ふることふみ(古事記)
あめつち はじめ おこるのとき たかあまはら に なりませる かみの みなは あめのみなかぬしのかみ
17−1
ここに あまつかみ の みこと もちて ふとまに に うらへて のりたまひ つらく
爾 天神之命以 布斗麻邇爾 ト相而詔之
をみな を こと さきだちし に よりて ふさはず
因文先言而不良
また かへり くだりて あらため いへ と のり たまふ
亦還降改言
フトマニとは、フトは太元であり、一切の根源であり、すべてに共通性を持つものでありまして、一切に通用する公(おおやけ)のものであり、マニはまにまに、自然のままに、ということでありますから、天の律則のそのままの作法・方式(一定の形式)即ち公式であるのであります。
誰が何時・何処で行っても同じ答え・結果が出るものでありますから公式なのであります。
例えば数学においては、公式と言う術語がありますように、どのような問題を誰が解いても、必ず同じ答えが出てくるようになっているのであります。
また音楽においては、楽譜さえ有れば、誰でも同じように歌を歌い、楽器を演奏することができるものなのであります。
このとき楽譜が公式であり・フトマニの一種であるのであります。また種々のグラフの表示においても、誰が見ても、一目瞭然に、公平に、明白にその持っ内容が理解できるようになっているのであります。このときグラフがフトマニの一種であるのであります。また言葉も万人に通用するものであります一から、フトマニの一種であるのであります。このように神の法則、大自然の法則、共通の約東ごと等々、無数のフトマニが存在していて、すべてに共通性を与えてくれているのであります。共通性があるから、すべては一つに結び合わされてゆくのであります。共通性が無ければ、みんなバラバラで自分勝手で利己的になってしまうのであります。
ウラヘテとは、フトマニ即ち公式に当てはめて、物事の是非・善悪・正邪等の判断をしたり、現れてくる結果を経理・推論・推測したり、未来の出来事を予知したりすることなどを言うのであります。
創造の上においては、試行錯誤もすべてを尽くすという意味において必要な要件であります。
しかし同じ錯誤を何度も繰り返すようでは愚かなことであります。例えばある目的地に行こうとする場合に、迷って同じ所をぐるぐる廻っていては、決して目的地に到達することができないのであります。またすべての道を片っ端から通ってみるというのも時間が掛かり過ぎるのであります。その時にフトマニである地図を参考にして確認してゆけば、無駄な労少なくして、速やかに目的を達することができるのであります。どんな目的を達するためにも、常にフトマニにウラヘルということが必要不可欠なことなのであります。
18-1
かれ すなはち かへり くだり まして
故爾返降
さらに かの あめの みはしら を さき の ごと ゆき めぐり たまふ
更往廻其天御柱如先
ここに いざなぎのみこと まづ あなに やしっ え− をとめを と のりたまひ
於是伊邪那岐命 先言阿那邇夜恋愛袁豊賣袁
のちに いもいざなみのみこと あなに やしっ え− をとこを と のりたまふ
後 妹伊邪那美命 言阿那邇夜志愛袁登古袁
かく のり たまひ をへて みあひ まして
如此言竟而 御合
天之御柱の旋回は先の如く(汝者自右廻逢 我者自左廻逢)正しかったのであるから、そのままを踏襲するのであります。即ち伊邪那岐命は左旋回し、伊邪那美命は右旋回するのであります。天之御柱は即ち岐美二神そのもであり、自左(ひだりより)の”より”は、動作の手段・方法を表し、”・・・方法で”という意味でありますから、伊邪那岐命は左へ左へと左旋回の方法で、伊邪那美命は右へ右へと右旋回の方法で廻るのであります。
物質的構成(成國土生⇒くにうみなさむ)という観点から良否を判定すると、因女先言而不良(おみなことさきだちしによりふさはづ)というのが先の教訓であったので、今度は伊邪那岐命の方から先に唱えて神律を正しく遵守して神業に当たるわけであります。
そのわけは
@体性発射と霊性発射のムスビはヒルコ、
A体性内聚と霊性内聚のムスビはアハシマ、
B霊性発射と体性内聚(この時は体性が霊性に同化される)のムスビは霊と霊とのムスビになるので、霊的横溢となるのみ、
C霊性内聚(この時は霊性が体性に同化される)と体性発射のムスビは体と体とのムスビになるので、物質的構成が成立する、
の中のCの状態でなけれぱならないからであります。
アナニヤシッ エ−− ヲトメヲのエ−は愛の極致であり、彼我一体の絶対抱擁・絶対抱合であります。これ即ち御合なのであります。絶対なる一つのものが相対の両極に分かれて、その双方が相手に自己のすべてを与え尽くし合うことによって、ピッタリと融合一体化して、無限の段階の妙趣ある組み合わせが行われた状態が御合であります。例えば光と闇の双方が御合と、光については、無限に小さい光から無限に大きい光まで、無限の段階の光の表現となり、闇については、無限に小さい闇から無限に大きい闇まで、無限の段階の闇の表現となるのであります。
旋回 ・唱和 ・御合 によって、岐美二神から一切の至美至妙なる無限の相が生み成されるわけなのであります。
19-1
言霊学
宇比地邇神 (うひぢにのかみ)
ウ−−−−−−−−−−−−−−−−→ス
ウーという音を出しながら、だんだん強く強く捻り上げて行って、
急迫の極に達すると、自然にスーという音に変化する。
地位から天位にまで昇って変化するのをヒヂニという。
妹須比智邇神(いもすひぢにのかみ)
ス−−−−−−−−−−−−−−−−→ウ
ス音がだんだん弱く弱く下がって、終にウ音に変化する。
宇宇比地遲神(うひぢにのかみ)の逆流である。
角杙神 (つぬぐひのかみ)
エ−−−−−−−−−−−−−−−−→レ
エ音は舌音で、舌を杙のように作用させるので、クヒという。
働きが角形であるので、ツヌという。
地位から火位にまで昇って変化する。
妹活杙神 (いもいくぐひのかみ)
レ−−−−−−−−−−−−−−−−→エ
角杙神(つぬぐひのかみ)の逆流である。
意富斗能地神(おほとのぢのかみ)
オ−−−−−−−−−−−−−−−−→ボ
オ音がだんだん強く昇って、終にボ音に変化する。
地位の音が水位に至って音変化するのをトノヂという。
妹大斗乃辨神(いもおほとのべのかみ)
ボ−−−−−−−−−−−−−−−−→オ
意富斗能地神(おほとのぢのかみ)の逆流である。
淤母陀琉神 (おもだるのかみ)
ア−−−−−−−−−−−−−−−−→ア
ア音はだんだん強く強く発音して急迫しても、音変化がない。
音変化がないので、オモタルという。
妹阿夜訶志古泥神(いもあやかしこねのかみ)
ア−−−−−−−−−−−−−−−→ア
淤母陀琉神(おもだるのかみ)の逆流である。
以上八神をことだまであらわすとこういうふうになるのであります。
19-2
言霊学
苧麻志阿斯訶備比古遲神(うましあしかびひこぢのかみ)は父音と母音と子音の根本祖神である。
ウマシは父音を表す。父音は口を閉じて出る音。口を閉じて腹にカを入れて、ウーンと声を出し、次に唇を横一文字に結んで、ムに変じ、最後にクシと鼻を通じて出す。
アシカビは母音を表す。母音はア・オ・イ・エ・ウの五つ。声帯の振動による声を伴った呼気が、途中口腔や咽頭で妨げられることなく発せられる音。
ヒコヂは父音と母音の交流こよって起こる音で、子音を表す。
宇比地遲神(うひぢにのかみ) は天性神(天神統⇒あめのとこたちのかみ)であるから、ウ音の常座は天座である。
角杙神(つぬぐひのかみ) は火性神(火神統⇒うましあしかびひこぢのかみ)であるから、工音の常座は火座である。
意富斗能地神(おほとのぢのかみ)は水性神(水神統⇒とよくもぬのかみ)であるから、オ音の常座は水座である。
淤母陀琉神(おもだるのかみ) は地性神(地神統⇒くにのとこたちのかみ)であるから、ア音の常座は地座である。
伊邪那岐神・伊邪那美神は宇比地遲神から妹阿夜訶志古泥神に至る八神を統括する神であ
るから、イ音として結座にあって、他の四音を一つに保有して統括する。
伊邪那岐神 イ−−−−−−−−→ギ
地位から結位に昇って変化する。
伊邪那美神 ギ−−−−−−−−→イ
五座(天座・火座・結座・水座・地座)と五位(天位・火位・結位・水位・地位)とが定まって、イザナギ・イザナミの神性に基づいて、七十五音のすべてが発現してくる。
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