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ふることふみにようこそ! カウンター人目の訪問者です。参考文献、引用等は、水谷清 先生 著 古事記大講 です。

ふることふみ(古事記)

あめつち はじめ おこるのとき たかあまはら に なりませる かみの みなは あめのみなかぬしのかみ

9-1

そのぬぼこを さしくだして かきたまえば 
指下其沼矛以畫者

しほ こーおーろーこーおーろーに かきなしーて ひきあげたまふときに 
鹽許々袁々呂々邇         畫鳴而    引上時

そのほこのさきより しただるしほ 
自其矛末垂落之鹽

つもりてしまとなる これ おのころじま なり
累積成嶋      是淤能碁呂嶋

畫く(かく)とは、絵とか図とかを書くという意義であります。
つまり天沼矛をもって絵図を書いたのであります。それは左旋右旋の螺旋状波である。
鹽(しほ)とは、タカアマハラ内部に発動する、左旋右旋の、神力の強弱、アシカビ力の差異、その流動する有様をいう。
     一つのものの内蔀の密度に強弱や濃淡のある場合、流動して干満の度を異にする場合など、例えば塩水、満ち潮、思潮、時潮などと使われる。
     
 水火を(しほ)と読んで、陰陽等相対に分かれるものをしほとも言う。
 畫鳴(かきなし)とは、図形が書き成る、音声が発し鳴る、霊魂が発動して震る、という 三つの意義が含まれてい'る。
 こ一お一ろ一とは、しほの廻る時に発する音であり、同時にその紋様である。滑らかな、円融的な、螺動的な、円満な、完全な旋回の音であり、紋様であります。
     こ一お一ろ一という単沌音の中に、実は複雑な音律の奏楽が行われ、このしほが旋律的に流動するまにまに神業が進んで行くのであります。

 嶋(しま)とは、一つの組織が他の組織の中に存在しているのを「しま」と言う。
 例えば
     海という組織の中に、小さい陸地という組織が存在しているので、島と言う。
 衣服の縞模様も、ある色の生地の中に他の色が存在したり、一つ の織物の中に他の織り方のものが存在していると縞模様が出来るのであります。
 ようするに全大宇宙のすべての組織紋理が「しま」なのであります。
 淤能呂嶋(おのころじま)とは、オノズカラコルシマの義で、自然に凝る嶋であります。
     岐美二神の仮凝り(かごり)は、無我無心の自然法爾の仮凝りであります。
     旋回運動が起こると、中心に自然に累積ができるにであります。(たとえば洗面器に水を一杯に 満たし、その中に細かい砂を入れて、棒で掻き回すと、水の旋回に連れて、自然に中央に砂の累積ができるが如くに。)
  
 一切の体系を確立する上の座標軸であります。例えば太陽系では太陽、地球では日本、人体では丹田がオノコロジマであります。

10-1

そのしまに あもりまして あめのみはしらを みたて  
於其嶋天降而  見立天之御柱

いやひろどのを みたてたまふ
見立八尋殿

 独楽(こま)が回転するにも、中心軸が必要でなのであります。
 岐美二神の働きは永遠に渉る無限の無限の創造であります。
 永遠に停止することが無く、むげんに無限に伸展して回転し続けるためには、無限に無限に威力のある中心軸が必要でなのであります。
 何事も中心がしっかりしてこそ、偉大なる成功を見ることができるのであります。
 全大宇宙の国土構成という大事業を成功させるためには、最高の権威と力を具えた金剛不動の中心でなければならないのであります。
 だからこそ天沼矛即ち宇宙の大神さまそのものを国土構成の為の中心軸として降臨させて、その最高権威の天降った状態を天之御柱と見て、不動の信念を打ち立てるのであります。
 天之御柱には物心一如・物信一如という点から、物質的の柱(形の上での保証)と信仰上の柱(永遠に金剛不動の信念の中心になるもの)の二つのものがあるのであります。
 其嶋(そのしま)とは淤能碁呂嶋(おのづからこるしま)でありましてて、それは即ち伊邪那美神の御神相(凹型・内聚)を表現し、その上に伊邪那岐神の国土構成の為の御神相(凸型・外発)が合わさるわけであります。
 そしてその中心に唯一無二の最高権威の一柱として立っておられるるのが天之御柱であります。
 最高権威の中心はただ一つだけであります。
 中心が幾つもあっては乱れるのであります。中心争いをしていては永遠に平和は実現しないのであります。
 形の中心も心の中心もただ一つにならなければならないのであります。

 八はイヤと読んで、イヨイヨ(弥々)という意義であります。ヒロは広まることであります。
 トノは様式(形式)であります。
 今一個の円について考えてみると、その円の中心が定まるとこの円と中心を同じくする同心円は無限に無限に描かれるわけであります。
 小さい方にも大きい方にも、円は順次に描かれてゆき、無限に無限に伸展してゆくのであります。
 これがイヤヒロの原理であります。
 大きいものをイヤヒロドノして、十分の一・百分の一・千分の一・万分の一・・・・・のものにすることもできるし、反対に小さいものをイヤヒロドノして、十倍・百倍・千倍・万倍・・・・・のものにすることもできるのであります。
 地図・模型、設計図等々はその例であります。また顕微鏡や望遠鏡はイヤヒロドノするための器械であります。
 イヤヒロの意義は無限であって、第一次元・第二次元・第三次元・第四次元・第五次元・・・・のすべてにイヤヒロがあるのであります。
 オノコロジマの中心軸に立って、自由自在のイヤヒロを行うところに、無限創造の始元があるのであります。
 天の御柱が即ち八尋殿となって、全大字宙のすべては螺旋状の相を描いて無限に伸展してゆくのであります。

11-1

ここに そのいも いざなみのみことに ながみは いかになれると とひたまへば 
於是問其妹伊邪那美命日  汝身者如何成

あがみは なりなりて なりあはざるところ ひとところあり と まをし たまふ 
答目吾身者成成不成合處一處在

いざなぎのみこと のりたまひ つらく 
爾伊邪那岐命詔

あがみは なりなるて なりあまれるところ ひとところあり
我身者成成両成除處一處在
かれ このあがみのなりあまれるところを ながみのなりあはざるところに さしふたぎて
故以此吾身成剰處            刺塞汝身不成合處而

くにうみなさむ と おもふは いかに と のりたまへば
以爲成國土生奈何

いざなみのみこと しか よけむ と まをし たまふ
伊邪那美命答日然善

 岐美二神が一つの天沼矛の姿をとったのでありますが、その天沼矛の中心柱が引き上げられた後に出来たオノコロジマは凹形で女神相に当然なるのであります、又引き上げられた中心柱のある側は凸形で男神相にこれもまた当然の結果としてなるのであります。
 凹凸の二相は天沼矛より発生する陰陽の相で必然の結果なのであります。
 相対の両極に振り分けられた表現のすぺてがこれに当たるのであります。
 成成は生生であり、鳴鳴であって、言霊であります。
 鳴り合わざるとは、口を一杯に開いて発音する関口音のアッで凹形であります。鳴り余れるとは、口を閉じて発音する閉口音のウ−で凸形であります。
 アッウ−ンは天地の呼吸であり、生命の源であり、天地萬有の発生の根元であります。

 國とは物質構成を本位に立てたクギリクギリの組織紋理を指し、有形の構成であります。
 萬神石生萬有を有形的に観ると、その容相・体裁そのものが國でなのであります。
 人体も人の国なのであります。
 生むとは大神の分身として生まれるということなのでありまして、大神によって作られた別個のものという意味ではないのであります。
 だから始めからすべては大神の分身・大神の御子・大神の愛子(いとしご)であるのであります。
 刺塞く(サシフタグ)とは、刺すが自己のすべてを相手に与え尽くすことで、塞ぐが相手のすべてを受け入れて隙間の無いように密着させることだから、双方からピッタリーつに融合することであるのであります。
 これは岐美二神の神聖恋慕のひたすらなる愛の力によるものであるのであります。
 これによって双方の保持する相対のすべてが密接に組み合わされて、無限の妙趣ある創造がなされるのであります。
 然善(シカヨケム⇒はい、それが善いでしょう)には、二神相互の礼拝があるのであります。
 それが善いことであって、応諾してくれるのは判り切っていても、独断の行為が無<、必ず相手に応話を求めるのは、相手を尊敬しているからなのであります。
 また直ちに応諾があるところに、純情があるのであります。
 何らの疑念も顧慮も無いところにこそ、相手を敬愛している心がそのまま現れているところにこそ、純情が輝くのであります。

13-1

ここに いざなぎのみこと しからば あ と な と 
爾伊邪那岐命 詔然者 吾與汝

この あめのみはしら を ゆきめぐあひて みと の まぐはひ せな と のりたまふ
行廻逢是天之御柱而         爲美斗能麻具波比


 天之御柱(あめのみはしら)とは、唯一無二絶対の信仰の中心点なのであります。
 それは天之御中主神の御心でなければならないのであります。天之御中主神の御心をそのままに生きる、即ち天之御中主神の御心のままに行き廻り違うのであります。
 正しい信仰の中心点をしっかりと確立する、即ち 無我 無心 純真 無垢 の 素直な心になって、天之御中主神の御心にしっかりと随順することなのであります。
 中心が幾つもあっては、中心争いが起こって、すべてはバラバラに崩壊してしまうのであります。
 必ず心を一つにするための絶対不動の中心を先ず定めて進むことが大切なのであります。
 どんな事業を行う場合でも、心を一つにして、その目的に向かって助け合わなければ、何事も成就しないものであります。
 ましてや全大宇宙の無限創造という最大の事業を推進してゆくには、自分勝手なことは微塵も許されるものではないのであります。
 仮にお互いの意見を尊重し合って、善いとこ取りで纒め上げても、それが最高最善のものにはならないのであります。
 況んや多数決で決定するものに、大して善いものは生まれないのであります。

 最高最善のものにするためには、必ず天之御中主神の絶対の叡知に心を向けて、それに素直に従うことが必要なのであります。
 ここに無限に深い祈祷が、すべてのすべてを天之御中主神の現れと観る礼拝が、必然的に強く強く求められるのであります。
 天之御柱こそは、岐美二神がどんな場合にも心を一つにすることのできる、和合の妙諦を保っているものであります。


 美斗能麻具波比(みとのまぐはひ)とは、岐美二神のミウムスビの深刻なる作法であります。
 相対の両極に振り分けられたすぺてを、双方の全てを与え尽くし合うことによって、融合一体化することであります。
 霊系と体系との二者一体の不可分雌の交合をいうのであります。
 霊魂がその全部を肉体に捧げ尽くし、同時に肉体がその全分を霊魂に捧げ尽<して、二者一体となることであります。この霊魂と肉体とのミトノマグハヒが、創造神業における最も霊妙なるものであります。
 双方が自己のすべてを捧げ尽くし合うとき、彼我一体観が成立するのであります。
 我は全く彼のものでありまして、彼は全く我のものであります。
 そこには我なく、しかも全部が我であります。そこには彼なく、しかも全部が彼であります。
 彼と我とは二つにして、不可分雌な一つなのであります。
 この一つは我であり、同時に彼であります。この一つは我に非ず、同時に彼に非ずであります。
 純粋な与え尽くし合いによる彼我一体が、ミトノマグハヒの作法に基づく真実の姿であります。
 これが神聖恋慕、愛の極致なのであります。


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