延命十句観音経(えんめいじゅうくかんのんきょう)の古神道解釈(こしんとうかいしゃく)
 
  観世音(かんぜおん) 南無佛(なむぶつ) 
  余佛有因(よぶつういん) 余佛有縁(よぶつうえん)
  仏法僧縁 (ぶっぽうそうえん)常楽我浄(じょうらくがじょう)
  朝念観世音(ちょうねんかんぜおん) 暮念観世音(ぼうねんかんぜおん)
  念念従心起(ねんねんじゅうしんき) 念念不離心(ねんねんふりしん)

 観世音(かんぜおん) 南無佛(なむぶつ):観世音(かんぜおん)とは大慈大悲救世音菩薩(だいじだいひぐぜおんぼさつ)、略(りゃく)して観世音(かんぜおん)菩薩(ぼさつ)又(また)は観自在菩薩(かんじざいぼさつ)、
 
観自在菩薩(かんじざいぼさつ):  

   自在(じざい)(自(おの)ずから存在(そんざい)するもの、即(すなわ)ち絶対神(ぜったいしん)の全(ぜんとく)の無限(むげん)の無限(むげん)の輝(かがや)きが一杯(いっぱい)!)を観(かん)ずる(本心(ほんしん)の目(め)でしっかりと見(み)る)菩薩(ぼさつ)(真理(しんり)を体得(たいとく)し娑婆(しゃば)世界(せかい)に遊(あそ)ぶ者(もの))、即(すなわ)ち本当(ほんとう)の自分(じぶん)・本心(ほんしん)の自分(じぶん)・いのちの自分(じぶん)・霊魂魄(れいこんぱく)の霊(れい)なる自分(じぶん)、神(かみ)なる自分(じぶん)。 よく言(い)われる観音(かんのんさま)のこと 

南無佛(なむぶつ)

  南(なむ)は帰命(きみょう)(命(いのち)を投げ出(なげだ)して神(かみ)さまと一体化(いったいか)する。深(ふか)く祈(いの)る、一心不乱(いっしんふらん)に祈(いの)る)。
佛(ほとけ)とは、深(ふか)く祈(いの)る、一心不乱(いっしんふらん)に祈(いの)る。 とらわれの無(な)い自分(じぶん)自由(じゆう)自在(じざい)なる自分(じぶん) 本心(ほんしん)の自分(じぶん)、命(いのち)生き生(いきい)きと輝(かがや)かした自分(じぶん)
  
余佛有因(よぶつういん) 余佛有縁(よぶつうえん)

 余佛有因(よぶつういん):

  すべての始(はじ)まりは佛(ほとけ)に有(あ)り
 
余佛有縁(よぶつうえん):

   すべては佛(ほとけ)の生命(せいめい)の現(あらわ)れ

 仏法僧縁(ぶっぽうそうえん):

   この世(よ)の全(すべ)ては御仏(みほとけ)のひびきそのものである。すなはち、神(かみ)さま以外(いがい)に存在(そんざい)するものは無(な)い。

常楽我浄(じょうらくがじょう):

  本来(ほんらい)因果(いんが)の神(しんせい)を、全(すべ)てのひとは、もっている。


     過去(かこ)を捨(す)て、つまり、現実に執着せず、現実無視出来る、具体的には、神さまの完全円満完璧大調和を信じることができて、どんなマイナスに見えることが起こっても、ああ、神さまが一番良いようにされているとありがとうございますと感謝で受け止めることができる状態になること、それを、一瞬(いっしゅん)一瞬(いっしゅん)新(あら)たに感謝(かんしゃ)で受け直(うけなお)す事(こと)のできる人という、そういう真(まこと)の神さまに、一切を任せきることができる人は 一切(いっさい)の過去(かこ)、宗教(しゅうきょうてき)因縁(いんねん)等(とう)、一切(いっさい)の、囚(とら)われのない、真(まこと)の自由(じゆうじん)となれるのです。
 
朝念(ちょうねん)観世音(かんぜおん) 暮念(ぼうねん)観世音(かんぜおん):

  それ故(それゆえ)に、一瞬(いっしゅん)一瞬(いっしゅん)あらたに感謝(かんしゃ)で受け直(うけなお)して、新生(しんせい)しつづけるのです。日日(ひび)瞬瞬(しゅんしゅん)。
 
念念従心起(ねんねんじゅうしんき) 念念不離心(ねんねんふりしん):

  過去(かこ)に囚(とら)われ、くるしむ事(こと)の無(な)い様(よう)、ひたすら、一瞬(いっしゅん)一瞬(いっしゅん)新(あら)たに観音(かんのん)さまを思(おも)いつづけるのです。感謝(かんしゃ)のこころで・・・・
ありがとうございます。と、唱(とな)えながら・・・。このように いつも確認(かくにん)をいっぱいして来(き)てます。普通(ふつう)観音(かんのん)さまから何(なに)を与(あた)えられてるか気(き)づいて無(な)いのがいっぱいあります。だから何(なに)を気(き)づいた方(ほう)が良(よ)いか、言葉(ことば)にすることが大事(だいじ)です。
私(わたくし)も色(いろ)んな言葉(ことば)を使(つか)って確認(かくにん)して来(き)てます。その1つが「新(あら)たな全(ぜん)徳(とく)の無限(むげん)の無限(むげん)の輝(かがや)きがいっぱい」です。
 
 
 
今(いま)7つ繰り返(くりかえ)してる言葉(ことば)があります。
 
 1つは「いつもいつも大難(だいなん)を無難(ぶなん)にし、無限(むげん)の無限(むげん)のマイナスを免除(めんじょ)して下(くだ)さって、ありがとうございます」。
 
 2つ目(め)は「いつもいつも無限(むげん)の無限(むげん)のプラスを新(あら)たな全(ぜん)徳(とく)の無限(むげん)の無限(むげん)の輝(かがや)きを与(あた)えて下(くだ)さって、ありがとうございます」。
 
 3つ目(め)は「いつもいつも無限(むげん)の無限(むげん)の感謝(かんしゃ)の心(こころ)を湧(わ)き上(あ)がらせて下(くだ)さって、ありがとうございます」。
 
 4つ目(め)は「いつもいつも無限(むげん)の無限(むげん)のプラスを神(かみ)様(さま)の最高(さいこう)表現(ひょうげん)を感受(かんじゅ)させて下(くだ)さって、ありがとうございます」。
 
 5つ目(め)は「いつもいつも無限(むげん)の無限(むげん)の感謝(かんしゃ)の真(しん)祈(いの)りを祈(いの)らせて下(くだ)さって、ありがとうございます」。
 
 6つ目(め)は「いつもいつも無限(むげん)の無限(むげん)の神(かみ)様(さま)の最高(さいこう)のお手伝(てつだ)いをさせて下(くだ)さって、ありがとうございます」。
 
 7つ目(め)「いつもいつも無限(むげん)の無限(むげん)の神様(かみさま)との一体感(いったいかん)を実感(じっかん)させて下(くだ)さって、ありがとうございます」
 
 まだ足(た)りないと思(おも)います。その7つの与(あた)えられたものに対(にたい)して、どれだけ感謝(かんしゃ)出来(でき)ているかお礼(おれい)出来(でき)てるかが大切(たいせつ)だと思(おも)います。中々(なかなか)お礼(おれい)の感謝(かんしゃ)は追(お)いつかないです。
 「ありがとうございます」唱(とな)え続(つづ)けても追(お)いつきません。本当(ほんとう)はもっともっと与(あた)えて貰(もら)っています。「ありがとうございます」唱(とな)え続(つづ)けることで観音(かんのん)様(さま)からの気(き)づきがもっともっと増(ふ)えてくる筈(はず)です。「無限(むげん)の無限(むげん)の幸(しあわ)せがいっぱい」となるのです。感謝(かんしゃ)の心(こころ)も自分(じぶん)が起(お)こしているのでは無(な)く、観音(かんのん)様(さま)が起(お)こさせて貰(もら)ってるのです。みんな観音(かんのん)さまからが良(よ)いです