27与える心と絶対奉仕

 

神さまはみんなの幸せのために、自分のすべてを与えて与えて与えつくすことによって自他一体感「愛」を成就し、愛の表現を完成させているのです。人間も本心開発に比例して、神さまの愛の心をより一層輝かし、自分をより多く与える生き方に変化してゆくのです。幾ら他から奪っても奪っても自分の器に入るだけのものしか残らないのです。その愚かさに気付けば、与える生き方を必ず選ぶようになるものです。神さまの愛「自他一体」の働きによって、与えて空っぽになったところへは必ず神さまの愛・知恵・生命・喜び・豊かさ・幸せ・感謝等々が大きく流れ入ってくるのです。与えれば与えるほど、神さまからはより多く与えられ、更により多くのものを与えられてゆくのです。その循環の速度が速くなればなるほど、その人の幸せは無限に大きく深いものになってゆくのです。ありがとうございます

 

 神さまの御心は、世界の平和とみんなの幸せを実現することです。従って世界の平和とみんなの幸せを祈りながら、粉骨砕身・いのちをも捧げて奉仕することが、神さまへの本当の奉仕になるのです。自分の思い通りにならないからと言って、他を責め裁く心が、戦争の根本原因になっているのです。相手の気持ちを生かそうとしない不和の心が、みんなの幸せを破壊する根本原因になっているのです。だから自我の心を死に切って、本心の心を生き切ることが、神計らいによる本当の奉仕になるのです。

 

 本心の自覚が無い人にとっては、業想念も心から本心の心に戻る為には、粉骨砕身・身を粉にして働くことが、一番の方法です。世の為・人の為に、真剣に働くことが、必要なのです。

 

 心に業想念が残っている間は、人への奉仕は、自分の業想念を相手に背負わせる、マイナスの行為なのです。先ず自分の業想念を、神さまへの奉仕によって、消し去ってもらうことが大事なのです。そうすれば人への奉仕も、幸せを与えるプラスの行為になって来るのです。神さまへの奉仕を忘れたら、折角の善意の働きも、マイナスになるのです。

 助けられて喜ぶ生き方から、助けて喜ぶ生き方に変化しなければ、心の苦しみハ絶えないものです。

 

 一切の報いを求めない、純粋な報恩(恩返し)の心で、神さまに対して、自分のすべてを捧げ尽くしてゆくことが、与える心の極致を生きることになるのです。至忠至孝至悌の心で、神さまへの絶対奉仕に生きることこそが、真実に与える心を生きていることになるのです。この生き方になってこそ、無限の無限の幸せで一杯になるのです。一日も早く、一刻も早く、この真実の生き方に戻ることが大事です。神さまの御心をこの世に現す為に、神さまが何を願い・何を必要としているかを、しっかりと察知して、率先垂範して実践躬行(きゅうこう)することが、真実の与える心を生きることなにです。

 

 徹底して与える心を実行することが大事です。与えて与えて与えつくせば、必ず本心の自分が湧き出て来るのです。与え尽くす生き方によってのみ、神さまと交流できるのです。どんな場合でも、行き詰る根本の原因は、求める心を生きて、自己内在の神の力を発揮しないからです。

 

 求める心は、他に善き姿を求め、それが不足すれば、責め裁く心になるのです。与える心は、他の悪しき姿を見ても、自分の心の反省材料にして、愛深くなるのです。求める心を捨てて、与える心を生きることが、本心開発の道です。過去世から積み重ねて来た無限の業想念(求める心)を消し去ってもらう為にも、本心の(与える心)を積極的に・前向きに生きなければならないのです。与える心を起こさなければ、どんな助けも受けることはできないのです。一切の報いを求めないで、与え尽くす心になれば、神さまの無償の愛の助けに波長が合って、その助けを大きく受け入れることができるのです。

 

 与え尽くす心(本心)を積極的に生きて、受ける時は、すべてを神さまから受け直すことが大事です。神さまから受け直すことを忘れていると、他との貸借関係に縛られた自分(業想念の心の自分)に陥るものです。他からの借りが多くなると、業想念の縛りが強くなって、お祈り(感謝)がしにくくなってくるのです。本心開発を目指す者にとっては、すべてにおいて常に、他から受ける量よりも、他に与える量を多くしてゆくことが、何よりも大切な生き方です。

 

 少しでも報いを求めたら、『求める心』を起こしたことになるのです。『ギブ・アンド・テイク』の心も、与えることによって何かを期待する心も、純粋な『与える心』からは程遠いのです。人は常に自分の心に波長の合う世界と交流することになるのです。純粋な与える心を起こせば、神さまの世界と交流できるのです。そして神さまの助けを大きく受けて、極楽世界を現すことができるのです。求める心を少しでも起こせば、業想念の世界と波長が合って、地獄世界を現すことができるのです。自分を求めている所へゆくのも、自分を必要としている所へゆくのも、「自分を必要としてほしい」という求める心が隠されているのです。どんな求める心も、神さまの御心とは、波長が合わないのです。神さまの御心に波長を合わせる為には、純粋な『与える心』を起こす必要があるのです。特に神さまに対しては、自分を必要としてほしい・自分を認めてほしいというような、求める心を微塵も起こしてはならないのです。

 

 神さまを愛することは、無条件で・無償で自分を与え尽くしてゆくことです。神さまを愛することによって、神さまと一体化してゆくのです。先ず神さまを愛することから始めなければ、他の何ものをも真実に愛することはできないのです。自我の求める心は常に、自分を必要としてほしい、自分だけを愛してほしい、と願うものです。だから自分に執着してくれる人に、自分を好きだと言ってくれる人に引きつけられてゆくのです。自我の心と自我の心が交流し合えば、自我の心が増幅してゆくだけです。真剣に神さまとの交流をしてゆかなければ、業想念の心から抜け出せなくなってしまうのです。

 

 愛する心と執着する心とは、正反対の心です。愛する心は本心の心です。執着する心は業想念の心です。愛する心は、与えるだけの心です。執着する心は求める心・思い通りにしたい心です。愛する心は、相手を自由に解放する心です。執着する心は、相手を縛る心です。人は先ず神さまを愛することによって、神さまの愛を大きく受けて、他を真実に愛することができるようになるのです。

 

 報いを求めないで、与え尽くす心になれば、必ず誰でも、謙虚な心になって、感謝の心が深まるのです。与え尽くす心を積極的・前向きに生きれば、求める心は消え去ってゆくのです。本心(光)が輝けば、業想念の心(闇)は消え去るのです。

 

  溜まりに溜まったゴミの山を、自分で焼却するのは大変です。無限の業想念を、自分の中で消し去ろうとすれば、七難八苦の苦しみを味わうのです。救済の神々(集塵車)に預けて、絶対神の御心(焼却炉)の中で、消し去ってもらうことが、一番楽な方法です。喜んで喜んで、感謝一筋に、神さまへの絶対奉仕に生きれば、自他共に持つ無限の業想念を、短期間に消し去ってもらえるのです。神さまを無視した生き方では、業想念が消えないので、どんな生き方も回り道(遠回り)になるのです。

 

  絶対の帰一・随順・奉仕とは、神さまの最も奥深い・中心の・根源の大御心への帰一・随順・奉仕です。また自我の心であれこれと理屈付けてするのでは無くて、本心の愛の心で・一体の心で・喜びの心で、無条件で帰一・随順・奉仕することです。

 

 ボランティアの活動に生きようと願う者は、

(1)   過去(過去世)の借金返しの為に、

(2)   他に迷惑をかけないで自立する為に

(3)   余力をもって他を助ける為に少なくとも3人前以上の仕事をこなす必要があるのです。

 

真のボランティア(奉仕者)として、神さまに奉仕しようとする者は、能力を高め、スピード化して、仕事の量をこなさなければならないのです。与えて与えて与えつくす生き方を徹底すれば、本心の自分は大きく輝いて来るのです。自己内在の神の力・無限の能力が湧き出てきて、必ず十人前以上の仕事が出来るようになるのです。

 

 神さまへの絶対奉仕は、

(1)   謙虚な心で

(2)   必要なことを

(3)   素直に

(4)   真心込めて

(5)   全力を尽くして

(6)   行き届いて

(7)   喜んで

(8)   感謝を深めて

(9)   報いを求めず

自分のすべてを、神さまの為に与えつくしてゆくことです。

そうすれば必ず神さまは、どんなマイナス(無限の業想念)をも引き受けて、無限のプラスを与え帰して下さるのです。

 

 本心の心の自分に戻りさえすれば、神さまへの絶対奉仕に生きることが、一番の幸せであると、自然に思えるのです。

 

ありがとうございます