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ふることふみにようこそ! 人目の訪問者です。参考文献、引用等は、水谷清 先生 著 古事記大講 です。
ふることふみ(古事記)
あめつち はじめ おこるのとき たかあまはら に なりませる かみの みなは あめのみなかぬしのかみ
51-1
いやはてに その いもいざなみ の みこと み みづから おひきましつ すなわち
最後 其妹伊邪那美命 身自追來焉 爾
ちびきいは を そのよもつひらさか に ひきさへて そのいはを なかにおきて
手引岩 引塞其黄泉比良坂 其石 置中
あひむき たたして ことどを わたすときに いざなみ の みこと まをし たまはく
各對立而 度事戸之時 伊邪那美命 言
うつくしき あが なせの みこと かく したまはば みましの くに の ひとぐさは
愛我那勢命 爲如此者 汝國之人草
ひとひ に ちかしら くびりころさむ ここに いざなぎのみこと のりたまはく
一日絞殺千頭 爾 伊邪那岐命 詔
うつくしき あが なにもの みこと みまし しか したまばば
愛我那邇妹命 汝爲然者
あれは ひとひに ちいほうぶやを たてん
吾一日立千五百産
ここをもて ひとひに かならずちひと しに ひとひにかならず ちいほひと うまるるなり
是以 一日必千人死 一日必千五百人生也
千引岩:綱を千人で引くほどの重い岩。転じて、いかなるカをもってしても、動かす
ことのできない不動の岩。生と死の間には厳然たる境界があって、一切のも
のは生か死のどちらかに属さなげれぱならないのである。この境界となって
いる絶対の力を千引岩というのである。顕界と幽界の境界、即ち黄泉比良坂
にこの千引岩が存在しているのである。
其石 置中:岐美二神がこれから顕界と幽界との間に、不磨(永遠に磨滅しない)の
条約を締結せんとするに当たり、千引岩を真中に置いて行うという意味
は、絶対の力に従って、即ち天神諸命以て執り行なわれるということな
のである。微塵の我を出すことも決して許されないのである。
度事戸:戸(守るべき)、事(大切な条約)、度(相談する)
これから双方が守るべき、大切な不磨の条約を決定するに当たり、岐美二神
自らが乗り出して、全権(完全な権力)をもって相談するわけである。
顕界と幽界の双方の一切の月神万生万有の将来の運命を決定する重大な条約
を締結することになるのである。
岐美二神が「愛我那勢命」「愛我那邇妹命」と呼び合うのは、永遠に変わることのない神聖恋慕に基づく必然の愛の言霊であります。岐美神は永遠に一体の妹背(愛し合う女神と男神)なのであります。従って顕界・生・光明は二神よりの発現であり、同時に幽界・死・暗黒も二神よりの発現なのであります。顕幽・生死の二界が対立して、熾烈な闘争が繰る広げられるように見えていても、実は生死一如の創造神業の必然の経過であります。生は死を離れては成立せず、死も生を外にしては存在しないのであります。生死は本来一体にして、生死一如は永遠の涅槃(悟り)の妙諦なのであります。
52-1
顕界と幽界とは一切が反対になっているのであるが、顕幽両界を一貴して循環しているものは、大神さまの大慈大悲の御心であります。幽界から言えば、殺すことは活かすことなのであります。顕界の人を殺すということは、幽界において活かすということであります。限られた空聞においては、新しい家を建てるためには古い家を壊さなければならないように、新しい人を生み出す場合にも同じことが言えるのであります。顕界に新しい人を生み出すために、必要性の少なくなった古い人を幽界に引き取り、その汚れを清め、傷みを修復するわけであります。汚れを清め、傷みを修復するということは、これまた大きく活かす働きであるのであります。一例として、動脈を顕界、静脈を幽界と見て考えれば、動脈血は酸素を与えると見れば、静脈血は炭酸ガスを奪うのであります。この与奪のすがたの中を賞して流れているものは、善きものを与えるという神さまの愛であります。何故なら、静脈血が炭酸ガスを奪うのは、悪しきもの・汚れ・マイナスを取るということであって、逆に見れば善きものが与えられたのと同じ結果になるからであります、殺す大悲は清新なる活きる創造の源となるのであり、古いものを新しいものに置き換える、天地一新・万物新生・新陳代謝の愛の働きであります。伊邪那岐命が活かそうとすれば、伊邪那美命もまた大きく活かそうとするのであります。
相対のすべてを、この活かすことと殺すことの関係に当てはめて見ることができるのであります。生死・善悪・美醜・真偽・・・について、伊邪那岐命が生・真・善・美・・を発揚せんとすれば、伊邪那美命もまた生・真・善・美・・(幽界においては死・偽・悪・醜・・)を大きく発揚せんとされるのであります。宇宙の二大対流は一大調和のための循環なのであります、絶対より出たものは、必ず絶対に帰るのであります。絶対の極に立って大観する時、相対のすべてが光一元に無限の無限の大光明燦然と輝いているのであります。
生と死の間に、何らかの取り決めを定めておくということは、生死一如・生死調和の表現にとって必要不可欠なことであります。生と死のどちらに優先権を与えるか? 生と死の数量に適当な限定を加える必要が有るのか無いのか? 等々。もしも死を避けることのできないものとするならば、生を更に一層強く、更に一層優れたものとして発揚してゆこうというのが、岐美二神の大御心なのであります。人口も自然に調和した姿で増加してゆくというのが本来の姿なのであります。その為には先ず、神さまの御心に素直な、敬虔な、清浄な心になるということが、調和した姿をとるために必要であります。業想念の奴隷になって、色情に負けて、多産の姿をとっても、これは神さまの理想とするところからは程遠いものであります。いくら“子は天からの授かりもの"と言っても、その受け方には千差万別の違いがあるわけであります。千頭の頭の意義は人のことだけでなく、表現されたすべてをも指し示しているのであります。
52-2
かれ その いざなみ の みことを よもつ おほかみ と まをす
故 號其伊邪那美命 謂黄泉津大神
また かの おひしきし に よりて ちしき の おほかみ と もまを
亦云以其追斯伎其而 號道敷大神
また その よみの さかに さやりしいしは ちがへしの おほかみ とも まをし
亦所塞其黄泉坂之石者 號道反大神
また さやります よみどの おほかみ とも まをす
亦謂塞坐黄泉戸大神
かれ その いはゆる よもつひらさか は いま いづものくにの いぶやざか と なもいふ
故某所謂 黄泉比良坂者 今請出雲國之伊賦夜坂也
黄泉津大神 :黄泉国(死の国)の大王。地獄の閻魔大王。
道敷大神 :追斯(おいしく)は追い及く(しく)・敷く(しく)である。
及くは追いつく、敷くは広くむらなく行き渡るという意義。
道を追いつく、道を占拠するという意義。
追って追って追求の最後の極まで追い迫ること、生のどん底まで死が迫る
こと、顕のどん底まで幽がひしひしと逼迫することである。紙一重の隔て
も無いほどの極限にまで到達すること。離れていた生と死が、生死一如・
顕幽一如の状態にまで到達することである。
塞る(さやる) :道を遮って通れなくする、欠けているところを満たす。
道反大神 :どん底まで追い込んで、極点にまで達しているとは言っても、顕幽の境界
には厳然と入るのを許さない関所が存在しているのである。どんなものが
やって来ても反転させる無限の力を道反大神という。
塞坐黄泉戸大神 :黄泉国には死・偽・悪・醜が溝ち渡って、顕界のどん底にまで逼迫
してきているのである。その入口に立つで、境界・関所を守ってい
る偉大なる神さまという意義。
出雲國之伊賦夜坂 :出雲國は顕界である。そこは神の威光と武(愛)の力が満ち渡り
いや(いよいよ、ますます、無限に伸展)さかあ(栄え)の状態
なのである。
生が美しい(愛)ものであるならば、死もまた美しい(愛)ものなのであります。「死」を達観できない所から、死を恐怖し、忌み嫌うのであります。生死不二・生死一如を達観することによって、一切の苦悩が消滅するのであります。大神さまの「愛」を、心の眼(活眼)をしっかりと開いて見極めることが大切であります。
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