイナスの種を蒔かなければ、決してマイナスの実は結ばないのです。プラスの種を蒔かなければ、決してプラスの実は結ばないのです。厳然としていて、決して例外は無いのです。

 現実の世界だけに生きる人にとっては、不昧因果の法則は恐ろしいものです。結果を見れば、原因は一目瞭然だからです。自分が過去世(過去)にして来たことが、現世の運命となって現れているのです。殺せば、殺されるのです。盗めば、盗まれるのです。目には目を、歯には歯をなのです。決して隠し立てはできないのです。因果は巡るのです。

 現実の世界で幸せを大きくする為には、他を幸せにするプラスの種を、沢山蒔き続ける必要が有るのです。種は土中に埋めて、実を結ぶまで待って、始めて収穫できるのです。蒔いた種が、直ぐに自分の所に戻って来たら、種蒔きでは無いのです。一切の報いを求めないで、隠れた所で積む善行が、本当の種蒔きになって、未来に多くの実を結ぶのです。直ぐにお返しを求めて、与え返されたら、種蒔きにはならないのです。本当の種蒔きをしていたら、必ず一粒万倍になって返って来るのです。プラスの種蒔きをした時は、直ぐに忘れてしまうのが良いのです。まだかまだかと、種をほじくり出したら、実を結ばないからです。マイナスの種を蒔いた時は、直ぐに種を取り出すのが良いのです。実らせては、大変なことになるからです。

神さまの世界を、祈りによって、この世に現すのが、不動因果なのです。不落因果の光の世界を、不昧因果の闇の世界に、祈りによって種蒔きすれば、現実の世界もプラスで一杯に成るのです。常に心は安心立命していて、不動心を保つことができるのです。感謝の真祈りこそは、隠れた所で(心の奥深くで)、大きな徳(無限の無限の徳)を積んでいるのです。本当の奇蹟的な運命改善は、感謝の真祈りによって可能になるのです。




 真実に無限の無限の幸せで一杯である為には、真の神さまに、自分のすべて(いのち)を、捧げ尽くしてゆく必要があるのです。先ずすべてに最優先して、真の神さまに、自分のすべてを捧げ尽くしてゆけば、必ずどんな幸せでも与えてもらえるのです。必ず無限の無限の幸せを与えてもらえるのです。真の神さまを無視して、真の神さまを抜きにして、幸せを手に入れようとするから、どんな幸せも手に入らないのです。

 利己主義的・マイホーム主義的な小さな生き方では、真の神さま(全体)とは波長が合わないのです。だから真の神さまの助けを受け損なって、どんなに努力しても、真実の無限の無限の幸せが手に入らないのです。真実の無限の無限の幸せは、真の神さまから、一瞬一瞬新たに、与えてもらうものです。真の神さま以外からは、決して与えてもらうことはできないのです。真実の無限の無限の幸せを人に物に求めても、決して与えられるものでは無いのです。真実の無限の無限の幸せは、神さまから与えられる光輝いたものです。この世という影の世界に、捜し求めて得られるものでは無いのです。

 真の神さまへの絶対奉仕に生きれば、必ず必要などんな幸せも与えてもらえるのです。食事を一回減らしてでも、その分を神さまへの奉仕に使えば、食べ物の徳分は、必ず大きく殖えるのです。そのような生き方をある程度継続すれば、食べ物に関しては、絶対に困らなくなるのです。反対に神さまへの奉仕を忘れて、美食家を気取っていたら、この一生の食い扶持を早く使い果たして、晩年には食べ物に困ることになるものです。

 神さまへの奉仕が無ければ、家庭サービスをどんなにしても、真実の幸せな家庭は築けないものです。何故かと言えば、自分の背負っている業想念を、神さまに消し去ってもらわない限りは、自分の業想念をも家族に与えることになるからです。業想念をもらった家族は、必ずマイナスの反応を示し、家庭不和に陥るのです。逆に神さまへの奉仕を最優先していたら、家族のみんなが天使のようになって、自分を幸せ一杯にしてくれるのです。真の神さまの力は、無限に無限に偉大です。何も求めなくても、必要な幸せは必ず与えて下さるのです。

 真の神さまへ絶対奉仕すれば、八百万の神々さまが守りに護って下さるのです。奉仕すれば、奉仕して下さるのです。自分のすべてを捧げて奉仕すれば、真の神さまは、宇宙のすべてをもって奉仕して下さるのです。『部分は全体の為に、全体は部分の為に』『一人はみんなの為に、みんなは一人の為に』『人は神さまの為に、神さまは人の為に』という生き方が、真実の幸せを手にする為の絶対条件なのです。真実に神さまと一体化した生き方が、最も幸せな生き方なのです。




 真の信仰でなければ、本当のお蔭は受けられないのです。偽りの間違った信仰や真似事の中途半端な信仰では、逆に自分自身を傷つけてしまうものです。本当に威力ある名刀を手にする為には、真剣さが必要なのです。無限億万ボルトの電気を扱う時には、それなりの心構えが必要なのです。本物の神さまを相手にするには、命懸けでなければならないのです。玩具の刀を振り回しても、快刀乱麻を断つが如き威力は無いのです。偽神さまをどんなに信仰しても、本当の悟りを開くことも、真実の救われを得ることも不可能です。本当の神さまを相手にするようにならなければ、真の安心立命は得られないのです。

 本当の神さまとは、唯一無二の・絶対統一の・至慈至愛の・尊厳無比の・全知全能の神でなければならないのです。それは宇宙絶対統一神・天照大御神です。新たなる全徳の無限の無限の輝きとなって、無限億万分の一秒という一瞬一瞬に、一大光源の相象の姿で現れる神です。絶対統一・絶対他力・絶対救護の神です。この本物の神さまを受け入れさえすれば、誰でも無条件で救われるのです。既に悟っている自分、既に救われている自分、既に無限の無限の幸せで一杯の自分に気付くのです。

 清浄な空気が無限に有っても、その空気を吸えなければ、無いのと同じです。吸えなくなる根本原因は、一度吸った空気を吐き出さないからです。神さまは、生かす力は、宇宙一杯に満ち渡っているのです。それなのに神さまを感じ取れないのは、人の側に責任が有るのです。神さまへの感謝を忘れ、怠っているからなのです。先ず生かされていることへの感謝が有れば、必然的に報恩の心が湧き上がって来るものです。その感謝と報恩の繰り返しによって、神さまとの循環交流が密になり、神我一体の自覚が深まって来るのです。至忠至孝至悌、神さまへの絶対奉仕が、悟りへの唯一無二の易行道なのです。

 太陽が輝いていても、背を向け、目を閉じていては、暗闇と同じです。地獄の苦しみというのは、神さまに背を向け、心の目を閉じて、神さまのいのちを呼吸しないで、もがき苦しんでいるようなものです。極楽に居ながら、極楽に気付かないのが、地獄なのです。光源を見つめている時には、一切の闇は無いのです。光源から目をそらす時に、光と闇が見えるのです。光源に背を向けた時に、闇が大きく広がるのです。

 光を灯せば、闇は消えるのです。本心の心・神心・光の心を生きれば、業想念・欲心・闇の心は消えるのです。感謝と報恩の心を、積極的に・前向きに生きさえすれば、極楽世界は現前するのです。真剣になれば、真の神を信仰するようになるのです。真の神を信仰するようになれば、無限に無限に有り難くなって、自分のすべて(いのち)を捧げ尽くして、喜んで喜んで奉仕するようになるのです。



 真の信仰でなければ、本当のお蔭は受けられないのです。偽りの間違った信仰や真似事の中途半端な信仰では、逆に自分自身を傷つけてしまうものです。本当に威力ある名刀を手にする為には、真剣さが必要なのです。無限億万ボルトの電気を扱う時には、それなりの心構えが必要なのです。本物の神さまを相手にするには、命懸けでなければならないのです。玩具の刀を振り回しても、快刀乱麻を断つが如き威力は無いのです。偽神さまをどんなに信仰しても、本当の悟りを開くことも、真実の救われを得ることも不可能です。本当の神さまを相手にするようにならなければ、真の安心立命は得られないのです。

 本当の神さまとは、唯一無二の・絶対統一の・至慈至愛の・尊厳無比の・全知全能の神でなければならないのです。それは宇宙絶対統一神・天照大御神です。新たなる全徳の無限の無限の輝きとなって、無限億万分の一秒という一瞬一瞬に、一大光源の相象の姿で現れる神です。絶対統一・絶対他力・絶対救護の神です。この本物の神さまを受け入れさえすれば、誰でも無条件で救われるのです。既に悟っている自分、既に救われている自分、既に無限の無限の幸せで一杯の自分に気付くのです。

 清浄な空気が無限に有っても、その空気を吸えなければ、無いのと同じです。吸えなくなる根本原因は、一度吸った空気を吐き出さないからです。神さまは、生かす力は、宇宙一杯に満ち渡っているのです。それなのに神さまを感じ取れないのは、人の側に責任が有るのです。神さまへの感謝を忘れ、怠っているからなのです。先ず生かされていることへの感謝が有れば、必然的に報恩の心が湧き上がって来るものです。その感謝と報恩の繰り返しによって、神さまとの循環交流が密になり、神我一体の自覚が深まって来るのです。至忠至孝至悌、神さまへの絶対奉仕が、悟りへの唯一無二の易行道なのです。

 太陽が輝いていても、背を向け、目を閉じていては、暗闇と同じです。地獄の苦しみというのは、神さまに背を向け、心の目を閉じて、神さまのいのちを呼吸しないで、もがき苦しんでいるようなものです。極楽に居ながら、極楽に気付かないのが、地獄なのです。光源を見つめている時には、一切の闇は無いのです。光源から目をそらす時に、光と闇が見えるのです。光源に背を向けた時に、闇が大きく広がるのです。

 光を灯せば、闇は消えるのです。本心の心・神心・光の心を生きれば、業想念・欲心・闇の心は消えるのです。感謝と報恩の心を、積極的に・前向きに生きさえすれば、極楽世界は現前するのです。真剣になれば、真の神を信仰するようになるのです。真の神を信仰するようになれば、無限に無限に有り難くなって、自分のすべて(いのち)を捧げ尽くして、喜んで喜んで奉仕するようになるのです。